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ワタシのカケラ


湊かなえ さんの『カケラ』を読んで、考えさせられたことが多くて、読書エッセイを書いてみました。


以下、容姿の話が出てくるので、苦手な方はご注意ください。



私の容れ物


中高時代に許可されていたら、
私はメイクをやっていったのだろうか。

A. No.

朝の支度に時間をかけるくらいなら、泳ぐのに支障が出ないよう、1秒でも長く寝ていたかった。

外見を磨くことに時間を費やすくらいなら
内面を磨くために勉強や読書に励みたかった。





自分に向けられる「かわいい」「美人」「細い」という褒め言葉が嫌いだった。


ある人にとっては、喉から手が出るほど欲しい言葉かもしれない。それを「嫌い」ということが、自慢だと思われ、どれだけの人を敵に回すか、わかっていたから言えずにいた。



両親、祖父母、親戚に言われるその言葉は、
我が子・我が孫バイアス、かつ、本音。
仲の良い親友や幼馴染のお母さんから言われるその言葉は、仲良しバイアス、もしくは、本音。


それだけなら喜んで受け取っていられた。


なのに、昔から特別仲がいいわけではない知人も、初めて会った人も、私のことを嫌っている人も、みんな揃えて私を褒める時は「かわいい」「美人」「細い」と言った。

そういった人が言う「かわいい」って、なんて薄っぺらいんだろう。

そう思っているうちに、嫌いになった。
他人には、思っていない「かわいい」は言わなくなった。





「かわいい」って、言う側だけが得する褒め言葉だと思っていた。

「かわいい」に絶対的な基準はないし、「かわいい人」は何人いてもいいし、思っていなくても言える。それでいて「私は相手を褒める性格の良さもあるのよ」と、性格いいアピールまでできる。

「かわいい」って言われるたびに、「中身は空っぽだね」って言われているように感じた。



「かわいい」って、言われる側が損する褒め言葉だなと思っていた。

「ありがとう」って言うと「調子乗ってる」と言われることがある。
「そんなことないよ」って言うと「かわいいって思ってるくせに」「謙遜なんかいらないって」と怒られることがある。

なんて反応したらいいのかわからない褒め言葉No.1だ、と思う。




同じように外見を褒められるのなら「その服いいね」「センスいいね」とかが良かった。
同じように生まれ持ったものを褒められるのなら「翠ちゃんの声好き」とかが良かった。


なにより、褒められるなら「優しい」や「賢い」のように、内面的なことや努力によって身につけた能力について、褒められたかった。

…褒めなくていいから、ただ「(人として)好きだよ」って言われたかった。




だから、いろんなことを考えた。いろんなことを頑張った。

「中身は空っぽだね」って言われないために。
「顔はいいけど性格は悪いよね」って言われないために。


だけど

私が顔より好きだと言われたかった声は「嫌い」と言われた。

高い地声は、滑舌の悪い声は、「気持ち悪い」らしい。

「嫌い」はたくさんいわれたけれど、「好き」はあまり言われなかった。

「かわいい」だけじゃなくて、「ぶりっ子」と言われていたことを知った。




私は、自分をかわいいと思ったことがない。
ブスだ、と思ったこともないけれど。

自分の顔を好きだ、と思ったことがない。
嫌いだ、と思ったこともないけれど。


それは容姿に興味がないからだ。


歯を食いしばって生きてきたせいか張ってしまったエラと、
ほうれい線、
真顔時に下がる口角、
バレエのお団子ヘアで禿げ上がった前髪

それらがなければな、とは思うけれど、
まあいいや、って思っていた。


それは、容姿に興味がなかったからだ。



みんなが言うように、ほんとうに「かわいい」のなら、私は自分の顔を「可愛い」と思えただろう。「好きだな」と思えただろう。なにより、誰からもいじめられたりしなかっただろう。「かわいい」というだけで許されてきたことがあっただろう。私が好きになった人は、みんな私を好きになっただろう。そんな領域だったら、今頃SNSで自撮り上げまくっていただろう。写真映りもこんなに悪いわけないだろう。ミスコンにスカウトされていただろう。


自分の顔は中途半端だ、と思った。


自分で中途半端だと思っている、興味のない容姿をいくら褒められても嬉しいわけがない。



でも「細い」は事実。
事実を見たまま言われているだけ。

「うらやましい」?

知らないでしょ。

私の細さは、モデルがランウェイに立つことを禁じられる不健康BMIであること。骨格的にいくらがんばっても、数値上のバストサイズより貧相に見えてしまうこと。

スポーツのために筋肉がほしいと願っても、そのために太ろうとしても、筋肉がつきにくい・太りにくい体質であるということ。

そのせいでスイミングスクールでは、どんなに希望しても選手コースには入れてもらえないこと。

ゴリゴリ水泳部の選手希望だったのに、
部活の新歓で運動部からはマネージャーの勧誘しかされなかったこと。


それがスポーツをやっていた人間にとってどれほど屈辱か。


見たまんま「細い」って言われても、
「不健康なだけだよ」としか言えないの。





彼と本当の意味で出会ったのは、高2の1月のことだった。4月の文化祭に向けて生徒会副会長(私)はパンフレット責任者で、彼はその補佐だった。

なのに彼は、高2の11月ごろに予備校の公開授業で会った時、「翠さん!」って私の苗字を呼んで、「翠さんもきてたんやね。がんばろね!」って声をかけてくれた。

その時、私はまだ(彼)のこと『田中くん(仮名)』なのか『鈴木くん(仮名)』なのか、わかっていなかった。同じ生徒会とはいえ、各委員会ごとに仕事が違って、あまり話すことなく過ごしていたからだ。



付き合ってから彼に「いつから私の存在、認識してたの?」と尋ねた。

すると彼は言った。


「生徒会発足してすぐの合宿の、自己紹介のとき、かな。かわいいなって思った。俺が今まで見てきた中で、一番。」


じゃあ、私のこと顔で好きになったの?と聞くと、笑って彼は言った。

「確かにかわいいな、と思ったのが最初だけど、それはきっかけに過ぎないよ。いくらかわいくても、"かわいい"ってだけで好きにはならないよ。俺が翠のこと好きになったのは、"一緒にいて楽しいな""気が合うな"と思ったからだよ。」




「自分の声、好きじゃないよ。」


私がそう言ったとき、彼はなんで?と言った。
「ぶりっ子って言われるし、滑舌も悪いし、高すぎるから。」と答えた私に、彼は自分が傷つけられたみたいな顔でこう言った。


「翠、自分でもそう言っちゃうんだね。
俺は翠の声、最初から好きなのに。そんな透明感溢れる綺麗な声、誰も持ってないのに。」




彼のその言葉と、メイクを面倒くさいと言った高校時代の「今のままでも可愛いけど、メイクしたらもっとかわいくなるんじゃない?」という言葉で、メイクをすることに決めた。


化粧下地、パウダー、アイシャドウ、リップ、カラーマスカラ。

化粧水、乳液、美容液、フェイスパック。


いろんなものを買って試して、それを楽しい、と思えるようになった。


パーソナルカラーは1st ブルベ冬、2nd イエベ春。鮮やかなハッキリした色は似合うけど、流行りのくすみカラーとかパステルカラーは全然似合わない。骨格はウェーブ。Vネックは得意だけど、スクエアネックや首の詰まったトップスは太って見えるから、NG。


ファッションも迷うことを楽しいと思えるほど好きじゃなかったから、似合うものがわかれば悩まずに済むと思って、がんばって分析した。


メイクやファッションがんばるようになってから言われた「かわいい」「似合ってる」は、素直に嬉しい、と思えた。


内面や努力で手に入れた能力が褒められて嬉しいのなら、外見だって努力すればよかっただけだった。簡単な話だった。


高校時代の私の顔見たら、おでこはザラザラ、唇はカサカサだし、はじめの方は前髪はラクだからっていう理由でさらにおでこ広く見えるのにオールバックだった。…ブサイクだなぁ、と思う。


なのに彼はそんな私のすっぴんをみて、「かわいい」って言ったんだなぁ、と思うとニコニコしてしまう。


彼に好きと言ってもらえて、はじめてこの顔・この体質に生まれたことを感謝した。彼好みの容姿で生まれてきたことを誇りに思った。

そしてなにより「かわいい」が嫌ではなくなった。



___中高時代に戻れるなら、メイク、していたかもしれないね。





読書エッセイ


以下、インスタ(@kotonoha_utopia)に掲載したものです.


湊かなえ『カケラ』


♪命に嫌われている /まふまふ

「この本を読んでどう思ったかで、友達になれるかどうか、わかる気がする」


物語は『"大量のドーナツに囲まれて死んだ少女・有羽" 、その母・八重子 を知っている人』に美容外科医がインタビューする形式で進んでいく。語り手が少女とその母に いつ・どんな風に関わっていたか、によって語られる内容が180°違うから、どれが事実なのか、真実なのかわからない。でも、それはきっと現実世界でも、どんなことにおいても同じなのだと思う。


この物語に登場する人物に対して、それぞれ思うところがある。だけど特段の違和感があったのは2人。自分の正義を振りかざす教師 と 常に聴き手の美容外科医。


「自分の正義を振りかざす教師」について。

この教師は有羽は「太り方が異常だった」、
「体の声に耳を傾けて」ダイエットに成功した自分の経験によって、「有羽を助けたかった(肥満から脱出させたかった)」と言った。



誰しも自分の経験から他人をジャッジしてしまった経験、他人に「こうすればいいのに」「それは間違っている」と思った経験があるだろう。

仮にそれを口に出したとしても、自分の正しさを信じた結果、行動に移したとしても、それが必ずしも「正義を振りかざした」になるとは限らない。


だけど今回は、あの教師が「正義を振りかざした」と感じた。


その違いはどこにあるのだろう。

「正義」の反対は「もう1つの正義」、
「みんなちがって、みんないい」、
といった意識の欠如?

…いや、違う。


今回「正義を振りかざした」と感じた背景は


「有羽が太っていること」は誰の迷惑にもなっていない、
この教師も有羽が太っていることで何かの不利益を被ったわけではない、
有羽が健康診断に引っかかり、それを心配したわけでもない、

なのに、「太り方が異常」と決めつけ、嫌がっているのに行動に移した、

そのことにある。


それは正しさなんかじゃない。ただの好き嫌いだ。
好き嫌いで他人の尊厳を踏み躙っただけだ。




一方、常に聴き手の美容外科医。


「私という人間を誰かが語る時、外見の美しさを最初に出されることに反発していた」時期があって「見た目など関係ない。自分の行為が喜ばれている。」という経験から医学の道を志したのに、結局「この世の中が外見の美しい人に優しいのなら、皆、きれいになればいい」と、"男性の医者でもできる生命に関わる大病に冒されている人を救う行為"ではない医療の道に進んでしまった。

きっと、この物語の中の誰よりも外見至上主義を持っていたのは彼女だと思う。



私は、太っている人が太っていようと何も思わない。

健康上に問題があるのなら、そのときはちょっと心配して一旦声をかけるかもしれないけれど、特に本人が気にしていなさそうなら放っておく。

個人の自由だから。

太っていようといなかろうと、大切なのは中身だと思うから。



そんなの「綺麗事」、だろうか。










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