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次なる「正統」を生み出すのは今の本流に対する「批判性」と時代を生き抜く「感度」

とある書店で、思いかげずジャケ買いした本があります。

「深い気づきをくれる本」というのは、こういった何気ない出会いで、軽い気持ちで手に取った本だったするんですね。

ちなみに私が本を買うときは「Amazonで指名買い」が半分。
残り半分は本屋をぶらぶらして、その時の「心が呼んだもの」を衝動買う場合が半分です。前者は狙ってピンポイントで買うので中身的に外すことは希ですが、後者は外すリスクがある代わりに大当たりする事が多いですね。また、それらは自分が目の前で取り組んでいるものとは直接的に関係の無いものが多かったりするので、分野・業界を跨いだ相似形の発見というのはこの世の心理、本質を発見する手がかりになるので大好きです。

この「心が呼ぶ」というのが今回書きたいことの本筋なんです。さて、このたまたま手に取った物理的に小さく薄いこの書籍で、とにかく刺さる内容が多かったのですが、今回参照したいのはこの珠玉の一文です。

” 安藤(忠雄)さんに限らず、建築史を見ると、そのときの本流に対する批判性が、絶えず次の世界を作ってきたことがわかります。
「次なる正統」とは、「今」という時間の渦の中で生き延びていく「感度」のことでもありますが、安藤さんは本流の外から来た人だったから、逆に「今」に一番敏感でいられたのだと思います。 (隈研吾)"

建築家、隈研吾について

そもそも「建築」は私の専門分野でもないですし、ものすごく好きで詳しいかと言われるとYESとは言い難いのですが、「建築」という人の寿命よりも長くレガシーとしてこの世に残り続ける佇まいに、心動かされた経験はやはり1回や2回ではないのですよね。

建築に詳しくない方でも「隈研吾」の名前は聞いた事があるんじゃないかと思います。やたらと「木」を使いたがるイメージがあるかもしれませんし、最近では「新国立競技場」で賛否が起こった事も記憶に新しいですが、あらためてこういった自身の言葉で語る思想が書かれた書籍に触れると、いかに彼が深い建築感や歴史感を持って、建築と向き合っているのか。なぜアンチコンクリートで「弱い建築(彼の代表的なものが木材を使う事)」を標榜していて、それがどんなロジックと感性によって紡ぎ出されているのかがスッと落ちてきますね。隈研吾、素敵なんです。

"「次なる正統」とは、「今」という時間の渦の中で生き延びていく「感度」"

彼の建築や思想から、先に触れた「今の時代に対する感度」というものの重要性とをあらためて感じ取っています。

建築も、政治も、ITだって、本当に良い「仕事」をしようと思ったら、しっかり腰を据えて、短期ではなく「中長期」で物事を見ないといけないんですね。しかし、どう動いたって、足元は小波大波がやってきます。でもそんな目先の外乱にぶれる事なく、「今を生きる感度」からブレないビジョン、信念を持つ事。コレときめたら、その信念に沿って長い目でやり抜く事。やや抽象的なんですが、やっぱりこれだよなってこれを書きながらもウンウン唸っています。

じゃぁ「感度」って何だって話なんですが、それはやっぱり、「脳と心をいかにクリアな状態に保てるか」ってことなんじゃないかと思うに至ります。裏を返すと、今の時代これが本当に大変なんです。常に手元にはスマホがある。スマホは「能動的メディア」のようで、ガラケー時代から比べると圧倒的に「受動メディア」になりました。それは「タイムライン」というUI/UXの発明や、通信速度と技術革新による「動画」と「リコメンド」の最強タッグによって、おおよそテレビに近しい受動性を確立するに至っていると思います。そうすると、一度スマホのロックを解除すればもう圧倒的情報量が常に脳と心を支配する感じですね。映画「マトリックス」の世界ように明示的に"アチラの世界"を行ったり来たりはできないですが、脳と心だけを除けばほぼ同じような事が全人類において起こり始めています。そして、AR/VRの進化も不可逆ですから、このトレンドというのは加速し続けます。

かつ、コロナだ、異常気象に自然災害だ、となっているわけですから、それはそれは脳も心も、意識的にスリープモードへ持っていたっり、スペースを開ける努力をしないと人間本来が持っている「感度」を取り戻すことなんてできません。瞑想・座禅・マインドフルネスみたいのがもてはやされる背景には、あらためてこういった時代背景があるんですね。だからこそ、この「感度」を高め続けることこそ、AIに取って代わられない人類が保存すべき最重要なファンクションだと、自分の中で位置付けています。

イノベーションは専門の外からやってくる

もう1点、先に引用した隈研吾さんの一文で好きなのがこの箇所なんです。

安藤さんは本流の外から来た人だったから、逆に「今」に一番敏感でいられたのだと思います。

安藤さんとは安藤忠雄さんで、有名ですが彼は元々ボクサーで、正統な建築教育を受けてきた人ではないんですね。本書ではさらに引用していますが、コルビジェやフランク・ロイド・ライトも同様に、専門外からやってきたアウトサイダー。

私は性分的に飽きっぽいのか、一つの分野に深く長くというのがどうしても得意でないというのもありますし、天邪鬼的な気質があることは否めないんですが、敢えて「感度」という視座を借りてポジショントークすると、どうしても一つの専門にどっぷりハマってしまうと「本質」や「次なる正統」に対する感度が鈍ってしまう気がするんですよね。リフレーミングしづらくなるというか、その業界/専門の固定概念という重力にひきづられてしまうというか。

また、はじめにも書きましたが「分野・業界を跨いだ相似形の発見というのはこの世の心理、本質を発見する手がかりになる」という思考のツールを多様する自分もいて、これを使いこなすには、やはり「アウトサイダーであるがゆえの感度、違和感」というのが、最強の武器になるんです。ですから、常々私は専門家でありたくないなと思っています。さらに専門家として自信を深めるほど、他人の意見に対して謙虚になれなくなりますよね。知識も浅いくせに一言物申してくる輩に対して、常にファイティングポーズを取って力でねじ伏せたり、マウンティングしてしまうんです。わかりやすい具体例が広告業界の蹴鞠の話ですが、こうなってしまうと「外から新しい視座」をもらうというオプションすら放棄することになりますし、何よりその分野の村化を促進し、発展やスケール・新陳代謝や世代交代を妨げることになりますよね。

"常に時代感度の高いアウトサイダーでいること"

些細な心がけですが、こういう心持ちで、今という時代を歩いていけば、何か自分にしかできない大きな価値を世の中に残せるんじゃないかと思いながら、今日も走り続けています。

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