今日だけ生きるということ
明日を生きることが出来ない時というのは、人生にはままある。ままあっては欲しくないけれど、残念ながらままある。たとえば来月は家賃が払えないことが確定しつつあり、借金を返せる目途はなく挙句の果てに働きに出ることさえできない、みたいな日。せめて勉強くらいしようと思って宅建の教科書を開いたら、1行の情報も頭に入らない。自分の頭はもう途方もなく悪くなってしまった、自分にはもうこの人生をまともに生きていく力は残っていない、鬱で布団から出ることすらできない。かといって、日に一度か二度くらいは飯を食ってしまう。
もうどっから見たってどうしようもないのに、のそっと布団から起き出して炊飯器のめしを器に盛って立ったまま食う。それなりに味がして、こんな状況でも米はうまいんだからすごいよなと思う。そんな状態でドロドロしているうちに僕の二十代は終わってしまった。もちろん、ところどころに光がさしこんだようなところがないわけではないけれど、終わってみたらそれは何一つ結果の出なかった二十代だった。挑戦は全部失敗だった。敗北。僕の二十代を表現するなら、たぶんこれしかない。そして、それはきっと運の問題とかあるいは誰かのせいなんかではなく、単なる僕の愚かさであり無能さだった。愚かな挑戦をして、愚かに敗北をした。借金だけが残った。
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