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アドベントエッセイ(126/365) おっくうな途方のなさ

早いものでクリスマスまであと239日を切った。

どこよりも早いアドベント企画、126日目は、「途方もなくなる」話。


たまに、当たり前のように通り過ぎていたものの前で立ち止まってしまうことがある。


例えば、都心に立ち並ぶ高層ビル。


一人の人間が、会社を立ち上げて、地道に利益を出して、会社を大きくしていって、小さいオフィスからだんだん拠点が大きくなり、働く人も増え、大量の社員が生活できるように計らい、巨大な土地を買い、巨大なビルを立てる。


こんなことを成し遂げるために、いったいどれだけの時間がかかるのか。とても、一人の人間が始めたこととは思えない。途方も無い。


一棟だけでも途方ないのに、それが都会には何千本も立っている。途方も無さすぎる。


たとえば、公民館の壁とかについてる、色あせた手すり。


最適な素材を人工的に生み出して、正しい形に加工するどでかい機械を作り、仕上げて、建築資材に採用して貰えるようにあらゆる契約を整えて、ようやく建物に実装された手すりが、数十年も残っている。途方もない。



たとえば、廃屋の割れた窓ガラス。何十年も前、この建物にも確かに新築だった時があって、この割れた窓ガラスだって、初めて包装から出したピッカピカの状態があったはずで、そんなまっさらの鏡を、慎重にこの場所にはめた人間がいたのだ。途方もない。



上手く言葉にできないのだが、今目の前にあるものが、「その場所に収まるまで」に、一体どれほどの過程と、どれほどの数の人間が関わってきたのかを考え始めると、もうなんか、人の営み全てが途方もなく思えるのだ。



途方もなさを示す単位の1つに、「劫(くう)」というものがある。劫は仏教における時間の単位で、1劫は


7km四方のサイズの岩山の上に、100年に1度天人が降りてきて、羽衣で岩山をファッサーと1度だけ撫でる。その摩擦で岩山が無くなるまでにかかる時間


だという。途方もない。


つまり、億劫(おっくう)は、劫を1億回繰り返すレベルで面倒臭いという意味なのだ。


初めてこの話を聞いた時は、仏教の時間感の極端さに笑ったものだが、



今日書いたみたいなことを考え始めると「人間のリアルな営みだって、大概途方もないよな」と思う。

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