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2011.3.11 東日本大震災 あの時、私は

小さな会社のビジネスプロデューサー・弁理士のヤマダです。

今日は3月11日。3.11。東日本大震災から10年が経ちました。
あの時、自分は何をしていたのか。記憶を辿ってみました。

2011年3月の状況

前年2010年11月に弁理士試験に合格。受験を始めてから15年。長かった受験生生活に漸く別れを告げました。

年末から始まった登録前研修も順調に消化し、あとは弁理士登録を済ませるだけ。

そんな時、あの東日本大震災が起こったのです。

2011年3月11日 午後2時46分

当時、私は特許事務所に所属する特許技術者でした。この日も通常通り、浅草橋にある事務所で仕事をしていました。

そして、午後2時46分。

私がトイレに立ち、用をたそうとしたまさにその時、ビルが揺れ始めたのです。

「地震だ!」

慌てて着衣を元に戻し、事務所のフロアに飛び出しました。事務所はビルの2階。

東京も地震はそこそこ多いので、それだけでは驚きません。ただ、あの時はいつもの地震とは様子が違いました。

ビルが大きくゆらゆらと横揺れし、その揺れがいつまで経っても収まらない。どこか尋常ならざる雰囲気が漂っていました。

漸く揺れが収まり、ビルの外に出てみると沢山の人。心配そうに顔を寄せ合い話をする光景がありました。

電話は全く繋がらない状態。ドコモもAUも全部ダメ。ただ、私が当時使っていたPHSだけは通信可能な状態を保っていました。

そして、東北地方を震源とする大地震が起きたことを知ったのです。

地震が起きた後の対応

そこからは、Twitterで情報収集。友人から

食べ物だけは確保しておいた方がいいぞ。

というダイレクトメールが届き、急いで近くのコンビニに向かいました。

しかし、コンビニの戸棚からはかなり商品がなくなっている状態。

おにぎりやサンドイッチ、弁当等のすぐに食べられる食料は軒並み品切れ。飲み物と腹持ちのよさそうなお菓子くらいしか調達することができませんでした。

時間が経つにつれ、かなり大きな災害であることが明らかになっていきました。こんな状態では仕事がはかどるはずもなく、ボスからは帰宅命令が。

ただ、この時点で東京都内の電車は殆どが不通。歩いて帰るしかありません。

事務所のメンバーの中には神奈川や千葉から通勤している人もいました。しかし、殆どの人が徒歩での帰宅を選択。中には身重の状態で浦安まで帰るという女性すらいました。
事務所の前を走る江戸通りには自宅に向かう人が溢れ返っている状態でした。

私はどうしたかというと、事務所に待機。
事務所に残ったのは町田在住の弁理士と、王子神谷(東十条)在住の私。2人だけでした。

幸い、ビルのオーナーがカップ麺と寝袋を支給してくれたので、腹を満たすことができ、寝床にも困りませんでした。

状況を見定めた後、帰宅

しばらく事務所で状況を見守っていたところ、夜中になって、大江戸線と東京メトロの一部が復旧したことを知りました。

このため、事務所にほど近い 大江戸線の蔵前駅から春日駅に移動、後楽園駅から南北線に乗り、王子神谷まで戻ることができたのです。

家に着いたのは夜中の2時頃でした。

家に入って、すぐさま家の中の状況を確認。

しかし、机や本棚の位置が動いていた位。物が床に落ちていることもなく、殆ど被害はありませんでした。

災害時に心得るべきこと

あれから10年。東日本大震災の時の記憶を辿ってみました。既に記憶が曖昧な部分もあるのですが…。

こうして振り返ってみると、比較的、冷静に対応することができていますね。今後のために、災害時の心得をまとめておきます。

(1)状況が判明するまで動かない

帰宅した人はかなり苦労をしたようです。無理して帰らず、事務所に留まって状況を見定めたのは正解でした。

出先で災害にあった場合であれば、その地で宿泊する、その地域の避難所等で一夜を明かす、というのもよいと思います。

(2)電話以外の通信手段を確保する

偶然ではありますが、東日本大震災の時にはPHSが大活躍しました。今なら携帯電話の通信回線だけでなく、ポケットwifiを併用するのもよさそうです。

(3)食料と水を確保する

東日本大震災の時にはコンビニに走るのが遅れて、食料の確保に難儀しました。

勤務先には1日分の非常食と水をストックしておくとよいかもしれません。移動時にも多少お腹を満たせる食料と水を持ち歩くと万全です。


では今日はこの辺で。


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