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省察研究その16「1人をちゃんと見る」

【出来事】


 総合の時間、Tさんが1人でタブレットを前に、20分以上も何もせずにいるので、「自分たちで決めた目標のために、Tさんができることってなんだろうね。自分で決めることがまず一歩なんじゃない?上手いとか上手くないとかは関係ないんだと思うよ。自分で納得がいくかどうかじゃない?」と声をかけた。


Tさんが自分に自信が持てず、書きたい内容やりたいことがあるのに書けないでいると考えたからだ。しかし、Tさんのその日の日記を読むと担任の考えがいかに的外れなのかわかる。
以下、Tさんの日記。



今日の3時間目に発見で3人が電話に行ったから、1人でポスターの内容を練習用で書いていたら、先生が来て色々なことを言ってくれて、自分の中で「なるほど」と思い、1人で話すのは苦手だったけれど、決意して「ポスターの紙をもらいに来ました」と話せて、これも成長なのかなと思いました。


【担任の省察】


 Tさんにとっては、ポスターの紙を1人でもらうことに大きなカベがあったのか。私が思っていたカベは、もっとずっと先にある。Tさんとは見えている景色が違う、立っている場所が違うことに気が付いた。でも、これまでだったら、スルーしていた日記かもしれない。苦しいけど、ちょっとだけ省察し始めてよかったと思った。


「この単元ではこんなチカラをつけてほしい」などという願いを持ち、授業を考えてきた。しかし、いつの間にかその願いには、本当の意味での具体的な子どもがいなくなっていたことに今さら気が付いた。勝手に社会を不安視し、勝手に子どもを一括りにし、勝手にゴールを用意していた。経験を積み、勉強をするなかで、子どもというものがわかった気になっていた。何のための教材研究だったんだろう。指導案が早く書けるようになって、そこに何の意味があったんだろう。今、目の前のTさんの学びに気付けなかったことが悔しい。



Tさんは、Tさんとして生きて、ちゃんと自分のカベを自分で理解し、ちゃんと乗り越えている。1人ひとりに、その子だけの超えたいカベがきっとあるだろうな。子どもってすごいな。ちゃんと自分のことわかってるんだ。もしかすると、自分だけじゃなくて友だちのこともわかっているのかもしれないな。担任の自分は同じ景色を見ていない。もう授業なんかしたくないなー。自分の発する一言一言に自信が無くなった。


みんな他の先生たちはどうやって授業しているんだろう。授業でのめあて、問い、課題は、だいたいどの教室を覗いても1つ。だれにとってのめあてであり、問いであり、課題になっているんだろう。1人ひとりに合った、1人ひとりに学びがある授業なんかあるのかよ。ほんとにみんなやってるのかよ。


【翌日の担任の省察の省察】


また、1人よがり、自分本意になっていた。

また自分の力でなんとか子どもを変えようと思ってしまっていた。

反省。

よくよく考えてみると、これまでの授業でだって子どもたちは勝手に自分で何か学んで、勝手に成長してきたはずだ。なら、別に全員に合っためあて、問い、課題なんか突き詰めなくても、1人ひとりが学んだことを、こっちがちゃんと感じ取って、一緒に笑顔になれたらいいんじゃないか?大事なことは、一緒にわかることじゃないか?学んでいること、がんばっていることをわかる。きっとこれは、この前書いた肌感覚じゃなきゃいけないやつ。わかってあげよう、とか、きっとこんなこと考えてたんだろうなぁ、は、わかってないやつ。



 この学校の先生がよく子どもと遊ぶのは、この肌感覚がズレないためなのかなぁ。無意識でやっているとしたらすごいなぁ。でも、遊びだけが方法じゃない気がする。生活そのものがきっとそういう感覚を作っているんだろう。


 いわゆる生徒指導事案をよく起こし、その度に反省ができないHさんの姿を見て、学びがないことを不安に思い、彼を見ていこうと決めた今回の研究。今さらだけど、Hさんに本当に学びがなかったのか気になってきた。自分のしたことを素直に認めることが学びだと決めつけていた担任。そんな担任には見えなかったHさんの学びがあったのかもしれない。こうあるべきだ、という色眼鏡で見ているから見えなかっただけかもしれない。Hさんは何を学んでいるのだろう。


 Hさんとクラスとの関係性について課題を挙げたが、本当の課題は担任と子どもたちの間にあって、子どもたちの中では何も問題ないんじゃないか?HさんがHさんらしく生活できている、それがすべてなんじゃないか?だったら、これから何したらいいんだろう。


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