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『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』②

 『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』①の続きです。①は以下からご覧下さい。

https://note.com/syamamoto/n/n2afd39b09401

 では,感想の続きを述べていきたいと思います。

「『ことばはツールではない』と前面否定するわけではありません」

と述べられ(p.121),これを前提として話が展開されていきます。

 本書によれば,ことばをツールととらえると,

どちらが便利か,どちらが効率がいいか

という議論になりがちだと述べられています。

 たとえば,何語をやるのがいちばん良いかとか「文学国語」と「論理国語」のどちらがいいかというように,ことばがコミュニケーションツールとしてみなされると「選択の対象」となり「費用対効果」が問われるとのことです。
 すると行き着く先は,「情報を得られれば良い」となり,「自動的にやってくれる機械があればいい」となり,「ことばがなくなって」いき,そして「人間が機械の歯車の一部となって,私たちもツール化されていく」とのことでした。

 私が抱いていた違和感が少し解消された気がしました。「コミュニケーションツールとしての言語」。このことに違和感を覚えながらも,間違ってはいないので否定することはできませんでした。これまでは「コミュニケーションツールとしてのみの言語習得」という点に違和感がある程度にしか考えていませんでした(というか説明できませんでした)が,その違和感が言語化されて少しすっきりしたように思います。

 「ことばを学ぶ」意義は使うことだけではありません。「費用対効果」を追求するあまり,歴史,文化,伝統など,時空を超えた視野を手に入れたり,「言語を相対化」したりすることを犠牲にすることにつながるのでしょう。さまざまな側面を「失う」ことになります。
 「ツールとしてのことば」というとらえ方ばかりしていて,「コミュニケーション」は成立するのでしょうか。

(続く)

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