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省察研究その17「環境整備が正解とは限らない」

【出来事】

図工の授業。

以前描いていた作品(廊下の絵)を描き終え、今は校舎を外から見た絵の制作を行っている。

これまで通り、HさんOさんYさんの3人は一緒の場所で同じものを描いている。廊下の絵を描いていた時は3人で集まっても黙々と作品に向き合っているという印象を受けたが、今は3人でおしゃべりをしながら、ふざけ合いながら作品を描いていた。


【担任の省察】


 3人の姿を見た時、おしゃべりせず集中して絵を描くことを強要しなかったんだ。「おいおい、お話するのは楽しくていいけどさ、集中して描かないとよい絵なんか描けないぞ」ってHさんの肩でも組みながら絶対言ってたな。目に浮かぶ。でも、しなかった。変わってきたってことかな。



3人の横に行って胡坐をかいて絵を見た後に「どう?順調?」とだけ声をかけていた。「廊下よりむずい!」とOさん、「俺はお前より順調だし!」とHさん、「先生、俺が1番上手くね?」とYさん。その後もワーワーお互いの絵についての会話が続いていく。あー、こういう関係、やっぱり素敵だなぁと思った。人と比べるなとか、自分が満足すれば、とか子どもたちに何度も伝えてきたけれど、この3人の関係性にはそれは当てはまらないな。

なんかもう、こういう関係性が理想な気がしてきた。クラスの他の子どもたちの方が心配になってきた。子どもたちが3人の関係性から学ぶことって、もっとあるんじゃないか。うーん、でも他の子たちは、その子たちなりの関係性を築いているわけで、それに対して、「こっちの方がいいよ!」って言うのもちがう気がする。


せっかく同じクラスになったんだから、みんなが関わり合って、成長していくべきだ。って考え聞いたことあるし、自分もどこかでそうしてきた節がある。

結果、ずっとくっ付いて離れない女の子5人組を引き離そうと試みたり、群れる男の子たちを分解しようとしたりもしたことも昔あった。

でも、変だよなって今は思う。一緒にいたいと思える相手と、一緒にいるからこそできること、学べることがきっとあると思う。自分だってそうだもん。学校の先生全員となんて、等しく話せない。自分が話したいなと思える相手と話す。でも、会議や語る場があれば、もちろんどんな先生とも話す。仕事だし、話す場だって判断しているからそこに私情は挟まない。きっと他の先生だってそうなんじゃないかな。でもそれで、学校は成り立っているんじゃないかな。これって、学校という限られた社会でだけで成り立つ話なのかな。もし、どんな職場でも一緒だよってことになるなら、子どもたちも今のまま、ありのまま、望む関係性のままで生活を送ればいいんじゃないかな。



修学旅行の班決めの時、「男女が大体半分ずつくらいになるように、メンバーを考えよう」と班長に提案した。すると、だいぶ話し合った後に「先生、どうして男子だけ、女子だけの班を作っちゃいけないんですか?」とこの前聞かれた。その時自分はたしか「男だけ、女だけでは将来生きていけないからだ。社会について学ぶ場が修学旅行だから、男女は一緒なんだ。」と意味わからないことを言った覚えがある。その時の班長の顔はよく覚えている。まったく納得していなかった。別に男子だけの班があってもいいのか。今さら遅いかな。明日班長に聞いてみよう。
こっちが勝手に、「今、学ぶ場ですよ!今、これを学ぶんですよ!」って言ってるようで気持ち悪いな。もちろん実際に言ってはないけど、これってパワハラかな。「環境を整備する、環境を用意するのが教員の仕事だ」って言葉も耳にしてきたし、これもやっぱり自分もよく使っていた。念が入りすぎた環境って、やばいな。教育って一歩間違うと怖いな。



翌日、昨日の反省を受けて、修学旅行の班を全員で考えた。6人班もあれば、5人班、7人班もある。自分たちで楽しむために考えた結果だ。たくさん悩んでいたけれど、「こうしなさい!」っていう枠を作らなければ、ちゃんと子どもは自力で解決できる。

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