『悲華経』を読んで その6

7. 普賢大士の徳

無量浄王(過去世の阿弥陀如来)の授記が終わると、過去世の観音菩薩や文殊菩薩等の授記が順々に説き述べられていく。その中で、私は以下に示す一人の王子の誓願が心に残った。

世尊(宝蔵如来)よ、願くば我、首楞厳三昧を得て三昧力を以ての故に地獄の身を化作し、地獄の中に入り、地獄の衆生のために微妙の法を説き、勧めて阿耨多羅三藐三菩提心を発さしめむ。(国訳経五84頁)

三昧を得ることを目的としておられるのではなく、その力をもって、地獄の業火で苦しむ者と同じ身となって、そのものの為に法を説かさせてくださいと、宝蔵如来に願い出ておられるのだ。
ここを拝読する中に、私はかつて久保光雲 師の御法話で知った『大般涅槃経』の一節を思った。

善男子、たとえば父母の所愛の子を捨てて終亡すれば、父母は愁悩して命をともにせんと願うごとく。菩薩もまたしかなり。一闡提の地獄に墮するを見て、またともに地獄に生ぜんと願う。何をもっての故に。この一闡提にして、もしくは受苦の時、あるいは一念の改悔の心を生ぜば、我すなわちまさに為に種種の法を説き、彼をして一念の善根を生ずることを得しむべし。是の故に此の地をまた一子を名づく。

菩薩の「一子地」を示すこの御文に、私は深い感銘を受けた。また先に説かれた王子の深い慈愛の心を、改めて思わずにはいられない。
そしてこの王子(阿弥具)は、宝蔵如来によって以下のように讃えられ、名を改められる。

その時、世尊、阿弥具を讃じて言く、善き哉、善男子よ、汝、今、世界の周匝四面一万の仏土を清浄に荘厳す、未来世においてまた、まさに無量の衆生を教化し心をして清浄ならしむべし。また、まさに無量無辺の諸仏世尊を供養すべし。善男子よ、この縁を以ての故に今、汝の字を改め名づけて普賢と為す。(国訳経五85頁)

ここに、尊い誓願を立てた王子は、「普賢」と名を改められたのだ。
普賢菩薩は、釈尊の慈悲を司る脇侍として聞かせて頂いている。そしてまた、『大経』の序分には、御聴衆の菩薩方を「みな普賢大士の徳に遵へり(註釈版4頁)」と示され、それは『大経』の会座におられる方々がみな「還相の菩薩」であることを意味すると聞かせてもらっている(第二十二願 還相回向の願 参照)。
そのことを踏まえて振り返ってみると、先の王子の誓願は、そっくりそのまま還相の菩薩の御心として、浄土真宗でもより身近に味わわさせてもらえるように思う。

弥陀の回向成就して
 往相・還相ふたつなり
 これらの回向によりてこそ
 心行ともにえしむなれ(註釈版584頁)

私が賜った「南無阿弥陀仏」のご信心。それは往相と還相の二つのはたらきによってもたらされたのだという。すなわち、いま・ここの私に届いている「南無阿弥陀仏」を通して、還相の菩薩のはたらきを味わわせてもらうことができる。
さらに、私が浄土に生れさせてもらった後のすがたとしても、尊く味わわせてもらうことができる。

仏法は、縦横無尽に懇ろに説き明かされている。私のような若輩浅学の身が言うのも滑稽なことかもしれないが、様々なお経を読めば読むほど、より広大で豊かな味わいを感じれるようになると思う。「仏法は微細に聞け」との蓮如上人の言葉が響いてくるようだ。

南無阿弥陀仏

つづく


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