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シーサイド・フランス③

しばらく僕はユウカと海沿いの道を歩いた。

ユウカは海をずっと見つめていたので、僕は尋ねてみた。
「海、好きなの?」
「うん、すき」
「どうして?」
「きれいじゃん」
会話は終わってしまった。美しさに理由などないのだ。理由が説明できてしまうものなど、大したものではない。僕も黙った。


そういえば最後の日、彼女は海に行きたいと言ったのだった。小さい頃、よく訪れた親戚の家の近くの海に。僕は、なんで?と尋ねた。彼女は黙って、それきり一言も発さなかった。それから彼女は姿を消した。大学へも出てきていない。改めて考えると、普通の人間はあまりしない姿の消し方だった。急な家の事情かもしれないし、なにか事件に巻き込まれたのかもしれない。当時の僕は彼女を探した。彼女の学部やバイト先の友人に行方を知らないか訊いて回った。彼女のSNSに更新がないか張り付いていた見ていた。でも、手応えのない噂ばかりが飛び交い、スマホの向こうの世界の時間は凍ったように動くことはなかった。つまり、何の手がかりも得ることができなかった。

僕は次第に彼女を少し責めるようになった。まがいなりにも僕は恋人だったからだ。それを放って姿を消すなんて、無責任すぎではないかという気がしてきたのだ。それでも僕は彼女を忘れることができなかった。憎んですらいるのに、帰ってきてくれさえすれば、すぐに許せてしまう気がしていた。僕は本当に弱くて優柔不断な男だなと思う。でも帰ってくるなら、僕なんて弱くて良いと思っていた。

それから一年、連絡は通じない。僕は遠くの男とよろしくやっていると思うようになった。現代人が姿を消すなんて、よほどのことがない限りありえない。きっと社会的に非難を浴びるようなことをやらかしたのだろう。だから消えたのだろうと、いろいろなことに考えを巡らせたが、結局確かな結論は出なかった。


しばらく海岸沿いの道を歩くと、山の方にまっすぐ伸びた道が見えた。
「あ、こっちだ」
ユウカが言った。
「わかるの?」
「うん!多分、すぐそこ」
ユウカは走って道を進んでいく。蝉の声が近くなってくる。進んでいくと、ぶどう畑が見えた。
その中をずんずんという音が聞こえてきそうな勢いでユウカが進んでいく。僕もそれについていく。

ぶどうの木が立ち並ぶ果樹園を抜けると、小さな理髪店が見えた。
「あ!ふらんす!」
ユウカが叫んだ。
理髪店の前には、円柱をトリコロールが回っていた。ぐるぐると音が聞こえてくるようだった。
なるほど、フランス。そういうことか、と僕は思った。
看板をみると「シーサイド・ふらんす」と書かれている。パン屋みたいな名前だなと僕は思った。ぜひブラックコーヒーでも飲みながらモーニングをかましたい。



「シーサイド・ふらんす」は、ユウカの叔母のやっている理髪店だった。
ユウカは30代前半くらいの叔母に迎えられ、無邪気に駆け寄って、頭を撫でられていた。きっと叔母のことがとても好きなのだろう。嬉しそうに笑っている。
「あのお兄さんがね、連れてきてくれたの」
「そうなの?ありがとうございます」
「いえ、僕も時間があったので」
「ご迷惑おかけしました」
「海であそんでくれたの」
「ユウカとはどこで?」
「電車が一緒になって、声をかけられて…」
するとユウカが遮った。
「このお兄さん、ホームレスなの。だからわたしが連れてきたの」
「え?」
「ホームレス?」

なんてことを言うんだ、と僕は思った。見知らぬ少女をクソ暑い中、親切に送り届けたのにこの言われようは納得できない。
「だって居場所がないって言ってたし、髪ぼさぼさだし」
僕はもう何も言う気力が湧いてこなかったが、このままでは本当に不審者にされてしまう。
「違います。この子が迷子だって言うので、目的地まで連れてきたんです。電車には、僕の他に誰も居なかったですし」
言えば言うほど怪しくなってくる感じもしたが、僕は努めて丁寧に真摯な態度で話した。
ユウカはにんまりと笑っていた。
それを見て、さすがに叔母もユウカの出鱈目に気がついたようだった。
「ひどい子ね。親切に送ってくれたんでしょ。ごめんなさいね、この子。親しくなるとすぐ調子に乗ってイタズラするから」
「いえ、わかっていただけて何よりです」
危うくフランスではなく日本で検挙されるところだった。僕はホッと息を漏らした。
「でも、その髪は確かに切ったほうが良いかも」
「うんうん」
「え?」
「見てると切りたくなってくる」
「不潔」
「モテなそうね」
「ええ?」


ひどい言われようだった。けれど客観的に見ればそれは概ね事実かもしれなかった。彼女が消えてから、自分という人間を客観的に見たことなどほとんどなかった。そんな余裕が僕にはなかった。赤の他人にどう思われようが、僕の頭の視野の中においてはどうでも良いことに分類されていた。
僕の髪を切ろうとユウカの叔母が提案してくる。僕は嫌だというが、なかなか聞き入れてくれない。でも正直、汗と海水でべとついた髪にはうんざりしていた。頑なに切らないと決め込んでいるだけで、よくよく考えると絶対に切りたくない理由なんて僕にはなかった。


そして、結局僕は髪を切ることにした。ベタついた髪が、適度に暖かいお湯に溶かされていく。頭を洗って、乾かした。気持ちよかった。

少女に半ば強制的に連れてこられた街の理髪店で、久しぶりに彼女ではない誰かに切られるのだ。僕の髪は彼女以外に切られた記憶をなくしてしまったように、他人のハサミをよそよそしく、けれど仕方ないという様子で受け容れていった。
シャキシャキと音を立てて床に落ちていく自分の髪を、視界の端で眺めてみる。彼女の役割であるはず僕の散髪が、誰かの手によって行われいる。それが想像していたよりもずっと、あっさりしていた。僕の心はもう少し揺れ動くのだと思い込んでいた。意外にも、リズミカルに響くその音を、ほとんど無感動で聞くことができてしまっていた。そのことが、僕を少しがっかりさせた。僕の中で、彼女はそこまで重大な存在ではないのかもしれないと、その時初めて思った。



思えばきっと、最初から少し違っていた。彼女の海への思い入れなど、僕は知らなかった。知るつもりもなかった。知らなくていいとさえ思っていた。音楽にしたってそうだ。彼女のうたっている姿は好きだったが、彼女のうたっている歌は正直よくわからなかった。良いと思わなかった。うたっている内容は、誰かと誰かの別れ話が今日も世界のどこかでたくさん起こっていて、でも私はあなたとコーヒーを飲んでいる。あなたは私の気持ちに気づかずに、だとか。くだらないとか思っていた。軽蔑さえしていなかったが、それに近い感情を向けていたと思う。初めから、終わりまで、僕らはきっと混じり合うことなどなかったのだ。線路が平行で続くのが当たり前のように、僕と彼女はまっすぐで、自分たちの進むべき道を曲げることなんてなかった。歩み寄って理解をしあうことなんて出来なかったのだ。少なくとも僕は、彼女に大きく関わろうとしていたのではなかった。僕は彼女を愛していたのではなかったのかもしれない。僕が最も快適に生きられる環境を築くのに彼女という存在が貢献していたために手放さずにいただけだったかもしれない。必要とは、そういう便宜的な意味での必要性だったのかもしれなかった。でも一方で僕は、彼女になんの対価ももたらさず、そのことになんの疑いもなく、そしてそれに対する贖いもなかった。それにうんざりしていたから、彼女は消えたのかもしれない。

失ってから大切さに気づくのではなく、大切さは失ってから完成されるものなのだ。僕にとっての彼女という存在は失われて大切さを獲得した。この切られゆく長い髪たちも、結局のところ、彼女を大切だと思っていた証拠を僕が創り上げていることの表れに過ぎないのかもしれない。愛するとはなんだろうか。僕が僕のために彼女を必要だと思うことは愛ではないだろうか。僕は自分が大事なだけではないだろうか、そんなことを考えなかったわけではないではないか。見てみぬふりをしてきたのではないか。
切られゆく髪を見て、完成された彼女の大切さが、少しずつ崩れていく実感があった。僕は僕の築いた妄想に、気づいてしまったから。

彼女に何ができただろうか。僕の側に置いておく目的とは別に、彼女になにもしてあげることができていなかった後悔が途端に湧いてきた。それが悔しくて、情けなかった。僕は泣いていた。

なぜだろう、ユウカも泣いている。
その泣き顔が彼女に見えた。いや、彼女の泣き顔そのものだった。

一度だけ僕は彼女の涙を見たことがある。
何気なく流れていたドキュメンタリー番組で、母と娘が仲良く遊んでいるシーンを見ていたときだった。母親は遊んであげているという感じではなく、自分までもが楽しんでいるという様子だった。僕はこういう母親になる人と結婚したいなあなんて思いながら観ていた。それでふと隣を観ると、彼女の頬を涙が伝っていたのだ。僕はどうしたの?と彼女に訊いた。彼女は「いや、なんか。いいなあって」とだけ言ってそれ以降はなんでもないと笑ってごまかされてしまった。


彼女は消えた。事実として僕がわかるのはそれくらいだ。考えてみると、もしかしたら僕の想像の至らない規模の大きな不安や恐怖を、彼女は抱えていたのかもしれなかった。大きな何かに立ち向かっていたのかもしれなかった。そんなこと今まで考えもしなかった。僕はその力になることができたのかもしれない。彼女の力になってあげたかった。これは僕のためだろうか、彼女のためだろうか。いや、本質的にそんなことはどうだって良い。僕は僕のせいで彼女が消えたと、今まで思い込んでいたけれど、それはただの思い込みであったかもしれない。僕は傲慢だ。そんな簡単な話ではなかったのかもしれないのだから。



髪が切られる。
彼女が遠ざかってゆく。


脳裏に焼き付いていたはずの彼女との記憶が、アルミニウムを燃やすように、強く光ってはその輝きを永遠に失っていく。
ああ、もう会うことは無いんだな、と初めてわかった。そして、それがとても嫌だった。

思い出たちが急に蘇ってきて涙が溢れてきた。耐えられなかった。声を上げながら泣いた。髪は切られ続けていた。

彼女にもっとなにかしてあげればよかったという後悔が記憶の明滅とともに強さを帯びていく。同時に、彼女を必要だと思う気持ちは薄れてゆく。抱えた気持ちはひどく複雑な気がするのに、心の中は整頓されていく感覚になる。



会えないはずなのに、僕は、僕が望む以前に、彼女に会うべきであるという気がしてきていた。なぜだろうか。僕になにができるというのだろうか。例え、僕自身になにかが出来る実感が得られなくとも、彼女と居続けるべきである気がしてきていた。





そして僕は泣きじゃくるユウカに別れを告げ、フランス国旗がくるくると回る街の理髪店を出た。
ユウカは最後に「またね」と言った。


滞った鈍い温もりを、夏の風がさらっていった。遠くには海岸線に近づく太陽が望めた。




目を覚ますと僕は終点に着いていた。

停車した電車は扉を開け放しにして、来る気配のない乗客を待ち構えては、熱気だけを引き入れている。 顔を上げてあたりを見回してみる。
少女の姿は見当たらない。
僕の髪は、長いままで視界をゆらゆらと揺れている。

「夢か」
僕は呟いた。



微睡みで鈍く痛む頭を抱えながら、僕は電車を降りた。少し涼しげな風が海の香りをかすかに乗せて吹いていった。

僕はポケットからスマホを出して、彼女の番号を探す。連絡がつかなくなって、主な連絡手段は全部絶ってしまった中で、どうしても消しきれなかった彼女の電話番号。彼女はきっと出ない。でも、僕は彼女に電話をかけることにした。

プルルル。
コール音が聞こえる。
プルルル。
だめだった。

僕はこれからどうしようかと、しばらく考えた。そして「シーサイド・ふらんす」を探してみようと思った。どうしても「シーサイド・ふらんす」は実在するような気がしてならなかったのだ。ユウカの泣き顔が、彼女の姿と重なり、網膜に貼り付いている。ユウカという少女も、ただの夢の中の存在には思えなかった。根拠のない確信が僕に取り憑いて、不思議な好奇心が足を動かせた。

駅を降りて海岸線を歩くと、ユウカと歩いた光景が蘇ってくる。不思議なことに、ぴたりと同じ景色なのだ。妙な感覚を抱きながら、夢の記憶を頼りに、歩いた道をたどる。海岸通りから少し内陸に伸びる道の先に、ぶどう畑が見えた。あの先に、きっとあの理髪店がある。半ば確信じみた気持ちが僕の身体を進めてる。そしてぶどうの木の間をくぐり抜けた。

「あった…」

夢とは違い回っていないフランス国旗の上の方に、「シーサイド・ふらんす」と書かれた看板が見える。
僕の胸は高鳴る。息切れもしている。次の瞬間は自室で目覚めるだろうか。そんな喪失の予感を持ちながら、足を前に出す。
カーテンは締め切られ、店は営業していないように見えた。

中を覗いてみると、誰かが髪を切られている。

僕はその後姿に見覚えがあった。
彼女だった。

僕は次の瞬間、叫んでいた。
彼女と、髪を切っていた女性が振り向く。驚いた様子で僕の方を見ている。
彼女はしばらく僕を見つめ、少し経って涙を流した。僕もそれを見て泣きそうになった。しかし笑った。笑ってみせた。実際、巨大な嬉しさがこみ上げてきたのだ。
彼女の髪を切っていた女性が出てきて、僕を見た。いくらか歳を取っていたけれど、夢の中で見た顔だった。

少し笑って、
「君も。髪、切ろっか」
と言った。僕は大きくうなずいた。

そして彼女の隣に座り、手を握りしめた。彼女はずっと泣いているけれど、髪を切られながら僕はそれを笑って見守った。自然とそういう表情になってくるものなのだ。なにも悲しいことなどない。僕らはまた会えたのだから、一緒に居続けることが出来る。
彼女は泣き止まない。なにを話すわけでもなく、ぎゅっと僕の手を握っている。



そして僕は、優しい花と書く彼女の名前を、なにかを取り戻すように確かめるように、何度も呼び続けた。







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