金曜日に君はもう来ないので

※「月曜日が好きだと君は言うけれど」のネタバレを含みます。

 死のうと思っていた。飛び降りる為の建物も見繕っていたし、妹宛の遺書も書いていた。この決意が単なる一過性の嵐でないことははっきりしている。俊月が抱えていたのは、何処に見せても恥ずかしくないくらい切実な希死念慮だった。
 ドラマチックさまで加味してもらえるなら、いつもは冷たいオーディエンスだって手を叩いてくれただろう。今まで何にも褒められたことのない身体が、初めて喝采に包まれるかもしれない。正しくカーテンコールだ。瀬越俊月の人生は、今日を境に幕が下りるはずだった。

「友達がテロを企ててるかもしれない」

 という、連城馨子の言葉さえなければ、迷いなくそうしていただろう。けれど、深夜のレンタルビデオ店で密やかに告げられたその言葉は、俊月の決意を揺らがせた。
 時刻は午後十一時二十三分。誰もいない店内で、馨子の言葉ははっきりと聞こえた。夜勤明けに死のうと思っている人間には、少々荷が重い話だった。
「…………こ」
「お願い、瀬越さん。あたしのこと助けて。ていうか、世界のことを助けて。本当誰にも言ったことないんだけどさ、あたし結構人間のこと好きなんだ」
 『困るんだが』というシンプルな言葉はあっさりと止められた。冗談を言っている風には見えなかった。強めに引いたアイラインの奥で、馨子が次の言葉を待っている。こういう時に軽く流せるだけのトークスキルは持ち合わせていなかった。少しだけ逡巡してから、俊月は言う。
「期待に沿えるかは分からない。テロリストは相手にしたことが無いんだ」
 モデルケースは連続殺人鬼しかいない、と心の中で呟く。菱崖小鳩は害悪だけれど、害悪にも分類がある。テロリストは、俊月の管轄を超えているようだった。
「なにそれ、じゃあテロリスト以外なら相手にしたことあるの? 瀬越さんってもしかして正義の味方だったりする? ここに来たのも潜入の一環?」
「いや、潜入じゃない。正義の味方でもない。……むしろ、悪い方の側だ」
「何だ。借りていく映画の傾向で凶悪犯を見抜いてるのかと思ったのに」
 馨子がけたけたと笑う。真面目な俊月は、目の前の女子高生に真面目に話をするかどうか迷った。好きな映画なんかで人の邪悪さは見抜けない。チャップリンの名作に感動する人間だって人殺しになり得るのだ。ただ、そんな知識を目の前の馨子に授けたところで、果たして喜んで貰えるだろうか?
「もしかして、瀬越さんってプライベート忙しかったりする? なんかこう他にも働いてるとか? てか、この後何する予定だった? 夜勤明けたら、あたしの話聞いてくれる?」
「夜勤明け……予定は……」
「あるなら無理しなくてもいいから! でも、マジでお願いしたいんだ。ね、ダメ?」
「……予定はあったが、融通は利く予定だ」
 何せ、彼は自殺する予定だったのだから。融通が利くどころの問題じゃない。
 レンタルビデオ店で一緒のシフトに入った女子高生から、テロの阻止を依頼された。そんな理由で自殺を食い止められる人間が何処に居るのだろうか? ここに居た。
「よかった、じゃあ仕事終わりに」
「ああ、仕事終わりに」
 馨子の髪の毛に入ったインナーカラーの青緑色が、喜びに揺れる。そのまま彼女は、棚の整理に向かってしまった。カウンターに取り残されたまま、俊月はぼんやりと自分のことを考えていた。

 瀬越俊月はフリーターをしながら生計を立てているごくごく普通の青年である。たった今、テロを防ぐことを依頼されたこと以外は、特筆することもない男だ。自殺しようとしていたことすらプロフィールとして生温いだろう。何しろ、相手はテロなのだから。

 半年前まで俊月は内地――所謂本州の、東京都内に住んでいた。ここ、北海道に引っ越してきた理由は言うまでもない。知り合いの殺人鬼であるところの菱崖小鳩が死んだからである。
 詳細は省くが、俊月はその殺人鬼のことを黙認していた。黙認、と言うのもおかしいかもしれない。彼は俊月が赦そうが赦すまいがせっせと人を殺していただろう。俊月の懸念や抵抗は何の摩擦にもなってはいなかったはずだ。関係があるのは俊月の内々の煩悶だけで、彼には何の意味も無い。
 俊月は世界のことがあまり好きではなかった。世界に対して好きなようにやっている彼のことを黙認する程度には、世界のことが好きではなかった。だから、この結末を迎えたことを、俊月は素直に悲しんでいた。小鳩が死ぬくらいなら、他の誰かが死んでくれた方が良かった。それが素直な気持ちだ。でも、そうはならなかった。
 小鳩が死に、彼のやらかしたことすらまともに明らかにならず、菱崖小鳩という存在の痕跡すら拭い去られた。葬式だってちゃんと行われた。葬式、という二文字の違和感! 小鳩がやったことを考えれば贅沢過ぎる催しだ。でも、行われてしまった。

 それからしばらく小鳩が世界に居ないということについて真面目に考えてみたのだが、とうとう正確には理解出来ないままだった。
 赦されるべきではないとは思う。死んで当然の人間だったとも思う。いつか殺される日を予想すらしていた。けれど、それらの感慨と小鳩の不在が繋がらない。あの男がもう来ないというのは、一体どういうことだろう?
 だから、俊月もあの街を離れることにした。小鳩が来ないあの街を離れることで、何とか不在を喪失してやろうと思ったのだ。何の意味も無い、というご指摘は正しい。その通り、何の意味も無い。こんなのただの現実逃避だ。何の意味も無い現実逃避をする程度には、俊月は追い詰められていたのだ。
 北海道を選んだことすら、小鳩の影響だった。死ぬ一年ほど前、小鳩は晴れやかにこう言ってのけたのである。
「北海道に行ってきたんだけどさ、これがもう凄く良かったんだよね。もう良すぎて困るくらい」
 小鳩は大抵の物事を楽しそうに語る。何しろ彼の住んでいる世界は美しく、現実はそのままで愛おしい。世界が好きではない俊月には理解の出来ない話ではあるが、小鳩はこの世界をそれ自体が途方も無く美しい代物だと見做していたようなのだ。だからこそ、それを切り取って保存することを望んでいたのだから。
「……そうか。それは良かったな」
「瀬越も行こうよ。来年」
「はあ?」
「僕、瀬越が楽しめるようにプランニングしておくからさ。というか、ちょっと考えてることがあるんだ。花を植えるみたいな話なんだけど。ね、聞きたい? どうかな?」
「別に聞きたくないし俺は行かない」
「そうだ、歳ちーも誘ってみようか、一緒に食べ歩きでもしよう。あ、知ってる? 札幌駅の地下には物凄く美味しいスンドゥブ屋さんが」
「お前と旅行に行くとろくなことにならないから嫌だ。歳華も誘うな。絶対にだ」
「そうなってくるとどうしても形式が拉致に近くなっちゃうから困るな」
「拉致形式の旅行は拉致だ」
 小鳩はすげなく言い放つ俊月のことを無視して、泊まるホテルの話やら、食べたいものの話やら、旭山動物園ではどこではしゃぐかの話をした。
 それなのに結局、小鳩と一緒に北海道へ行くことはなかった。
 これですら〝人間はいつ死ぬか分からないから早めに実現しておかなければならない〟というありふれた教訓に回収されてしまうだろうか? そういう事案なのだろうか? けれど、あそこで出かけていたところで、小鳩の迎える末路は変わらない。

 さりとて、新生活である。元々少ない荷物を纏めての、瀬越俊月・初めての大移動だ。移動距離だけで見れば大したものだろうと思う。感傷をマイレージに変えられるのだとすれば、俊月は立ち直っていたかもしれない。
 小さなアパートを借りて荷解きをした後は、すぐさま仕事を探した。何しろ彼は生活をしなければいけない。喪失を目に見えるものに変換して、立ち直ってやらなければならない。
 幸いなことに仕事は簡単に決まった。とあるレストランのキッチンスタッフのアルバイトだ。料理をするのは好きだったし、今までも多くの職場でキッチンスタッフに従事していた。これで生活の基盤は作れる。そう思っていた。
 それが全ての始まりだった。何の? 崩壊の、に決まっている。
 いざアルバイト先で包丁を持った瞬間、違和感を覚えた。手が動かない。震えて、まともに掴めない。目の前にある人参のことも、その切り方も知っているはずなのに、何をしていいのか全く分からなくなっていたのだ。包丁を持ったまま、俊月は茫然と立ち尽くしていた。
 遅効性の毒のようだった。喪失はマイレージにも新生活にも返還されず、俊月を苛む爆弾に変わっていたのだ。
 ――いつの間にか、料理が出来なくなっていた。自分に出来る唯一のことであり、小鳩にも認められた才能だったというのに。
 こんなことになっているだなんて気づきもしなかった。歳華の前ではちゃんと料理が出来ていた。小鳩が死んだ後だって、問題なく何かを作れていたはずだ。それが、あの家を出て北海道に来た瞬間、突然出来なくなってしまった。
 当然その日は仕事にならなかった。帰って休んでもいいという言葉に甘えたものの、これが治ることはないだろうと思った。家に帰って包丁を握り、相変わらずそれが一向に動かないことを確認すると、俊月はそのまま辞職の旨を伝えた。
 引っ越しの際に運び込んだ調理器具が、まるで俊月のことを責めているようだった。当然だ。俊月は散々それに助けられてきたというのに。今更彼がそれを裏切ったのだから。
 思えば、引っ越してきてから、俊月は一度も自炊をしていない。
 北海道の食べ物は何もかもが美味しくて、最初の内は純粋にそれを楽しもうと思ったのだ。外食続きで気が付かなかった。
いや、それすら何かしらの防衛本能だった可能性がある。この事実に直面すれば耐え切れないだろうと、心の何処かがストップをかけたのかもしれない。
 原因については考えるまでも無かった。
 歳華と小鳩。料理を食べて欲しいと思うそのたった二人がいなくなったからだろう。
 自分の人生に寄り添っていた料理が、その実誰かに依存していたものであることに驚いた。もう二度と会うつもりのない人間と、もう二度と会えない人間に寄り掛かった自分の特技は、ここに来てその命を終えたのだ。
 料理が出来なくなったことには、それほどショックを受けなかった。仕組みが分かってしまえば他愛の無いことだ。
 料理をしなくても、北海道には美味しい食べ物が沢山あった。困るのは、調理器具に埃が被るくらいのことだった。

 俊月は調理系のアルバイトを避けて、新しい職場を探した。そうして見つけたのが、駅前にあるレンタルビデオ店の求人だった。レンタルビデオ店なら、都内に居た頃も働いたことがあった。ちょっとしたトラブルがあって店自体が駄目にならなければ、あのままあそこで働いていたかもしれない。
 レンタルビデオ店の夜勤に入った俊月は、顔見せの段階で既にちょっと浮いていた。陰鬱な癖に威圧感のある人間が入ってきた時の反応としては正しい。大学を出て何年も経つが、未だに俊月の第一印象は地の底だった。これについても予想の範囲内ですらある。伊達に何度も疎まれてきたわけじゃない。
 その内、俊月が無害であることも理解されることだろう。好かれこそしなくとも、しばらくは邪険に扱われることもない。そのプロセスをちゃんと理解していれば、臆することは何も無い。
 だが、事態は急変した。
 臆する同僚達の間をすり抜けて、連城馨子が俊月の前に躍り出てきたのだ。
「初めまして! あたし、れんじょーかおるこ。高二。これからよろしくね、瀬越さん」
 差し出された手には、虎模様のネイルが入っていた。キラキラと光を反射するラインストーンが眩しい。爪に負けずに派手に誂えられたメイクも、彼女にはとてつもなく似合っていた。黒髪の内側には、夜を裂いて伸ばしたような、美しい青緑色が入っている。
 「……髪に青錆が入っている」という俊月の言葉に対して、馨子は「インナーカラー、綺麗でしょ」と言って笑っていた。確かに綺麗だった。そちらの方を先に言えば良かった、と思った。『青錆が入っているようで美しかった』と言いたかった。それの方がずっと正しい。
 握った手の温度は覚えていないけれど、爪が刺さって痛かったことだけは覚えている。痛みは温度に優越するのだ。そのことを改めて思った。

 身支度を終えて店を出ると、馨子はもう既に外で待っていた。制服代わりのエプロンを脱いだ彼女は、ピンク色のパーカーに短パンという派手でラフな服装に身を包んでいた。それを見て、今日は土曜日だったな、と思う。平日の彼女は近隣の高校の制服を着ていたはずだ。
「あっ、お疲れーっ! いやもう本当感謝するね! 感謝!」
「……まだ何もしていないが」
「や、あたしのこと撒いたりしなかったでしょ、その時点で感謝なの!」
「……感謝のハードルが低すぎないか?」
「あの、ついでに本当にごめんなんだけど、瀬越さんの家に上げて貰ってもいい? なんかこう、外では言えないような話で」
 馨子が身振り手振りを交えながらそう話す。彼女が何に憂慮を覚えているのかは簡単に窺い知れた。何しろ、テロというのが誇大表現じゃなければ、そこらでうかうかと話せるものじゃないだろう。
 とはいえ、抵抗はあった。相手は一応女子高生だし、自分はいい年の男だ。そういう想定はしたくないしするつもりも無いが、世の中の流れは分かる。濡れ衣という濡れ衣を着せられてきた俊月だ。最悪の事態ならいくらでも考えられる。
「……家は、ちょっとマズいんじゃないだろうか」
「え? あーっなるほど! 瀬越さんも変な勘違いされちゃうのやだよね! でも、その点はあたしに秘策があるから!」
「あるのか?」
「いざとなったら、瀬越さんの家を焼いちゃえばいいよ。みんな火事に気を取られてあたしたちのことなんか気にしないよ」
「傷を隠すために杭で貫くようなことをされてたまるか」
「大丈夫だよ。瀬越さん、良い人だもん。あたしがちゃんと説明するから」
 そんなことにはならない、と俊月は思う。何しろ彼のクローゼットには、濡れ衣という濡れ衣が掛けられている。悪意がそこら中に転がっていることを示すいかれたモニュメントだ。真実なんかどうにもならない。どう見えたかが全てだ。周りの人間がどう見たいかが全てだ。
 それでも、俊月は馨子を家に迎え入れてしまった。彼女の暴力的な解決方法が面白かったのもあるし、俊月が本来死んでいただろうこともある。墜落する身体に何を被せられても、俊月には殆ど意味の無いことに思えた。

「なんか死ぬ人の部屋みたい……とか言ったら失礼か。ヤバ」
 簡素なワンルームに足を踏み入れた瞬間、馨子が言ったのはそんな言葉だった。小さなテーブルと死骸のような調理器具、最低限の家電、それに布の掛かった本棚と畳まれた布団くらいしか無い。確かに独房のような部屋ではあった。
「別に失礼じゃない。的を射ている。死ぬ人の部屋だ」
「なんか瀬越さんってちょいちょい謎のツボ突いてくるね」
「よければテーブルに着いてくれ。何も出せないが」
「いきなり上がり込んだんだから気にしないでいいって! 本当、こっちのが悪いよ! ね!」
「……何かあれば良かったんだがな」
 料理が出来ないので、冷蔵庫の中身は未だに空だった。ここに運び込まれてから、ずっとそこには不在が居座っている。せめて総菜や飲み物くらいは入れておいても良いはずなのに、それすら出来なかった。あの中で冷やされている空虚は、そのまま何らかのメタファーになってしまっていて、触れない。
「それで、テロっていうのはどういうことなんだ?」
「あ、うん。……言っておくけど、冗談とかじゃないんだ。でも、瀬越さんはこういうの笑わなそうだよね」
「そうだな。あまり」
 そういうところだよ、と馨子の方が笑う。ややあって、少しだけ緊張した面持ちの彼女が、口を開いた。
「あたしの幼馴染に古寺昌平っていうのがいるんだけど。……まあ、そいつが典型的なマイヤンで」
「マイヤン?」
「マイルドヤンキーっての? なんかこう、不良ってほど不良じゃないんだけど、みたいな奴だったのね。んで、あたしはそういうのヤダなー、でもまあそういうのにハマっちゃう気持ちもわかるなーって感じだったんだけど、その昌平が、今度はちょっとヤバいものに手出したみたいで」
 テロリスト、の言葉が蘇る。
「ヒ素ってあるでしょ。昔カレーに入れたとかで有名になったやつ」
「まあ、あるな」
「どういうわけだか分かんないんだけどさ、昌平がどっかでそのヒ素を大量に入手したんだ。ヒ素って、今はそんなに沢山手に入らないよね?」
 馨子の言う通りだった。
 ヒ素は毒物として厳しく取り締まられており、殺鼠剤として購入したいと言っても、身分証と印鑑が必要になってくる。普通の人間がそう簡単に入手出来るものじゃない。ただ、古くからの農家などには、使われていないヒ素がそのまま残っていることもあるらしいと聞いた。
 それを何かしらのきっかけで見つけたのだとしたら、結構な大事だ。知らず知らずの内に息を呑む。
「ヤバくない? 人死ぬ奴だよね? それで人殺そうとしてるっぽいの。ここずーっといったとこに浄水場があるから、そこに入れようとか、あと、スーパーの食べ物に入れようとか、こういうのって、普通にテロだよね。そのテロを、あたしが止めようかなって」
「……何でヒ素を見つけたからって人を殺そうとするんだ? その昌平っていうのは、大量殺人に興味関心があるのか?」
「や、でも分かるっしょ? ヒ素だよ? 使ってみたくなるんじゃない? 昌平ってマジで馬鹿だから。本当に凄い馬鹿だから。あたしも結構馬鹿だけど、あいつはその万倍馬鹿だから。やるよ、あいつは」
「なるほど……」
 そんな理由で、とは思わなかった。人間が人間を殺す理由なんて、正直なところそんなに重要じゃないのかもしれない。人間がそんな合理的な理由や動機で動くはずがないのだ。ヒ素を大量に見つけたから、ここで一度大量殺人に手を染めてみたい、というのも動機としては正しいのかもしれない。
 新しいノートに線を引いてみたい。セグウェイにだって乗ってみたい。あるいはさる有名な毒薬を使って、誰かを殺してみたい。それらの境界線が薄い人間なんて、いくらでも居るだろう。
「それで、そのヒ素は何処にあるんだ?」
 そう尋ねると、馨子は小さく首を振って、一枚の写真を取り出した。映っているのは北海道の有名観光スポット、時計台だった。
「これがヒント」
 まるでゲームのような言い草だった。もう一度写真に目を向ける。パンフレットに使われるような綺麗な写真ではない。妙な角度から、ぼんやりとした時計台が焼き付けられている。素人写真であることが容易く窺い知れる写真だ。
「裏面に文字が書いてあるな……『ヒ素』」
「ねえーっ、アホでしょ」
「何というか、ストレートだな」
「捕まっちゃえって、ほんとに」
 舌打ち交じりに言う馨子は、それでも古寺昌平を警察に突き出さない。ヒ素を不法に所持して、テロを企てているのにも関わらず、警察では無く瀬越俊月にそのことを話す。このワンクッション、感情の躊躇い傷に本心が透けている。
 けれど、それを指摘出来るような身分でもなかった。
「……そもそも、勝手に持ち出して古寺昌平にはバレないのか? いくら抜けているといっても、ヒ素が無くなっていれば気づくだろう」
「それがさあ、昌平、バイクで事故ったんだよ。結構派手に骨折って、入院してるの。だから、今しかないの。お願い、瀬越さん。あたしと一緒にヒ素を探して」
 つまり、馨子のお願いは、昌平が入院している隙に、彼が隠したヒ素を処分することなのだ。
「……このままだと、あの馬鹿は本当に犯罪者になっちゃうよ。そりゃあ自業自得かもしれないけどさ、あたしはやなんだ」
「犯罪者に、」
「だからあたしが止めてあげないと。取り返しがつかなくなる前に。ねえ瀬越さん、一緒に時計台来てくれない?」
「……だが、俺が行ってどうなるというものでもないだろう。俺は何も出来ない」
「来てくれるだけでいいんだよ。第一、もし時計台にヒ素が隠されてたらどうすればいいの?」
「どうすれば……通報、じゃないか?」
「そういうことじゃなくてさ。……あーうん、ヘタレでごめんね。あたし、一人じゃ怖いんだよ」
 結局のところ、そう言われた時点で俊月に選択肢なんか残されていなかった。果たして、内心の動揺は悟らせずいられただろうか。小さくかぶりを振って、どうにか言う。
「……協力しよう」
「本当に!? 瀬越さんほんっとありがとう! 瀬越さんはそう言ってくれる人だって思ってたんだよねー!」
 断れない人間に見えていたのか、それとも善人に見えていたのか。尋ねる気にもなれなかった。分厚い免罪符を手に入れたところで、神はこれを受け取らないだろう。
 そんな俊月の内心を少しも知らずに、馨子は大きく伸びをした。
「あーあ、安心したらお腹減った。瀬越さんも何にも食べてないよね? これからすき家でも行かない? あ、瀬越さんががっつりイケるタイプなら、札幌駅の牛すじスンドゥブっていうの食べに行きたくて。駅って何時までやってんのかなー」
 その瞬間、妙な胸騒ぎがした。長らく響くことのなかった心の柔らかいところが引っ掛かれるような心地がする。ごく自然に口が開いた。
「待ってくれ」
「え、ごめん、えーっと、スンドゥブっていうのはねー」
「そうじゃない」
 何故か、後頭部がズキズキと痛んだ。久しく感じていなかった、得体の知れない感情が胸を焼く。あんなにあっさりと消え去ったものが、こんな風に戻って来るとは思わなかった。訝しむ馨子の視線を痛いほど感じながら、小さく呟く。
「一時間待てるか」
「えー、別にいいけど……っていうか、瀬越さん大丈夫? なんか顔色悪くない?」
「大丈夫だ。むしろ、今までで一番いい」
 そう言って、俊月は馨子を家に残したまま、二十四時間営業のスーパーマーケットに向かった。短時間で出来るもののレシピを必死で浮かべて、食材を放り込んでいく。がっつりイケるかどうかを尋ねてきたということは、彼女自身は結構な健啖家なのだろう。
 家で待つ馨子と、空っぽの冷蔵庫を思う。初めて出勤したあのキッチンで動かなかった手のことを。玉葱を取る為に伸ばした指は、ここ最近で一番馴染み深く見えた。

 戻ってくると、馨子はテーブルに肘を付きながら本を読んでいた。紙製のブックカバーが掛かっている所為で、内容は分からないが、横顔が真剣なので、難しい内容のものなのかもしれない。
「待たせてすまない」
 そう声を掛けた瞬間、馨子がバッとこっちを見た。その表情が今までに見たことのないものだったので、一瞬だけ慄く。――さっきのは、紛れもない敵意の目だった。一体どういうことだろう?
 動揺している俊月に対して、馨子はすっかり馴染みの笑顔を見せていた。
「おかえりー、っていうか何? その荷物」
 勿論、俊月はそう人間が上手い方じゃない。コミュニケーションも苦手だし、誰かの表情だってさっぱり読めない。けれど、向けられてきた悪意の数だけは桁違いだ。その上で、馨子からは、馴染んだそれの気配を感じ取ったのだ。
「……食事の準備を。がっつり食べられるタイプなんだろう?」
「うん。え、まさか瀬越さんが作るの?」
「そのまさかだ」
 そう言って、俊月は久しぶりに包丁を手に取った。レストランでの醜態を思い出して、一瞬身が竦む。けれど、もう手は震えていなかった。
 少しだけ考えてから、まずは鍋の中に水を入れた。つまみを捻って、火を点ける。小さく灯った炎を久しぶりに見た。

 四十分ほど経ってからようやく誂えられた食卓に、馨子は分かりやすく驚いているようだった。
「……え、これ瀬越さんが作ったの?」
「ブレッドは買ってきたものだ」
「流石にパン焼いたとは思ってないよ! それ以外!」
 お腹がすいたと言っていたので、やや作り過ぎたきらいはあった。けれど、その分食卓は豪勢だ。
 メインは鶏肉のグラタンスープだ。完全に沸騰する前に短冊切りにしたジャガイモと鶏肉、たっぷりの玉ねぎを入れる。醤油と固形コンソメを加え、最後にチーズで綴じてやる。余った鶏肉はレモン汁とバターのソースでソテーにした。グラタンスープをやるなら、ということで買ってきた主食は堅めのバケットを付け合わせた。久しぶりに作ったとは思えないくらい、料理のラインナップが肌に馴染む。
「そうだ。何が好きなのか分からないから適当に作った」
「えーっ、ここに並んでるの全部好き! ていうか瀬越さんこんなに料理上手いの!? ヤバいでしょ! え、元料理人だったりする?」
「料理はしていた」
「へぇー、人に歴史ありだね!」
 そう言って、馨子はいただきますもそこそこに勢いよく箸をつけた。一口食べる度に「美味しい」と屈託なく言う彼女に、妹の影を見なかったと言えば嘘になる。それを見てから、ようやく俊月も自分の料理を口にした。何も変わらなかった。相変わらず、それなりに美味しい。
「連城さんは―――」
「ちょい待ち。あたしのことは馨子って呼んで。大体、あたしが敬語使わないの赦してくれてるんだから、そのくらいやんないとフェアじゃないって」
「フェア」
「それに、連城さんとか堅ッ苦しいし、呼ばれても上手く反応出来ないんだよ。ほら、プリーズリピートアフタミー、馨子」
「か、……馨子」
「よしよし上出来。となるとあたしも呼び方変えるかなー」
「別にいい」
「にしても、瀬越さん年上だしなー。とっしーさんとか?」
 懐っこい笑顔で、馨子がそう口にする。とっしー、なんてありふれていて凡庸な綽名だ。『とし』が付く人間の八割に付けられそうな綽名だ。けれど、今の俊月には、その綽名自体があまりに特別で参った。ややあって、俊月は言う。
「……それはやめてくれ。あまり好きになれない」
「嘘。ごめん。じゃあよろしくね、瀬越さん」
 そう言って、馨子がすっと手を伸ばした。片手には箸を握りながら、顔には笑顔を浮かべながら。出会った時と同じようで、少しだけ違う。
 その手をゆっくりと握り返す。長く伸ばした爪が、今日は全然刺さらない。
 それを受けてようやく、初対面の時のことを理解する。馨子はあの時、緊張していたのだ。

 馨子が帰ってから一人で皿を洗っていると、小鳩のことを思い出した。「食洗器買わないの?」と言う小鳩に対して、俊月は「だったら同額の包丁の方がいい」と返したのだ。
「皿は俺でも洗えるが、俺の手は大根を切れないからな」
「瀬越って常日頃からそういう取捨選択の間々で暮らしてるの? すごいな」
 他愛のない話だ。

 件の時計台で待ち合わせをすると、その小ささというかささやかさに好感を持った。やっぱりそうあらねば。派手だとかドラマチックだとかそういうものは、別に無くていい。可愛らしく慎ましくそこにあるだけの何と素晴らしいことか。俊月の美徳によく合っている。
 ところで、再三小鳩のことを思い出した。というか、今の俊月を満たすものは何よりもその不在なのだ。不在で満たされる身の上があまりに可哀想で困る。小鳩が来たがっていた場所、小鳩と見るべきだった場所、小鳩から聞くはずだった何かしら、世界は可能性に満ちているので、何処にだって不在が見て取れる! 末期だった。なるほど、早く死にたい。
「時計台って俊月みたいだよね。どうかな」
 なんてことを小鳩が言っていたような気がする。でも、彼の判断基準は概ね緩い。そこらの神経質そうな野良猫や生きづらそうな痩せ犬なんかを見ても、小鳩は手を叩いて言っていただろう。――あれ、瀬越に似てる。
 本質なんて何処にも無いのだ。
「あ、瀬越さん。早いねぇ!」
 場違いに明るい声に振り向くと、そこに馨子が居た。今日のファッションは、ショートパンツに革ジャンという、ややスパイシーな代物だった。それでも、馨子にはよく似合う。彼女に似合わないものなんて、多分殆ど無い。
「……早くはない。五分前に着いた」
「でも、普通そんなに早く来ないよ。暇だね。それとも、あたしの話、結構大事に思ってくれた?」
「大事に思っている。凄く」
「はは、知ってるよー」
 けたけたと楽しそうに笑いながら、馨子が先に中へ入った。おかしいな、と思う。テロリストとの対決とか、そういうものから始まったはずなのに、彼女の所作といったらやたらに楽しそうである。人生が上手いんだな、と一人で納得した。
 時計台の中は資料展示室のような誂えになっていて、時計台の歴史や、伝統の『上げ下げ窓』についてを知らしめるような場所になっていた。もっと殺風景なところを想像していたので、少しだけ驚く。時計台にまつわるものが収められたガラスケースは、過去を詰めた棺の列のようだ。ここにヒ素は似合わないな、と俊月は思う。
「瀬越さん、二階、二階」
 階段を指さしながら、馨子ははしゃいだ声でそう言った。時計台に来たのは初めてじゃないだろうから、この興奮は俊月の為のものだ。ワントーン明るい声に牽かれながら二階へ上がる。
 二階は教会のような造りのホールになっていた。イベント情報によると、ここでは折に触れて管弦楽のコンサートが行われているらしい。
 手分けをしてステージや椅子の裏を探して回ったものの、それらしきものは欠片も見つからなかった。そもそも、時計台には立ち入り禁止の個所や防護ロープなども多く、それらしい隠し場所が椅子くらいしか無い。
 探し回るのに飽きた俊月は、部屋の隅の塔時計に目を遣った。自分と同じくらい巨大な時計が、コッコッと小さく歯車を回している。真面目なものには親近感を覚えた。たとえそれが人間じゃなくても。
「それ、面白い?」
 いつの間にか傍にやって来ていた馨子が、揶揄うように笑う。
「俺はこういう大きな機械を見ているだけで楽しい。心が休まる」
「心が休まる? 癒されるってこと?」
「出来れば俺は……こういう大きなものを作ってひっそりと波風を立てずに暮らしたいんだ」
 塔時計をうっとりと眺めながら、俊月がそう呟いた。
「瀬越さんそんなに目立つのに?」
「……妹には、森に居そうだと言われたんだが」
「あ、それはあるかも」
 馨子は頻りに頷く。その様子が、何だか妹によく似ていた。本来ならもう死んでいる予定だったから、彼女には一度も連絡していない。色々あって遅れた大学受験に向かって頑張っているだろうから、自分が連絡する理由なんて無いといえば無いのだけれど。
「にしても、時計台の中に何かを隠す場所なんてなくない? 流石にこんなとこであれこれやってたら捕まっちゃうし」
「……確かにそうだな」
「じゃあ、このヒントって何なんだろ?」
 馨子が写真を高く上げて、目を細めた。その影に潜るように、俊月も目を凝らす。
 とにかく不在は恐ろしいものだ。不意に、頭の中の小鳩が笑う。頭の中に巣食われているおぞましさについては、今のところ考えないことにした。
「そうじゃない」
「え?」
「この写真は被写体を問題にしているわけじゃないんだ」
 そう言って、俊月は足早に階段を下りていく。例えば、菱崖小鳩ならこの世界をどう見るだろうか。時計台を映した不思議な目線のそれを見て『相応しい』なんて思うんじゃないだろうか?
 ――だって、世界なんてフィクションの為の材料庫に過ぎないんだからさ。
 小鳩がそう言い放つ時、俊月は得も言われぬ感情になった。俊月はこの世界のことがそれほど好きじゃない。小鳩の作るものはおぞましいと思っていた。それに対して小鳩は、大分この世界のことが好きだったんじゃないか? 馬鹿げた話だ。皮肉な話だ。ありのままをカメラに収めるだけの価値を見出していたから、彼はあんなに酷いことを成し遂げた。
「ちょっと瀬越さん何処行くの?」
「正解の場所だ」
 時計台を出て、辺りを見回す。写真に写っていた時計台の角度を思い出すと、ようやく当たりがつけられた。近くに雑居ビルがある。テナント募集の張り紙があった。不審者として通報されることも厭わずに、馨子と一緒にそこに上る。
 階段を上った先に、狭い踊り場があった。薄汚れた窓の先に時計台がある。その『シーン』には見覚えがあった。
「古寺昌平の写真を貸してくれないか」
 俊月が短くそう言うと、馨子は何も言わず差し出してくれた。
「……つまり、どういうこと?」
「ここに立っている俺達は観客であり監督だ」
 例えばスクリーンに向かう観客のように。あるいは、カメラに向かう監督のように。この場所に立った馨子にも、瀬越の言わんとしていることが分かったらしい。
 ここの窓から見える時計台と、写真の中に映った時計台はまるっきり同じものだった。
「間違いない。この写真はここで撮られたんだ。だとすると……」
 隠せそうな場所を探す。丁度いいところに備え付けの消火器があった。埃塗れのそれを開けて、消火器を避ける。すると、まだ埃に侵されていない四角い紙片があった。取り出してひっくり返す。
 そこに映っていたのは、『彼女について私が知っている二、三の事柄』のDVDパッケージだった。逆光に照らされる女性の横顔。パッケージの隅に見慣れたバーコードラベルが貼ってある。……俊月と馨子が働いているレンタルビデオ店のものだった。
「……うちのDVDじゃないか」
「え、嘘。えー、じゃあ今度はここに入ってるってこと? 誰かに借りられちゃったらどうするつもりだったんだろ、あの馬鹿」
「ゴダールを借りる人間なんか殆どいない」
 周りで観ていたのは小鳩くらいのものだ。
「でも、ゴダール? を観てた人間はヒ素を手に入れられたってことだから不思議だよねー。難しい映画も見ておくべきだって教訓なのかなー、これ。ヤバいね」
 その時、窓の外から差し込む日差しに馨子が照らされて、奇しくもDVDパッケージの再現のようになった。青緑色のインナーカラーも合わせて光り、一枚の絵のようになっている。古寺昌平がどういう気持ちでこの映画をチョイスしたのかは分からないが、いい趣味だと思った。確か、ゴダールの映画を初めて小鳩と観た時、歳華も自分も揃って眠ってしまったのだが。
「ていうか、マジで凄いよ瀬越さん! こんなんわかりっこないのに! そっかー! 撮影者の立場!」
 馨子の目は期待に輝いていた。誰かにこんな風に無邪気に期待されるのは久しぶりだった。何だか酷く眩しくて……寂しかった。寂しいという括りに纏めていいのかは分からないが、とにかくそう思った。
「一ついいか?」
「うん? どうしたのー?」
「大したことじゃないんだが……古寺昌平はもしかして映画が好きだったのか? ゴダールの映画をチョイスするのは珍しいだろう」
「偶然でしょ」
 馨子は短く言った。
「あたしの働いてる店に来て、適当に選んだんだよ。昌平、そういうタイプじゃないもん。映画なんて全然知らないはずだし」
「……そうなのか」
「そうだよ。全然、そんなことない」
 有無を言わせない言葉だった。確かに、話に出てくる古寺昌平は映画鑑賞に熱心なタイプには思えない。
「適当だよ」
 もう一度だけ言って、馨子はそっと目を伏せた。

 そのままバイト先に向かおうとする俊月を、馨子はやんわりと制した。
「明後日一緒にシフト入ってるんだから、その時確認しようよ」
「……そんなに悠長なことをしていて大丈夫だろうか?」
「大丈夫大丈夫! 焦ったって、昌平の骨はくっつかないから!」
「そういう問題なのか?」
「あたしもそんな早くに心の準備出来ないよ! ね、分かるかなー? この感じ」
 あっけらかんと言う馨子に、俊月は頷くしかなかった。何しろ彼はこういう時の判断にも疎い。馨子が言うならそうなのだろう、と思うだけだ。心の準備は何につけても大切なんだろうし。

 ただ、放り出された俊月の方は少しだけ揺れた。
 一人きりで家に帰ると、途端に本来やるべきことが迫って来た。さあ、いつ死ぬつもりだ? と、殺風景な部屋の四方から尋ねられているような気分になる。それはけして俊月を責めているものではなく、労わっているものなのだ。――まだ死なないの? まだ死ななくていいの?
 まだヒ素は見つかっていない。だが、遠からず見つかるだろう。もしかすると、もう馨子一人でも見つけられるかもしれない。そうなれば、もう俊月は必要がないわけだ。今回は多少なり役に立ったかもしれないが、次もそうであるかは分からない。
 急に足元が覚束なくなり、床に蹲る。
 まだだ、まだヒ素が見つかっていない。
 テロは止められていない。
 馨子に食事を作った際の余りが冷蔵庫に残っている。
 そうだ、食材だ。ゼロから買い揃えたお陰でつい買い過ぎてしまったのだ。これならきっと、一週間は保つ。一週間は保ってしまう。本来なら死んでいるはずだったのに、という前提が緩やかに首を絞めてくる。
 食材を無駄にするのは本意じゃない。あまり褒められた人間でもないが、それについては抵抗がある。この逡巡ですら、みっともない命への執着に映るだろうか? 問いかけたところで、答えてくれる小鳩もいない。
 シフトを確認する。馨子が指定した明後日のシフトは、俊月が朝の九時から十八時まで、馨子が十六時から二十時までだった。二時間分が被っていることになる。
 明後日のバイト終わり、馨子をもう一度家に呼ぼうか。そして、食材を使いきったら、今度こそ死ねるかもしれない。いや、死ななければいけないのだ。
 カーテンの隙間から外を覗く。それと同時に気分が悪くなった。目に映るものの全てが疎ましかった。小鳩が死んでからずっとこうだ。
 こんなものをありのまま映画に仕立てようとしていた小鳩のことが理解出来なかった。きっと、人の手の加えられた世界の方がずっと美しく、優しい。何枚かのフィルターで脚色された世界なら、少しだけ愛おしく思えるかもしれない。
 荒々しくカーテンを閉める。そのまま、壁に凭れ掛かった。
 小鳩の見ている世界はどんなに美しかったことだろう。

 結局、俊月はバイトの日までのうのうと生きていた。誰かを待ち遠しく思うなんて久しぶりだった。午後四時までは来ないことが分かっているのに、同じ髪型の客が来る度に、青緑色のインナーカラーを願ってしまう。何だか無性に、連城馨子に会いたかった。
 結局、馨子は午後四時ぴったりに現れた。
「やっほー、お疲れ様! 瀬越さん」
「ああ、そうだな」
「いや、ここでそうだなっておかしいでしょ! 瀬越さん、そういうところだよー」
 何が可笑しいのか、馨子がそう言ってけたけたと笑う。それを見て、何だか妙に安心した。馨子と話していると、何だか少しだけ言葉が出てきやすいような気がする。
 それでも、「もう一度自分の料理を食べて欲しい」とは言いづらかった。馨子は、きっと喜んでそれを了承してくれるだろう。冷蔵庫の中身を使い切りたいという一風変わった要望の裏に隠れたものを、果たして見抜かないでくれるだろうか?
 そうこうしている内に、馨子はエプロンをつけ、店内の棚整理に行ってしまった。こういうところのタイミングがどうしても掴めない。目の前をウサギが跳ねる幻覚が見える。馨子が戻ってきたら声を掛けよう、戻ってきた時に機嫌が良さそうだったら声を掛けよう、と心の中で思う。
 頭の中で出来るシミュレーションを粗方やり終えても、馨子は戻って来なかった。
 仕方なく、カウンターを閉じて店内を回る。最悪な想像だけは達者なので、幾通りもの悪夢は想定していた。
 幸いなことに、馨子はその悪夢のどれでもない場所に居た。店の隅で、馨子が明らかに柄の悪そうな二人組に囲まれている。
 棚の脇からでは、詳しい会話は聞こえない。けれど、あまり楽しそうな会話をしているようには見えなかった。二人に相対する馨子は、いつものように華やかな笑顔を浮かべている。困ったように眉尻を下げながら、小さく首を傾げて――。
「お客様、困ります。……彼女が嫌がっているでしょう」
 気づけば間に割って入っていた。背後で馨子が小さく息を呑む音がする。正面に立った二人組は、思いの外若いように見えた。馨子より少し上、くらいだろう。適当に脱色された金色の髪が逆立っている。
「は? 何なんだよお前。どけや、邪魔なんだよ」
「……ここの店員です。何かありましたら私にどうぞ、お客様」
 自分の外見を意識的に悪用したのはこれが初めてかもしれない。最初はまともに話をしようともしていなかった男が、少しだけ佇まいを正して俊月の方を見る。
「んだよ、こっちは馨子の知り合いだっつーの、てめーが刺さってくんなや」
「……本当なのか?」
「……あー、ほんとだよ、ほんと。ごめんね。紛らわしかったよね。あたしが悪いの」
「昌平の奴のことでへこんでるう馨子を慰めてやろうとしただけだっつのになぁ」
「あんなことになっちまって、こっちもさあ、心痛めてんだよ」
 この言葉から類推すると、馨子というよりは古寺昌平の知り合いなのだろう。話に出てきた『タチの悪いお友達』なのかもしれない。
「それじゃあよ、俺らも馨子にこんなもんの始末させたくねえんだけどさ。山木やら水野やらもあいつに貸しがあったからさ、ちっとでも返してもらわんとね」
「そーそー、な、頼むわ。俺らの本気も分かってもらえたってことで」
「あはは、あたしに何か分かったらいいますから、大丈夫ですよー。でも、昌平のことだからなー」
「頼むわマジで、じゃあな馨子」
 そう言って、二人組は去って行った。俊月が何か言うよりも先に、馨子の口が開く。
「昌平の知り合い。って言っても、昌平をパシリに使ってた奴らっって意味なんだけど。……昌平がすげーもん手に入れたってことは、なーんか回ってるっぽいんだよね。大方ヤク絡みだと思われてるんだろーけど」
「だから金の要求に来たのか?」
「あたしならヤクの場所知ってるんだろって。知らないで通せてよかったよー。あ、山木とか水野っていうのはあいつらの先輩ね。昌平は金とか借りるタイプじゃないからふったかられてるんだろーけど。ていうかバイト先にまで来るなんて見境ないよね。ヤダヤダ」
 さっきのことがまるで見られてはいけない失態であるかのように、馨子は早口で弁明した。いいように詰め寄られているのを見られたこと自体が嫌だったのかもしれないな、と俊月は思う。彼の知っている連城馨子はあんな人間たちにしてやられるような人間じゃない。本来なら、もっと上手く立ち回っていただろう。
 もっと上手く。人間として上手く。
「それより、あいつらが嗅ぎまわってるんならもっと悪いよ。早くヒ素、見つけないとね」
 そこに見えた微かな引っ掛かりは、馨子の言葉で破られた。
「映画のDVDケースから見つけたよ、これ」
 映っていたのは小さな小屋だった。剥げたペンキや、煤けた扉などから、長らく使っていないもののように見えた。ご丁寧に裏には住所まで書いてある。それを見た瞬間、何だか旅の終わりを感じた。
「ここなら分かる。今はもう誰もやってないかもしれないけど、シクラメンの株分けしてたところだったと思う。小学校の時、自由研究で買いに行った覚えがある」
「シクラメンか。寒冷地ならではだな」
「ほんとはシクラメンってそんなに寒さに強いわけじゃないらしいんだよね。でも、ドイツで流行った時――あ、ドイツってヤバいくらい寒いらしいじゃん? 寒さも平気なように改造したとかなんとか」
「そうなのか」
「これも、自由研究でやったんだよねー。……昌平も同じようにシクラメン買ったんじゃなかったかな? ……あいつのシクラメン、結局どうなっちゃったんだろう」
 写真の中の小屋は、随分前からこの状態で捨て置かれているように見えた。馨子と古寺昌平が小学生であった頃とは、まるで様子が変わってしまっているだろう。それでも、古寺昌平はそこにヒ素を隠したのだ。
「瀬越さん……ここに行くの、明日でいいよね。明日、あたしが学校終わったらで……」
 馨子が、何故か頼みこむような調子でそう呟く。何かを恐れているようにも、俊月のことを牽制しているようにも見えた。実際、俊月は今、ヒ素に手が届く位置に居る。この住所の小屋に行ったところで、そこからまたパズルが待っている可能性も無いだろうが、この場所が馨子と昌平の共通の思い出であるなら、ここにヒ素がある可能性が高い。
 人間は理由を探したがる生物だから。
「そうだな。バイト終わりに行くにしても八時過ぎだしな。別に今日行く必要はない」
「だよね。ほんと、そうだよね」
「……ところで、その……よかったら、バイトが終わった後、家に来ないか」
 今度はちゃんと言えた。ややあって、馨子がにんまりと笑う。
「おやおや、女子高生を家に誘うなんて、ちょっとアレだよねー」
「問題なことは分かっている。だが、もう既に一度犯している過ちだからな。咎め立てされるならば一緒に支払う心積りだ。……勿論、君に何か危害を加えるようなことはしないが、疑うならば相応の対策を取ってもらって構わない。俺の側でも出来ることがあれば言ってくれ」
「瀬越さんって何だか物凄くめんどくさいよね。めんどくさいっていうか、大変そう」
「……すまない。冷蔵庫の食材が余ってるんだ。よかったら、その……何か振舞いたい」
「マジで!? やった、今日あたし四時間だからさ、間の休憩無くてお腹すかしてると思うんだよねー。前祝いでもしようよ」
 ヒ素を手に入れることを果たして祝っていいものなんだろうか。
 それでも、冷蔵庫の中身は使い切らなければならない。

 今回もちゃんと手は動いた。この間手つかずだった豚肉を焼き、素揚げした野菜と一緒に手製の餡に絡めていく。これで買っておいた野菜の大半は使い切れた。あんかけ用の片栗粉は余ってしまったが、これまで使い切る判定に入れるかは悩みどころだ。
 二キロほど買ってしまっていた米については見逃してもらうことにする。炊いた白米をフライパンにあけ、焦げ目がつくように炒めてから皿に盛った。付け合わせの中華スープに春雨を用意するか迷って、すんでで止めた。ここから更に買い物に出ては意味が無い。
「今回は中華なんだね」
 出されたものを見て、馨子は無邪気に声を上げた。
「凄い凄い、瀬越さん何でも作れちゃうんだね。となれば今度は和食かな」
「俺は和食も得意だ。きっと満足してもらえると思う」
「ヤバ、ちょっと瀬越さんに惚れそうになったわ」
「………………」
「何もそこまで神妙な顔にならなくても」
 今回も馨子はよく食べてくれた。この間買ってしまった玉葱も人参も、餡に絡められて胃の中に収まっていく。自分と馨子を繋いでいた線のようなものも、一緒に回収されていく。
 結局、三分の一くらいが残ってしまったが、それでも十分だと思った。気分が少しだけ軽くなる。
 皿を洗って戻ってくると、退屈だったのか、馨子が部屋の隅にある本棚を見ていた。この部屋にある、唯一といっていい家具だ。布の掛けられたそれと、無邪気に目を輝かせる連城馨子の組み合わせに、自然と身が強張る。
 そんな俊月のことには少しも気づかずに、馨子は無邪気に尋ねた。
「ずっと気になってたんだけど、どうしてこの棚に布掛かってるの? ご丁寧にフックで留めてあるし」
「……プライベートなものだ」
「えっ、プライベート!? 瀬越さんプライベートある感じなの!?」
「無い感じの人が存在するか?」
「でも、じゃあここに――」
 そう言って、馨子がすっと手を伸ばした。恐らくは単純な興味だったのだろう。奇矯な同僚のプライベートだ、好奇心を擽られたに違いない。今まで受け続けていた悪意の波に比べれば、殆ど罪の無い部類だ。けれど、赤と白の水玉模様の爪の先が布を掠めた瞬間、俊月は思わず彼女の手首を掴んでいた。突然のことに驚いた馨子が、見開いた目で俊月を見る。
「その棚は駄目だ。……やめてくれ」
「あ……」
 馨子の目が怯えている。なのに手が離せない。力の入れ方を忘れてしまったかのようだった。包丁の扱い方を忘れたあの時のように、正解が分からなくなる。
 俊月が途方に暮れているのが分かったからか、馨子が無理矢理俊月の手を剥いだ。微かに残る赤い跡にぞっとする。俊月が何かを言うより先に、馨子の口が開いた。
「あたしこそごめん! 違うんだ、そんな顔させるつもりじゃなくて……」
「違う。これは全部俺の責任だ。俺の、俺が……」
 見せるわけにはいかなかった。
 何故なら、その棚にあるものは、菱崖小鳩に関係するものだからだ。その棚こそが俊月の執着そのものだ。それを見せてしまえば、そこから今の生活の全てが解れてしまいそうで怖い。
「……ごめんって。ね、そんな顔しないで、あたし、本当、もうしないから、だから」
「君が俺に協力を依頼してきた日、あの日俺には予定があった」
 気づけば自然に言葉が出てきた。
「嘘、マジで? ごめ――」
「俺はあの日、自殺するつもりだった」
 馨子が小さく息を呑むのが分かった。戸惑いも当然だろう。でも、言わずにはいられなかった。あの棚に馨子が触れかけたことで、俊月はようやく、自分についてを思い出したのだ。
 どうして今まで忘れていたのか分からない。ずっとそれから逃げていたのに。
 ――時間は俊月を癒し、痛みを傷跡にして、後悔を教訓に変えていくだろう。
 そのことが何より恐ろしかった。ただの悲しみが腑分けされて、具体的な形に置き換わることを知っている。諦めが人生を搦め取り、何となくで生きていけるようになることを知っている。
 冗談じゃなかった。まっぴらごめんだ。
 そうなる前に、俊月は死ななくちゃいけなかった。
「死のうと思っていた。人生なんてどうでもよかった。俺は自分の生きている世界というものが、どうしても好きになれない」
 絞り出すような声で、そう口にする。
 まるで自分の生きている世界が苦痛の練習台にされているようだと思った。
「……嘘、瀬越さん死ぬようには見えないのに」
「人間はいつか必ず死ぬ。永遠に生きていられる人間なんて存在しない。あるいは銀幕の中に居る人間はそうかもしれないが」
「いや、そういう意味じゃなくて……自分から死のうとする人には見えないってこと。もしかして、病気だったりする?」
「そうじゃない」
 そうじゃないから救えないのだ。俊月が苛まれているのは、もっと漠然とした絶望だった。
「……去年の暮れに友人が死んだ」
 馨子が表情を強張らせる。今まで誰にも語ることのなかった話だ。そもそも、妹と小鳩以外にまともな会話をする相手がいなかった。
「病気?」
「……ある意味ではそうかもしれないな。宿痾と呼ぶべきそれに苛まれて、結局は命を落とした。俺はその結末を予期していた。むしろ、今までよく生き延びたものだとすら思った。もう少し早くこうなっていたとしてもおかしくなかったのに」
「……悲しい話だね」
「習慣というのは恐ろしいものだな。その男が一定周期で家を訪れていたことが、俺の宿になってしまった。奴の不在は致命的だった。それが永遠ともなれば敵わない」
 誰かにこんな話をしたのは初めてだった。どうあったって歳華に出来る話じゃない。それでも、ずっと誰かに話したかった。
「……例えば、金曜日にその人間が来ないとして、どうやって生きていけばいいか分からなくなった」
「そんなこと、」
「俺はあまり人生が上手くなくてな。目先に何かが無いと日々の花が摘めない。金曜日に奴が来るというのが分かっていれば辛うじて頑張れた」
 頑張れた、という言い方が悲しかった。これじゃあまるで人生に何の楽しみも無かったようじゃないか。
 ……なんて独白すらもう遅い。散々承知の上だったのに、今更気が付いた振りをするなんてずるい。小鳩がいない人生が、想像を遥かに超えて味気なかった。それだけの話だ。
「その友達のこと、すっごい好きだったんだね」
 ややあって、馨子が言う。
「そういうわけじゃない。単に……それと妹以外の全てが嫌いだっただけだ」
 それを愛で括るのは、あまりに冒涜的だと思う。
 その時、馨子が口を開いた。
「じゃああたしは?」
 一瞬だけ言葉に窮した。
「え?」
「あたしが瀬越さんのこれからになれないかな?」
 真剣な眼差しで、馨子がそう呟く。
「あたしは毎週火曜日と水曜日と金曜日と土曜日にシフトに入ってるわけだけど、瀬越さんはあんまりあたしと被ることに意味付けしてくれなかったよね。それはちょっと普通に傷つくくない?」
「あ、いや、そういうつもりじゃ……」
「ごめん冗談。そんなビビんないでって。こっちもビビる」
 そう言って、馨子はいつものような懐っこい笑顔を見せた。
「つまり、そのー、あたしが言いたいのは、死ぬことないってこと! ていうか、あたし瀬越さんが死んじゃったらやだし、職場だって多分瀬越さん居てくれて良かった感じだと思うし」
「……良かった感じになったのは、恐らく君のお陰だと思うが」
「そんなことないよ、あたしがいなくても、瀬越さんはきっと大丈夫だったよ」
 そう言って、馨子が目を細める。
「瀬越さんさ、まだ死にたい?」
「……八割五分は」
「結構まだ死にたいんじゃん」
 そんなことはない、と俊月は心の中で思う。少なくとも、馨子のさっきの言葉を聞くまでは、九割五分死にたかった。人間はそう簡単に変わらない。その前提の上で、馨子の一言は重かった。
「まあ、ほんとにだいじょばなくなったら、死んでもいいよ」
 つらっと言われたその一言に、全てが詰まっているようだった。布の掛かった棚を見て、小さく溜息を吐く。
「大丈夫になった時が、本当に死ぬ時なんだろうな」
「よくわかんないよ、それ」
「大丈夫になる前に、どうにかしておきたい。不在の金曜日がただの金曜日になったら、いよいよ終わりだ」
 その時、瀬越俊月の方も死んでしまうのだと思う。比喩ではない激情を前に、俊月には為す術がない。
「こんな話をしてすまない……ココアでも淹れよう」
「あ、そういうのも守備範囲なんだね」
「妹が好きだった。いや、今も好きだろうな」
 ダイニングテーブルに移動し、ココアを淹れる。焦がさないように牛乳を温めて、砂糖とココアを加える。よく練ったそれを渡すと、馨子は表情をふっと緩ませた。その顔つきが、少しだけ歳華に似ていた。
「昌平のものを台無しにしたら、昌平怒ると思う?」
「……どうだろうな。怒るに怒れないんじゃないだろうか。古寺昌平のやろうとしてることは、それよりももっと悪いことだぞ」
「そっかー、そうだよね」
 ココアを飲みながら、馨子が視線を彷徨わせた。
「でも、あたしの言いたいことはそういうことじゃないんだ」
 それからは、当たり障りのない話をした。今のバイトを始めるきっかけの話や、東京に居る妹の話、北海道に来て驚いたことなんかを。あるいは、染め直したばかりの青緑色のインナーカラーの話なんかを。
「あ、でも瀬越さんに青カビみたいって言われたの忘れてないから」
「……その節は申し訳なかった。綺麗だ。すごく」
「んふ、その一言だけで赦したげちゃえる」
 そう言って、馨子の指が髪を一束摘み上げる。
「あたしのこの色ね、バンシーっていうんだ。よかったら、青カビ以外の名前も覚えておいて。きっと、忘れないで」
 その時、馨子が何だか泣きそうな顔をした。夜空色のアイシャドウを塗られた目蓋が震えて、ゆっくりと目が細められる。どうしてそんな顔をするのかがは分からなかった。ヒ素は見つかる。テロは止められる。何も問題は無い。それなのに、馨子はどうしてそんなに悲しそうなのか。
「それじゃあまたね、瀬越さん」
 バンシーカラーの女子高生は、そう言って帰って行った。

 一つだけ気に掛かっていることがあった。
 小鳩が死んだ後、俊月の家に一つの封筒が届けられた。歳華の名前が書いてあった時点で予感はしていた。ひっくり返して、思わず息を呑む。『菱崖小鳩』の四文字がそこには燦然と輝いていた。
 それを見て、動揺しなかったと言えば嘘になる。けれど、すぐに持ち直した。その封筒が自分に宛てたものじゃなく、歳華に宛てたものだったからだ。動揺を抑えながら、歳華に封筒を渡した。中身が何だったのかは確認していない。
 その後、歳華は涙ながらに小鳩のことを問い質してきた。
 今まで隠していたことを語るのは、案外簡単なことだった。何せずっと向き合ってきたことなのだから。
 恐らく小鳩は、自分の今までやって来たことを歳華に知らしめるものを送って来たのだろう。小鳩は歳華のことを特別に思っていた。ちゃんと口にはしていなかったが、恐らくはこの世の誰より好きだったはずだ。だからこそ、小鳩はそういうことをする。
 歳華に遺されたものは、世界で一番おぞましい祝福だ。それで断絶するならそれでいい。それでも止められないならそれもいい。
 歳華が出した答えについては知らない。けれど、それが俊月の出したものよりはずっと素晴らしいものだろうということは分かる。だからこそ、俊月は妹の元を離れる決意をしたのだ。彼女は一人でも歩ける。菱崖小鳩の明かした秘密を杖にして。
 なら、自分には何が残されているのだろう?
 封筒は一つだけだった。歳華に宛てたものだけだ。
 自分には、手紙はおろか報せすら無かった。自分がいなくなった後のことは考えて居たはずなのに、歳華と同じくらい長い付き合いである俊月には何も遺されていなかった。
 何を期待していたのだろうか。満期終了のお知らせとともに、記念品の貯金箱でも貰えると思っていたのだろうか? 御冗談を! そんなもので精算出来るような関係でも無いのだ。
 ただ、何かが欲しかった。
 小鳩は残された自分がどうなるかを欠片も考えていなかったのだろうか? そんなどうしようも無い考えに、俊月は今でも憑りつかれている。救えない。本当に、救われない。


 長らく暗闇の中に居たお陰で、そんなことを反芻してしまった。暇を潰せるものが無いと、思考が過去に寄っていってしまう。軋む小屋を背もたれにして空を見上げると、満天の星空が見えた。
 思考の糸を最果てまで辿り終える前に、暗闇の中から待ち人が現れた。
「馨子」
 少し前に別れた時とは、なんだか別人のようだった。
 調べたところによるとこの小屋は、シクラメンの球根の為に作られたものらしい。黒い籠の中に球根を入れ、この小屋で雨から守るのだ。けれど、今は一つの球根も無い。中にあったのは、半分土に埋まった赤いガラス瓶の群れだけだった。中にはヒ素が入っている。これだけの量があれば、相応のことが出来るだろう。
 何でもないことのように、馨子が言った。
「……瀬越さんじゃん。こんな時間にどうしたの?」
「それは俺の台詞だ」
「いーや、絶対瀬越さんの台詞じゃないよ。だって、瀬越さんはあたしが何の為にここに来たか分かってるでしょ? そうじゃなきゃ、こんな風に鉢合わせたりしないもんね」
 真夜中に見るバンシーカラーは、暗闇の中であるにも関わらず、一層美しく見えた。青黴のようだと思った記憶だって今は遠い。今の俊月は、青緑色の名前も、連城馨子がどんな人間であるかも知っている。
 不意に、バンシーのことを思い出した。美しい青緑色のことじゃなく、伝承のバンシーのことだ。スコットランドに伝わる死を予言する妖精。バンシーの予言は外れない。バンシーはこれから死ぬ人間の為に泣く。いつまでも、誰からも理解されない涙を流している。
「……もしかして、自殺の為?」
 不意に、馨子がそう言った。どうやら、ここに居る理由を類推したらしい。自殺志願者がヒ素の隠し場所に来たなら、確かにそう考えるのも無理はない。俊月はうっかり笑いそうになった。けれど、そうじゃない。
「いや、ヒ素で死のうと思ったわけじゃない。第一、俺は自殺するなら飛び降りだって決めているんだ」
「そのこだわり必要? きっと痛いよ」
「そうだろうな。だからだ」
 マゾヒストなの? と馨子が笑う。強いて言うなら、重力が誰にも平等であることを確かめたくて仕方がないのかもしれない。体が宙に浮く瞬間は、善人だろうと悪人だろうと、その中間に居る辺獄の人間であろうと等しいことを知りたいのだ。
 でも、今はそうじゃない。このテロリズムで止められた自殺なのだ。なら、最後まで見届けてやらなければ。
「それじゃあヒ素に何の用? まさか売り払うとか言わないよね?」
「金に興味があるわけじゃない。俺の望みは処分だ」
「悪いテロリストからみんなを守る?」
「みんなを守りたいわけじゃない。俺は、この世界があんまり好きじゃないんだ」
 世界が滅亡しようと、俊月は大して気にもしないだろう。歳華だけはどうにか生き残って欲しいと願って已まないけれど、その気持ちと世界への愛情は繋がらない。だから、今回のことだってそれと似たようなものだ。世界なんかどうでもいいけれど、『連城馨子』はそういうわけにもいかないのだ。
「馨子」
「なあに」
「処分するつもりなんてなかったんだな。本当は、君が使おうと思っていた。だから、俺に謎を解かせた。処分の前に回収に来て、そのまま俺の前から消えるつもりだったんだろう」
「消えてどうするつもりだと?」
 あくまで俊月の口から聞きたいらしい。いいだろう、と俊月は心の中で思う。どうしてこうも、犯人という奴はこちらに負担を強いるのだろう!
「一つしかないだろう。テロだ。ヒ素を使った、大規模なテロ。古寺昌平が行う予定だったテロだ」
「ま、そうだよねー。ヒ素からチョコは作れないからね。そういうことになるしかないよ」
 小さく笑ってから、馨子はこう続けた。
「一つだけ聞いてもいい? そのことが分かっててもさ、いつあたしが回収しに来るかなんてわかんなかったよね? 一体いつから待ってたの?」
「……別れてからすぐここに来たから……十一時くらいだな」
「ちょっと待って、こんな冷えるのに四時間近くここに居たの? ちょっとそれマジで怖いんだけど」
「いつ現れるかわからなかったから困ってしまった。まあ、俺は割合我慢強い方だ」
「我慢強いってレベルじゃないっしょ! はーあ、本当に瀬越さんって、おかしい」
「笑ってもらえて光栄だ」
 馨子が笑っている理由が、残念なことに俊月にはよく分からない。ジョークセンスの無さにかけては一級品なのだ。
「そもそも、いつからあたしを疑ってたわけ? 超人的な勘で最初から分かってましたーだと、流石のあたしもちょっと気恥ずかしーっていうか」
「おかしいな、ということに気が付いたのは、バイト先に馨子の知り合いを名乗る奴らが来た時だ」
 滔々と、俊月は語る。
「古寺昌平と仲の良かった連城馨子のところに来る、というのは少し順番がおかしいんじゃないか? 知り合い程度の女の子のバイト先まで押しかけてくるような人間が、どうして古寺昌平を問い詰めないんだ? 病院に直接行くのを躊躇う慎ましさがあるとは思えなかったが。それをしなかったということは、恐らく古寺昌平本人には会えない理由があったんだ」
「理由とか、あたし馬鹿だからそういうのよく分かんないんだけど」
「馬鹿じゃない」
 俊月は短く言った。そう思われた方が好都合だと思っていたのだろう。朝食の用意を買って戻ってきた時、馨子に向けられた敵意を思い出す。彼女が読んでいた本の、正確な題名は覚えていない。きっとミステリーやSFじゃないだろう。並んだ漢字、――北海道の都市構造についての本。
 女子高生が読むには少しお堅い本かもしれない。だって、そこには魅力的な探偵やあっと驚く真相は無いだろうし。けれど、彼女にはそれが必要だった。例えば、限られたヒ素の量に対して、効率的に人間を害することが出来る方法を知る為に。
「……その辺りの話をする前に、一つ大きな前提を話しておきたいんだが」
「……前提って何かな?」
「なあ、古寺昌平は死んでいるんじゃないか?」
 決定的な一言を口にしたのに、馨子の表情は少しも変わらなかった。それに少しだけ救われたような気になりながら、俊月は続ける。
「古寺昌平が、ヒ素の場所を教えずに死んでしまった。いくら考えても、どこにあるのかが分からない。でも、その手がかりらしきものはある。解き方は分からなかったものの、職場にはお誂え向きの人間が居た。だから、テロを防ぐという名目で俺に謎を解かせた。そうしてヒ素を手に入れるつもりだった」
「瀬越さんって、結構面白い話をするんだね。名探偵にうってつけだったわけだ。あたしの人を見る目も捨てたもんじゃないってことかな?」
「いいや、俺は〝名探偵〟として指名を受けたわけじゃない」
 言わんとしていることが分かったのか、馨子は口を挟まなかった。
「あまり嬉しい話じゃないが、俺は冤罪体質なんだ。俺があまりにも『犯人像』として優秀だから、同行させる必要があったんじゃないか? 君がヒ素を入手してテロを起こしたとして、入手経路が必要になるだろう。もしかすると、周囲の証言から、ヒ素が元々古寺昌平の発見したものだと判明してしまうかもしれない。そんな時、俺が機能するわけだ。内地からやって来た怪しい男が連城馨子にヒ素を斡旋した、とな。こういう筋書きにすれば、古寺昌平の名前を出す必要が無い。彼はこのテロの一切から外れるわけだ」
 これで何度目か分からないキャスティングだろう。けれど、小鳩にかけられそうになったものを思えばどうということもない。あれの重さに比べれば段違いだ。
 ただ、それを着せかけるだけの理由が馨子にあったというのが衝撃だった。
「こんなのは全部馬鹿げた仮説だ。だから――だから、今夜ここで見張っていれば、それで済む話だと思ったんだ。だが、君は来た。俺さえここに居なければ、ヒ素を持ち去っていただろう。そして、件のテロ計画を実行していた。……何か反論があれば言ってくれ。どうして、二人で行くはずだった小屋に、一人で来たんだ。俺がヒ素を持ち出すと疑っていたのか?」
「……そんなことないよ。瀬越さんはそんなことしない」
「……古寺昌平は、もうこの世に居ないんだな」
 首に手を掛けるような言葉を吐いて、もう一度馨子を見る。すると、彼女の唇がゆっくり「そうだよ」の四文字を吐き出した。とうとう出てきた言葉だった。……そうでなければいいと思っていた言葉だ。
「それが一番の引っ掛かりだ……古寺昌平が死んでいるのに、どうしてテロを恐れてヒ素を処分する必要がある? 誰にも分からない場所で、そのままにしておけばよかったものを。……答えなんて一つしかない。必要だったんだ。他ならぬ連城馨子が必要としていたんだ」
 未だに信じられなかった。
 人間の考えていることなんて分からない。人の外面と内面は一致しない。綺麗なインナーカラーも、手間を掛けているだろうネイルも、それがそれ以上を示すことなんてそうそう無いというのに。
「違うなら違うと言ってくれ。……そうしたら、俺は、」
「ううん。言わないよ。そう。あたしがヒ素を手に入れたかっただけ。昌平はもう何の関係も無い」
 それでも、馨子の言葉が信じられなかった。
「……どうしてテロなんか起こそうと思ったんだ。馬鹿げてるって言ったのは君だろう」
 その言葉に嘘は無いだろう。今だって馨子は、テロを馬鹿げたものだと思っているはずだ。その確信があった。連城馨子は無差別殺人に悦を見出すほど馬鹿じゃない。そして、殺人自体に何かを見出すほど狂っていない。
 ややあって、馨子が口を開いた。
「昌平は幼馴染でさ、マイヤン崩れで、ダサくて、一人じゃ何にも出来ないような奴で。なんだろーね。歳を経るにつれて、どんどん暗くなって、もう何にもする気力が無いって感じだった。あたしさ、そういう昌平のこと見てもう駄目なのかなって思ったんだよね。もう駄目になっちゃった後、人間ってどうなるんだろーって感じだったけど、なんかもう仕方ないかなって」
 馨子の口調は、普段のものとはうって変わって落ち着いたものだった。どこか諦観を滲ませた言葉だ。
「でも、そんな昌平がだよ? あたしに連絡して来てくれたんだよ。『ヒ素を見つけた』って。世界を変えられるくらい大量のヒ素を見つけたんだって、他の誰でもないあたしに連絡してくれたんだよ。凄くない? ヒ素、最初は帯広方面の道路脇の納屋にあったんだよねえ。昌平が久しぶりにバイク乗っけてってくれて、いっぱいの瓶見つけた時は興奮したなぁ」
 馨子の目はキラキラと輝いていた。その物語の中心にあるものがヒ素でなければ、、それは優秀なハッピーエンドだったのかもしれない。ピンク色のティントで彩られた唇は、静かな微笑を湛えている。
「昌平が言ったんだよね。これで誰も彼も殺してやるんだって。そういうとこも本ッ当に想像力が無いの。馬鹿だから、何かにヒ素を混ぜて、食べた人が苦しんでそれでおしまい」
「……酷い話だ」
「でも、昌平があんなに楽しそうにしているところも久しぶりに見た。だから、それでいいってことにしようと思ったんだ」
 その選択の仕方には見覚えがあった。どれだけ道義的に問題があろうと、その中で何が踏みにじられようと、誰かのその充足に価値を見出してしまう。
「それでも二人で色々計画について話すのは楽しかったなー。オクトーバーフェストでやろうとか、雪まつりでやろうとか。どれだけ殺そう、どれだけ殺せるだろうって、文化祭の前みたいだった。なのに、」
 そこで馨子は不意に言葉を切った。そして、泣く直前のような、笑う寸前のような、奇妙な表情を見せる。ややあって、言葉はこう続いた。
「昌平は自殺しちゃった。部屋で一人で首を吊ってた」
「馨子」
「何でだろう。あんなに二人で目にもの見せてやろうって言ってたのに、罪の意識かな。だったらそもそも計画自体を止めようって言えば良かったのに。何でだろう」
 心の底から不思議そうな声だった。無理も無いのかもしれない。馨子からすれば、突然全てが取り上げられたようなものなのだ。
「怖気づいたからこそ……君に託したんじゃないか」
「託した?」
「解けないなら計画は中止。だが、解けたなら続行。こんな面倒な暗号を解いてまで、ヒ素を探し出そうとするのなら、もう止まらない。反対に、計画に迷いがあるのなら、暗号を提示された時点で『馬鹿馬鹿しい』ってことに出来る。……卑怯な話だとも思う。勝手に死んで、勝手に託すなんて」
 俊月は死後の世界を信じていない。死んでしまった古寺昌平の意志なんて、何の意味も無いと思っている。馨子がヒ素で何をしようと、昌平にはもう届かないはずなのだ。それでも、馨子の目は揺らがない。
「あたしは本気でやろうとしてたよ。だからここに来た。この量のヒ素を、昌平よりずっと考えて作ったプランに沿って混入させるつもりだった」
「そんなことをしたら死人が出るし、街はパニックになる」
「分かってるよ。真面目な顔して言わなくてもさあ」
 馨子が小さく笑う。そして言った。
「あたしもさ、多分、世界のことがそんなに好きじゃないんだ」
 その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
「だったら、昌平のお願い聞いてあげた方がいいかなって。さほど愛着の無い世の中と、仮にも大切な幼馴染だった昌平との約束だったら、あたしは昌平の方が全然良いし」
 およそ同じ秤には載せられないはずの二つが釣り合う瞬間を知っている。俊月だって、同じ過ちを犯したことがある。
「あ、でも、もう何かするつもりは無いよ。どうせ瀬越さんは止めるんだろうし、全部バレちゃったのにわざわざ瀬越さんと争うつもりなんてない。ヒ素は諦める」
「……そうか」
「昌平が死んでくれてよかったのかもね。うん。……昌平は生きてちゃいけなかった。……もし瀬越さんがいなかったら、あたしもその仲間入りだったのかも」
 誰に聞かせるでもないような声で、馨子が言う。
「あたしも、死んだ方がいい人間なのかも」
 そして、馨子は弾かれたように顔を上げた。そして、くるりと身を翻す。その勢いに合わせて、青緑色の髪の毛がひらりと揺れた。
「じゃあね。あたし、あのお店も辞めるから。もう瀬越さんの前には現れないよ。ほんと、色々ごめんね。あたし、瀬越さんのことほんと好きだから。それだけは忘れないで」
 一方的にそう告げる馨子は、これで全ての幕引きを終えるつもりのようだった。きっと、言葉通り彼女は店を辞めるだろう。そうなれば、俊月は二度と彼女と会えない。電話を掛けてもメールをしても、馨子は絶対に応じない。
 だからこそ、ここで引き留めなくちゃいけなかった。身を翻して去って行こうとする彼女の手を掴む。掌に爪が食い込む。痛かった。
「待ってくれ」
「……や、ここで引き留めちゃ駄目くない?」
「見せたいものがある」
 そう言って、俊月は馨子の手を引いた。意外なほど抵抗が無い。果たして、夜半に馨子と手を繋いでいる自分はどう見えるだろうか。
 お互いに無言のまま、夜の道を行く。タクシーを拾いつつ辿り着いたのは、何のことはない、俊月の家だ。
「ここ……」
「さっき、」
 鍵を差し込みながら、小さく言う。
「棚に触れようとしたのを止めただろう」
「……うん」
 件の棚の前に立ってから、ようやく俊月は手を離した。掌に残る赤い跡を拳の中に隠して、息を吐く。
「ここにあるものを見られたら終わりだと思った。……いや、君はそうとは思わなかったのかもしれないが、あの時の俺は過敏になっていた」
「……別に何があっても驚かないでしょ。や、なんかこうアダルトな感じなものだったら多少気まずい気分にはなるかもしれないけどさ」
「それよりも、もう少し切実で酷いものだ」
 そう言って、俊月は本棚に掛かった覆いを取り払った。露わになった瞬間、馨子の目が大きく見開かれる。
「え、隠すほどのものじゃないじゃん、これ、別に変なものとかじゃないし、なんで……」
 馨子の狼狽が手に取るように伝わってきた。こんなに誰かの気持ちが分かりやすく伝わって来たのは初めてだった。
 勿論、これがどういう意味を持つのか、彼女には分からないだろう。誰しもがそこに内々の意味を込め、色々な激情を閉じ込めている。その拠り所が、俊月にとってはこの本棚だった。
 馨子の狼狽を置き去りにして、俊月は静かに言う。
「金曜日に来ていた……死んだ友人は、死んで当然の人間だった」
 その露悪的な言い方に、馨子が少しだけ眉を顰めた。けれど、悪い人間であることと好ましい人間であることは対立しないのだ。少なくとも、俊月の中ではそうだった。
「別に誇張表現じゃない。俺の親友は殺人鬼だった」
 ともすれば信じてもらえなさそうな言葉だった。嘘であってくれたらいいと、今でも思う。
「スナッフフィルムを知っているか。人が殺される様をフィルムに収めた、悪趣味な映像のことだ」
「知らない……」
「俺の親友はな、それを作っていた。あいつは、色々な人間を不幸にした。あれがいなければもっとよりよい人生を送れていた人間がいくらでもいる。あれが関わったことで、様々な物語が破壊された。もっと早くに死んでくれるべきだった。そうであってくれたら、もう少しだけ世界は優しくあったはずだ」
「そんなこと、」
「古寺昌平はまだ誰にも手を掛けていなかっただろう。けれど、俺の友人はそうじゃなかった。そうなったらもう駄目だ。どうにも出来ない。あれは人間を傷つけることに――それを作品に昇華することに憑りつかれていた。それこそ、狂おしいほどに」
 俊月は、隠していた本棚の方をちらりと見た。まるで、それが罪の証であるとでもいうような気分だった。その本の並びすら、俊月はもう覚えてしまっている。
 本棚に並んでいるのは、全て『人類の歴史』について書かれた本だった。人類がどのように発展してきたか。どのように生きてどのように死んでいったのか。ここにある本は、それを様々な角度から教える本だった。
「そのことを知ってもなお、俺はその友人のことを嫌いになれなかった。通報することもせず、ただ黙ってその害悪が世界に為すことを見続けていた。そうしている内に報いが来て、何も出来なかった俺は、たった一人世界に取り残される羽目になった」
 それを罰だと呼ぶのすらおこがましいだろう。だってどこかで分かっていた。いずれ降る雨を、傘も持たずに待っていた。そんなものじゃ到底償えない。菱崖小鳩はそれだけ重い。
「取り残された俺は、人間というのは何なのかを考え始めた。どうして人間は誰かを傷つけなくちゃいけないんだろう、どうしてあいつみたいな人間が生まれてしまったんだろうと思いを巡らせた。人類の歴史を手繰って、人間について考えた。そうして気が付いた」
「何に?」
「人間の長所に、だ」
「長所、」
「人間は多様性を担保にして進化を続けてきた。一つの原因で絶滅しないよう、この広い世界の様々な場所に散った。何を生業にして暮らすか、何を愛して生きるかも個人によって違う。一人として同じ人間はいない。思考があまりにも多様性に富んでいるからだ」
 ――あれだけ長い間一緒に過ごしても、俊月には菱崖小鳩のことが少しも理解出来なかった。
「この多様性が、俺の親友を生んだ。ほんの少しの神の手心で、スナッフフィルムを愛好する人間が生まれてしまった。……俺はそれを恐ろしく思った。だが、同時に、それだけのことでは、あいつを嫌いにはなれなかった」
 例えば、親友が何百人を苦しめた大罪人だったとして、『嫌い』に手が届かなかったらどうすればいいんだろう? その答えが今の俊月だ。その感情は、小屋に凭れながら見上げた星空よりも遠かった。挙句の果てに、小鳩は一人で勝手に死にやがったのだ。これじゃあもう嫌いになりようがない!
「だから、理由は後から見つけた。人間は、多様性を担保して進化してきた生き物だ。この多様性こそが、俺達をこの舞台に引き上げた。だから――」
「……だから?」
「どんな人間でも、生きていていいんだ」
 ぽつりと、俊月はそう漏らした。
 それが、北海道にやって来て、料理を失い、その代わりに得た自分なりの答えだった。歳華の答えは分からない。けれど、俊月の答えはこれだった。
「分かってる。こんなの詭弁だ。だから見られたくなかった。こんなものを拠り所にしていたって何も変わらない。あいつは生き返らないし、犯した罪は雪がれない。俺はこれからもずっと死にたい。ただ、俺達が世界から赦して貰える理由があるとすれば、これだけなんだ」
 もう理由を手に入れたっていいはずだ。金曜日に君はもう来ないので、馬鹿馬鹿しい感傷を咎められることもない。
「だから、古寺昌平が死んでくれてよかったとは思わない。……俺の親友が死んでくれてよかったなんて言わせない為に」
 どんな悪人だって生きていていいはずなんだ、と俊月は小さく漏らした。
 今更過ぎる感傷を抱きしめて、どうしてまだ生きているのか。自分で自分が不可解だった。そうしてようやく気が付いた。
 自分は人生が上手くないのだ。死ぬことだけが例外であるはずがない。小鳩を失ったその日から、小鳩に殺されなかったあの日から、俊月は死に損ね続けている。
「あたし、悪い人間だった。みんな死ねばいいと思ってたし、未だって多分それは変わらない。誰かが死んだって、そこまで悲しいとなんて思えない」
「ああ」
「これから先、また誰かを傷つけようとするかもしれない」
「そうだな」
「なのに本当に生きてていいのかな」
 正しくなくても生きていていいんだろうか。馨子の問いは根源的なものだった。菱崖小鳩を赦すことと、目の前の連城馨子を赦すことは本質的には同じことだ。
「ああ、そうだ」
「なら、まだ生きてようよ。いつか本当に赦してもらえる日まで」
 俊月は頷けなかった。そんな日は来ないと知っている。でも、それを口にする馨子の声があまりに震えているので、目すら逸らせない。一歩間違えれば、彼女の前で泣いてしまいそうだった。あの日死のうとしていた自分を救った、人の形を取った気まぐれの前で。
「……そうだな」
 彼女に命を救われた。
 だから、この口から出る嘘の一つくらいあげたって構わないと思った。馨子に何を言われようと、きっと俊月はこれからも死にたい。あたしじゃ理由にならないのかと、軽々しく口にした彼女を思い出す。今だから思った。連城馨子は理由にならない。馨子は自分の理由になれない。自分が、彼女にとっての古寺昌平になれないように。
「もう瀬越さんの料理食べれないの残念だな。あたしね、瀬越さんの料理より美味しいもの食べたことなかった。ほんとだよ」
「そうだろう。俺は料理が上手いんだ」
「瀬越さんがそうやってちゃんと言えるのは、信頼してる誰かが、何度も伝えてくれたからなんだろうね」
「…………」
「じゃあね、今度こそバイバイ、名探偵」
「……ああ、さよならだ。ありがとう」
 馨子は、本当に久しぶりに、柔らかい笑顔を見せた。
 恐らくは古寺昌平に向けられ続けていた顔なのだろう。
「送って行こうか」
 時計の針は午前四時過ぎを指していた。カーテンの隙間から、星を拭うような青紫色が見えている。
「大丈夫。一人で歩けるから」
「そうか……」
「ねえ」
 踵の高いブーツを履きながら、馨子が言った。ドアノブに手を掛けたまま、ゆっくりと振り返る。
「……信じてくれるかわかんないけど、昌平が変わったのは、変な人間と関わったからなんだよ。本当の昌平は……昌平は、いい奴だったんだ」
「……そういうこともあるだろう」
 誰かとの出会いは良くも悪くも人間を変えてしまう。俊月だって、小鳩と出会っていなかったらもっと違った人生を生きていたはずが。必ずしもそれが幸いだったとは言えないが、それだけは確かでもある。ややあって、馨子はこう続けた。
「それが、瀬越さんと同じで内地から来た人間だったから、あたし本当は瀬越さんのこと、ちょっと警戒してた」
「内地から……」
「そう。知ってるか分かんないけど……大通り公園の近くのホテルに居た人で……でも、瀬越さんは良い人だったよ。……ごめんね、騙して。あたし、瀬越さんに会えてよかったよ」
 馨子が華やかに笑う。その笑顔の価値といったら! それなのに、どういうわけだか心がざわつく。幸せなことが起こりえない気がする。全てを台無しにするおぞましいフィナーレがやってくる予感がする。待ってくれ、と言うより先に、自分の口が動いていた。
「その人間の名前は」
「名前? うん、名前ね。何だか凄く平和的な名前だった気がするんだよね」
 その悪寒に既視感があった。懐かしくもある。こういう時、人間は涙を流すのかもしれない。でも、俊月は人間が下手だったので、泣くことも、ましてや逃げることも出来なかった。身を固くする彼の前で、歌うように馨子が言う。
「そうだ、……鳩だ。コバトって言ってた」
 コバト、というのは確かに平和的な名前だと思った。よくよく考えてみれば恐ろしいほど皮肉な名前じゃないか。コバト、とその名前を繰り返す。そして、珍しい名前でもある。小鳩という名前を持った人間を、俊月は他に知らなかった。

 人は影響を与えずにはいられない。
 菱崖小鳩が瀬越俊月に与えたように。古寺昌平が連城馨子に与えたように。
 そして、菱崖小鳩が古寺昌平に与えたように。
 小鳩は旅行の計画を立てていた。いつか歳華と自分を北海道に連れてくる時の為の詳細な計画を。三人での旅行に思い入れがあったのは間違いない。けれど、それだけじゃないだろう。
 小鳩は、俊月に語ってきかせたあの計画の軸を、別のものに据えていたのだ。
 恐らくは、大量のヒ素を使った大規模テロなんかに。
 小鳩がどういう経緯で古寺昌平と出会い、ヒ素を見つけたのかは分からない。その辺りの順番すら、もう俊月には分からないことだ。何にせよ、小鳩は古寺昌平に接触し、彼を唆した。
 この一件自体が菱崖小鳩の置き土産だ。古寺に接触して、小鳩は一体何を吹き込んだのだろう。古寺昌平もまた、菱崖小鳩を見て特別な人間だと思ったのだろうか? かつての自分を思って苦い気分になる。小鳩と出会ってしまった時のあの高揚感は、とにかく身体に悪いのだ。
 例えば、の話を思う。ヒ素を見つけたのが小鳩であるならば、それをどう使うだろう? 自分で使う? 他人に売る? いいや、そんなことはしないだろう。彼なら、もっと面白い使い方をする。そう、例えば誰かを唆してそれを使わせる、とか。
 一連の流れをフィルムに記録したら、それこそ素晴らしいドキュメンタリーになるかもしれない。一人の人間が破滅し、多くの人間を道連れにする様は、規模の大きなスナッフフィルムでもあるのかもしれない。
 だとすれば、得心がいく。一連の暗号を作ったのも、やはり小鳩なのだろう。古寺昌平が土壇場でおじけづくことを見抜いた小鳩は、傍らに居る少女――連城馨子の方に目をつけ、彼女が解けるだろうお誂え向きのヒントを用意してヒ素への道筋を示した。何らかの理由によって古寺昌平が機能しなくなった時のバックアップとして、馨子を用意した。
 本当はもう少しちゃんと誂えるつもりだったのだろう。しかし、今年の初めに、あるいは去年の終わりに、小鳩が死んでしまったことで計画はズレこんだ。ただ、今になってようやく、小鳩の仕掛けた物語が溶けだしたのだ。
 ――他ならぬ、瀬越俊月をきっかけにして。
 偶然ではあったはずだ。小鳩は、俊月がここに来ることを予想していなかった。連城馨子が俊月に話しかけることも、テロについての相談を持ち掛けることも、絶対に予期していなかったはずだ。だから、これは小鳩の遺した糸の残骸に過ぎない。
 それをたまたま俊月が拾い上げてしまった。その糸が、俊月を断崖から引き戻した。
 小鳩はこの悪意の回収に来る予定だったはずだ。なら、あの計画自体にも、まだ仕掛けがあるに違いない。何の根拠もない推理だけれど、俊月はそう確信する。何しろ、彼は長らく菱崖小鳩を間近で見続けていたのだ。


 馨子には、小鳩が泊まっていたホテルの名前を聞いていた。ここにだって、小鳩は何かを仕掛けているだろう。それはテロに関係することなんだろうか? それとも他の悲惨に繋がるものだろうか?
 殆ど駄目元で、俊月はそのホテルに向かった。受付で『菱崖小鳩』の名前を出し、何か預かっているものが無いかと尋ねる。すると、いかにも上品そうな支配人が現れて、にこやかに笑いかけてきた。
「あなたは瀬越俊月様ですか?」
「……はい、そうですが」
「特別クロークの方に菱崖様からのお預かりものがございます。何か本人確認の出来るものはございますか?」
「あ、はい……保険証なら……」
 そうして受け取ったものは、細長い箱だった。
 拍子抜けしなかったと言えば嘘になる。小鳩がずっとこのホテルに預け続けていたものなのだ。もっと大仰なものであるはずだと勝手に思っていた。箱の表面には何も書いておらず、振ってみても音がしない。一体これは何だろうか?
 ただ、期待はしていた。
 小鳩のことだ。きっとこれは、ろくなものじゃないだろう。大方、今回の一件に絡めたものか、俊月に託す用のヒ素か、あるいは、何かの証拠品かもしれない。
 以前だったら開きたくもない代物だが、今回は違った。どんな手酷いことをされても構わなかった。濡れ衣だって上手に着てやれる。何だっていいから、小鳩の欠片を拾い上げたかった。
 小さな箱を持ち帰りながら、俊月はふと思った。
 今回は歳華に宛てたものじゃない。でも、あの小鳩がこんな形で自分にメッセージを送ってくるとは思えない。
 だとすれば、小鳩が自分に宛てるものは、想定よりずっと酷いものなんじゃないか?

 ――例えば、自分が死んだ後、わずかな手がかりと会話を元に痕跡を探し回るだろう親友を、殺してやる為のものであったりとか。

 その想像をした瞬間、何故か酷く安堵した。
 あの日、やり損ねたことを、やられ損ねたことを、ここでやり直してくれるつもりなのかもしれない。この箱の中に入っているもので、小鳩は自分を死なせてくれるのかもしれない。
 逸る気持ちを抑えながら、一人きりの食卓に箱を置いた。本棚から布が外れて、かつて理由を求めた本たちが覗いている。返事が無いと分かっていながら、その名前を呼んだ。箱を開ける。

 そこに入っていたのは、雪のように白く光る一挺の包丁だった。

 しっかりと固定された抜身の刃の横に、洒落たメッセージカードが添えられている。
 そこには、見間違えようもない小鳩の筆跡で、こんな言葉が書かれていた。

『ハッピーバースデー瀬越! ああ、誕生日じゃないとかそういうのはいいからね。困るな。どうせ、君がこれを受け取る頃には、誕生日の一つや二つは迎えてるだろうし。そもそも生きている限り誕生日っていうのは迎えるものなんだからね。どうかな』

 生きている限り、と小さく復唱する。
 小鳩はどんな気持ちでこれを選んだんだろうか。
 いつか一緒に北海道へ来た暁に渡すつもりだったに違いない。それがいつであるかには頓着していなかっただろう。生きている限り、いつかそういう日が来るだろうと確信していただけで。いつ死ぬか分からない自分の為に歳華への封筒を、いつまで生きるかも分からない自分の為に、俊月へのプレゼントを。
 その時、全てが腑に落ちた。
 あの男は、歳華を遺して死ぬことは想像出来ても、俊月を遺して死ぬことは想像出来なかったに違いない。だから、死に際しての贈り物なんて寄越さなかった。来年行くだろう北海道での贈り物なら用意してやれた。俊月の人生においては、菱崖小鳩が必要不可欠だという無邪気な驕り! 正解だ、と知らず知らずの内に口にしていた。正解だ。小鳩は俊月の人生の伴奏者だった。
「俺は、人生が下手だからな」
 それから俊月は数年ぶりに大声で笑った。
 そして一頻り笑い終えた後は、声も上げずに泣いた。


(了)


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