「自分という存在の正当性」 4月19日 日記


いや、いつもならここで小粋なジョークの1つや2つとばしながら日記を始めるところなのですが(やったことない)、今日は正真正銘ネタがない。なのでとりあえず思いついたことについて少し書いて満足したら止めます。明日には忘れるような思考だから、日記に書くのはある意味正しいはず。


今日twitterで生きる意味について「自分は完璧な神が作った存在なのだから、存在していいはずだ」みたいな主張を見た(解釈が間違っているかもしれないし、チラッと見ただけなので出典が貼れず申し訳ない)。

強い考えだなとは思った。綻びは『神が完全かどうか』という点に集まっている気がするから、そこを盲信的に信じることが出来るなら問題なさそう。我々は神が創造されし使徒なのでそこは問題ない。


そもそも皆様は自身の存在の正当性に悩んだことがあるだろうか?

生きる意味とかでも近い意味かもしれない。これなら悩んだことがある人も多そう。私も中学生ぐらいの頃くらいによく悩んでいたような気がする。

色々考えていると、大体の生きる理由が他者に依存する部分を持っている気がする。誰かのためになるとか有名になるとかは分かりやすい。別に生きる意味を他人に依存することを悪いとは思っていない。でもその程度が大きければ生涯を他人にぐちゃぐちゃにされることもある。一切他人に関与しない生きる理由も存在するだろうけど、そんなものを指針に一生を生き抜ける人なんてほとんどいないだろう。

だからこそ「生きる意味なんていらない」みたいな結論に飛びつくのが楽だ。今しか生きることができないのだから、生きる意味なんて死ぬ直前に後付けすればいい。

しかして、こうも考えられないほど強く『死』に引っ張られた人は落ちていくし、何か理由があったほうがいいのかもしれない。さっきは生きる理由を他人に依存し過ぎることに危機があるみたいなことを言ったが、結局人生は他人に引っ張りまわされるものなのかもしれない。仙人みたいな人は分からんが。

少なくとも自分が他人の人生に茶々を入れていることは自覚する必要がありそう。程度はさておいて。そこに無自覚な人間はいつまでも自分が物語の主人公で、自分が見ていなくても世界は進行することを根本的に理解していない。自分の些細な行動が他人の今後を左右するかもしれないと思いを馳せることもない。


結論とかではないので自分の話になるけど、生きる意味に関しては特にないと思いながら生きるのがいい気がする。だから何をやっても自分の勝手だと思っておく。実際は全くそうではないんだけど。そこに集中し過ぎると人生を長く生きていくのが辛い気がするので、色々なことに適度に無自覚な方が生きやすそう。

しかして他人に干渉する部分に関しては注意を払う。こう言うと当たり前のようなことを言っているが、まぁ色々自分なりに考えた上ですよ、という重みにはなっている気がする。今日は抽象的なことしか言ってないので自分でもよく分かんない。


長くなっているのでこの辺でやめるけど、このとりとめのない妄言みたいなのを全く整然としない形で出力するのも日記の使い方としていい気がしてきた。読み返したら気に入らない点とか恥ずかしい点が出てきそうなので読み返さないけど。

こういうてきとうなことを喋ったら、いい感じの返答をくれる友人が欲しいな。と思ったけどそれはあまりにも自分本位過ぎると自省できたので、この日記を書いた意味があったかもしれない。


それではまた。

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