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告解

''幸せですか?''


夏の匂いを遺したまま、どこか哀愁漂う夕景を浮かべた9月下旬の津田沼駅前。


駅から徒歩5分の所にある予備校に向かっていたぼくは、西口を出て直ぐのモリシアの広場の前で2人組の中年女性に唐突に声を掛けられた。



あぁ、またか。



月に2回ほど見掛ける何処かの宗教の勧誘である。



しかし如何せん毎度声をかけられるのはぼくが不幸そうな顔をしているのか、それとも手当り次第に声を掛けているだけなのかは皆目見当も付かなかったが、その場は''いえ、結構です''と足早に去るのが通例であった。



''幸せ''、ねぇ。



そもそも自信を持って''私は幸せです!''などと宣える人間がこの世にいるのだろうか?



人間は常に満ち足りなさを内包している生き物である。そもそも幸せであると現状を都合良く解釈している奴はそこから何も発展しないじゃないか。



自分の置かれている境遇はきっと傍から見れば不幸そのものなのであろうが、そのような悪態を反芻し、19時からの英語の授業の予習をする。



そう、きっとぼくは不幸な人間だ。



高校2年生に上がってからクラスに碌に友達はいやしない。


SNSでは野球部に玩具にされ、勉強だけは人並みにできるが性格は悪いし根暗。


ストレスでこの1年で15kgも痩せた。


いつも何処か余裕の無さそうな顔つきをしていて自分の殻に閉じこもっている。


おまけに恋人がいる訳でもない。



アフリカの恵まれない子どもには救いの手が何本か差し伸べられる機会があるのだろうが、日本の''恵まれない''子どもは永遠に沼の中を独り歩き続けなければいけないようだ。



幸せって、なんだ?



22時を回った頃の微温い総武線快速の空気の中で、ドアの硝子に映った冴えない顔が問いかけてくる。



何を持ってたら幸せなんだ?


金?友達?恋人?



どうしたら幸せなんだ?


夢を叶える?仕事が充実している?有名大学に合格する?



分からない、どれもしっくり来ない。



どうやらぼくは幸せとは縁遠いようだ、諦めよう。




17のぼくはそこで自らの幸せに一度ケリをつけてしまった。



それから5年経ち、かつての少年はほんの少しだけ世の中を知り、人を知った。



世間一般的な幸せの形を知った。



人それぞれの幸せの形を知った。



そして、自分なりの幸せの枠組みが見えてくるようになった。



思うに、幸せというのは宝箱の中に自分の好きなものをありったけ詰め込んだようなものでは無い。



それでは一体何なのか。



恐らく、幸せとは自分を支える柱であるように思える。



私見ではあるが、幸せの根拠が単一である人というのはどこか不安定な状態であることが多いように感じることが多いのだ。



その根拠というは例えば仕事であったり、金銭であったり、もしくは人間であったり。



一般に''メンヘラ''などと言われている人種は幸せの拠り所が恋人という単一の柱だけであるから脆いのではないかと思う。



''人という字は人と人とが支え合って立っている''



使い古された表現であるが、ぼくからしてみればこんなものは間違っている。




1人の人間のみによって支えられた人間は真に支えられてるとは言いきれず、よく見ればこの字は決して両者が支え合ったりなどはしておらず、片方は他者に寄り掛かり、他者の力で立っているだけである。まるで依存を現しているようである。



幸せにおいて、それを構成するものは決して単一であるはずは無い。そして恐らく性質が出来るだけ異なるものができるだけ多く存在し、時にその要素が他の欠けた部分を補う事を幸せと呼ぶのであろう。




幸せですか?



あの日の問いに今なら恐らく答えを与えることができる。



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