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きちんと冬になり、春に向かう

「京都の冬は寒いでしょう〜」
京都に住むようになってから、仕事関係の人からのメールの半分は、
いつもお世話になっております。」
のあと、この京都の寒さを気遣う一文が添えられることが多くなった。

しかし最近までこの問いかけに、うまいこと返せないでいた。
別にうまく返す必要もないのだろうけど、期待に応えるとしたら
そうなんですよ!京都、寒すぎますよ!
みたいな感じなんだろうな〜と思っていたのだが、実際のところ、引越したばかりの年の冬はさほど寒さを感じなかった。

もちろんそれなりに雪は降ったし、夜遅く帰った日はマスクをしていても鼻から肺に流れ込んでくる冷気に「まさに京都の底冷え」という実感もあった。
しかし、ひとたび家の中に入ると、日中の日差しで温められた余韻が残り、なんというか「常温」のような感じ。暑すぎず寒すぎず、ちょうど良い。

そういえば、昨年の冬はエアコンの暖房を一度も使わなかったし、一応、床暖房の設備もあるのだけれど、それも一回も使用しなかった。
使った暖房器具といえば、旧宅から捨てずに持って来た小さな電気ストーブだけで、それですら日が傾き始めてから使うくらいだった。

最近のマンションは機密性が高いとは聞いていたが、実際に生活して本当にそうだなと思う。それに加え、そもそもが私の生活形態は、部屋で過ごす時間が圧倒的に多いため、京都の寒さをダイレクトに感じられなかったのかもしれない。

なので、「いや、それが思ったより寒くないんですよ!」という答えがきっと正解だったのだろう。でもそれは私が「家にいるからよくわからない」からそう思うわけで、実際に早朝から出勤してる人や、夜遅く帰宅する人にとっては超寒いはずなので、みんなの期待に応えるように「はい。それなりに寒いです。」と返事をするようにしていた。

そう思っていた矢先、あの大寒波によるゲリラ雪だ。

寒波が来るという報道に対してもあまり真剣に捉えていなかったし、(山の方はともかく)この辺りはそんなに降らないだろうと思っていた。

なのに、だ。
呆れるほど一瞬にして、あたり一面が雪景色となった。

あっという間に目の前の世界が変わった


少し前まで明るかったのに、ふと窓の外を見ると雪の粒がぐるぐる舞い踊るように降っていた。視界も見事に真っ白で、遠くの建物はほとんど見えない。

これは…吹雪だろうか?
そう思う一方で、なんだか少しだけワクワクしてしまい、子どものように数分ごとにカーテンを開けては窓の外を見て、またしばらく経ってからカーテン開けて外を見る…という、やたら落ち着かない行動を繰り返していた。

京都に降る雪って、そこにある景色(街並みだったり、神社仏閣だったり)の魅力をさらに際立たせる効果があるような気がする。だからこそ、ワクワクしてしまうのかもしれない。

昨年もそういう思いがあって、雪が降った翌日にバスに飛び乗り、雪化粧された金閣寺(鹿苑寺)を見に行ってしまったのだった。


昨年は、うっすら雪化粧の金閣


さすがに今年は見に行かなかったけど。
とりあえず、近くの天神さんまで歩いて行ってみた。昨年の雪の日に履いたスノーシューズを下駄箱の奥から引っ張り出し、シャーベット状になった雪道を滑らないよう細心の注意を払って歩く。普段通っている道なのに、いつもと違う歩き方をしてしまうので数倍疲れる。

しんしんと静かに降り、心を穏やかにしてくれる雪も、生活の中では少々厄介者となる。

雪を纏う天神さんの早咲きの梅たち


そして、この日を境に一気に寒くなった気がした。
朝晩の冷え込みも感じるようになり、駐車場に停めていた車のバッテリーまで上がってしまった。(長いこと乗っていなかったのも悪かった。)

ほんの数日前までは「寒いでしょう?」のうまい返し方をどうしようとか悩んでいたのに、堂々と「寒いですよ〜」と返せるようになった。

きちんと冬になったなぁと思った。


京都は冬がいいと誰かが言っていた。
その良さを、私はまだ完璧にはわからないけれど、感覚的には自分に合ってるような気もしている。
芯までキン…と冷える空気が感覚を研ぎ澄ませるのか。
無秩序に散らかった思考の整理が済んで、新たに生き直す時間が始まるまでの静かなひとときに思える。

冬枯れの木が一番好き


ちょうど節分が過ぎ、立春を迎えて新たな一年が始まった。これから三寒四温を繰り返し、だんだんと春に向かうのだろう。
こういう季節のうつろいに、もっと敏感でありたいな。


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