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「好き」の理由たち:パリに纏わるエトセトラ


私は常々「推し」には理由があるけれど、「好き」には理由がないものだと思っている。

だから「好き」たちの理由を模索することは不毛だとわかっているけれど、あるきっかけを機に探ってみたくなった。


今回から何回かに分けて「好き」を探る旅に出ようと思う。


あなたの「好き」も教えてほしいな。




パリ

3〜4歳頃、密かに私を宝塚音楽学校に入団させようとしていた父の思惑と、幼い私の興味が合致してクラシックバレエを習いはじめた。普段の練習着から発表会の特別な衣装・お化粧まで美しく煌びやかなバレエの世界も、気品溢れるクラシック音楽も、それに合わせて踊ることも大好きで得意だったけれど、父譲りで身体が硬く絶望的にセンスがなかった。バレエ自体は好きでトゥシューズを履けるようになるまでは続けたいと、結果的に小学校を卒業するまで続けたけれど、中学に上がると同時にパタリと辞めた。元々、ずっと続けるつもりはなかったのだ。私のおてんばさとセンスのなさに降参したのか、母によるといつのまにか父は「娘の宝塚入団作戦」すら口にしなくなっていたという。

そんなバレエの本場はパリである。それゆえに私とパリの原点はバレエにあると思っていた。

けれど、それではエッフェル塔や凱旋門やノートルダム大聖堂やサクレクール寺院といった歴史的建造物や、ナポレオン3世とジョルジュ・オスマンが改造した美しい街並みに惹かれた理由が説明できず、自分でもなぜだろうと思っていた。



しかし、昨年パリを訪れて気がついた。

私にとってパリは美と自由の象徴だったのだ。

人間は美しいものを好む。
どう足掻いたって心奪われる。

パリの街は美しさそのものだったし、
そんな街を毎日心ゆくまで歩き回れたあの期間、なんというか、勝手に魂が解放されていくような気分だった。

人生でもっとも自由だった。
そうか、私、自由を愛しているんだな。


自分にとって大切な価値観のひとつはきっと「自由」なのだと思う。その価値観に紐付いた好きは、絶対だ。



絵画

今回「好き」の理由たちを考えたくなったきっかけは絵画にある。

私が好きなものの中でいちばん、好きの理由がわからなかったのが絵画だった。

私自身、絵を描くのはこの世で最も不得意な裁縫の次くらいに苦手だ。本当に芸術的なセンスが微塵もない。絵心が欠片もない、微塵もない。(大事なので繰り返した。)

彼や両親はマハさんの小説を読んでから急激にハマっていったと思っているし、そう見える理由もよくわかる。実際、中高の頃も美術のテストや世界史日本史の美術史はあまり得意ではなかった。


だけどよく考えてみれば、観るのは昔から嫌いではなかった。


父とは古代エジプト展に行ったりもしたし、祖父母とはルーブル美術館展に行ったことだってある。なにより、高校の頃、美術部に所属していた友人と遊ぶときはいつだって美術館に行っていた。当時は「(絵画が)嫌いじゃない」し、「その友人が行きたそうだから付き添う」という認識で行っていたけれど、よく考えてみれば普通は興味なくその程度の気持ちで行けるような場所ではない。無意識下ではきっと、ずっと昔から絵画を観ることが好きで、マハさんはその気持ちを「自覚させてくれた」だけなのだと思う。

今では美術展に行ったら必ず図録を買うかどうか一旦悩むし、大抵の場合は「買う」を選択する。東京に来てから、彼に「ここ行きたい!」というとき、その目的地はほどんどが美術展だし、行きたいものが多すぎて追いつかず、先週の土曜はひとりで2つ展覧会を訪れた。



自分は絵を上手に描けない。上手くなくても”芸術的””独創的”であればいい、がまかり通るはずの世界なのに、評価される芸術に仕立てることもできない。

水泳だったらはやく泳げないことが辛い。歌だったら上手く歌えないことを悔しい。一方で、絵に対してはそういう、自分の未熟さを嘆く気持ちが一切なく、自分より上手くてセンスがある人たちの作品を素直に”すごい”と思うことができる、

だからかな、と思ったりもしたけれど、それにしたって違和感があった。

そんな私が次に立てた仮説は「パリを感じることができるから」というものであったが、それだけでもない気がした。


なぜ自分は絵画が好きなのだろう。


それを考えながら絵と対峙していたロートレック展だったけれど、最後にはこんな答えが浮かんでいた。


絵画は他者(=画家たち)の心動かされた瞬間を共有してくれるから。


画家に限らず、私たちはひとりひとり、心動かされる瞬間は異なる。
たとえ同じ時間・空間を共有している恋人・友達同士でも、どこで心が動いたか違うものなのだろう(同じ場合もあるかもしれないけれど)。


人の瞳はフィルターだ。

1番わかりやすいところで言えば、視力や病気といった物理的なものによっても見え方は変わるし、その日の気分1つで同じ事象をどう捉えるかが変わるように世界の見え方だって変わるのだろう。


モネは緑内障だった。

実際、連作の〈睡蓮〉は、最初はちゃんと印象派とはいえ「睡蓮を描いてるんだな」と誰が見ても大抵わかる描かれ方をしていたが、晩年に近づくにつれて”そうは見えんやろ”と思うような描かれ方をしている。実際に、モネにはそう見えていて、自身が「見たまま」を描いたから、同じ<睡蓮>と名付けられた作品群がそれぞれに違った描かれ方になったのだろう。


ものの見え方には、その人のこれまでの人生すべてが詰まっていると私は思う。


画家たちが描いたその光景は、彼らにとって忘れたくない、心動かされた記憶の一片なのだろう。それが美しくないわけがないのだ。




写真

写真もひとが心動かされた瞬間に撮るものだ。

しかも、「ほんもの」を撮っているつもりでいて、実は美しく見える角度から撮っていたり、綺麗なものになるように切り取っていたりするし、撮影機材の癖によって、目で見るより濃くはっきり映ってしまうといった”変わり方”をしていたりする。そういう意味で、見方によっては絵画と同じように”フィルター越しの風景”とも言える。


だけど、私は絵画とは逆の、「記憶をのこせる」という観点の理由から、写真が好きだ。


先ほど述べたような”変化”のあとのものをデータとして見せられているのだとしても、カメラに収められたものは実在する「リアル」であり、「ノンフィクション」だということに変わりはない。


この世界にある美しい「ほんもの」を見ることができる。


これほど画期的で感動的なことはない、と私は思う。


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