【講演】翻訳家が生み出す世界〜代官山文学ナイト:鴻巣友季子の文学茶々vol.6『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ちくまプリマー新書)刊行記念

関東地方の梅雨明けが宣言された6月29日、代官山蔦屋書店にて鴻巣友季子さんと朝吹真理子さんのトークイベントを拝聴した。

このお二方のお話をうかがうのは一年ぶり。前回は、助詞「は」と「が」の違いについて新たな視点を得ることができたうえに、朝吹さんの朗読を初めて耳にしてその音楽的な調べに酔いしれた(そとは大雨だったけれど)。今回もまた、新たな地平を求め、鴻巣先生の最新刊『翻訳ってなんだろう?』を携えて、どきどきしながら訪れたのだった。奇しくも、当日は朝吹さんの七年ぶりの長編小説『Timeless』の発売日だった。タイトルからして「時間」を否応なしに意識させられる。朝吹さんの小説は時間に縛られない「アテンポラルな」世界であり「不断なる変化」「果てしない流転」と鴻巣先生は表現されていた。前回の対談後『流跡』を読んだのだが、捉えどころのない感じに最後まで慣れることができなかった。。最新作はストーリー性がありそうなので、今度こそ流れに身を任せてみたい!

朝吹さんいわく、作家は小説を書くためにその作品に誰よりも長く寄り添ってはいるが、ではその作品をいちばんよく理解しているかというと、そうでもないらしい。しかし翻訳家は、いちばん寄り添いもするし、理解もしなければならない。これは大きな矛盾であって、鴻巣先生は新刊にて翻訳のことを「スイマーの泳ぎを解説しながら一緒に泳ぐようなもの」と書かれている。相反する行為であるのに、日本語訳としての作品を世に出さなければならない。それは、どこかで決断して、そこに書かれるすべての世界を翻訳家が引き受ける、ということだ。たとえば新刊第3章『嵐が丘』の章では、今までにない世界の切り取り方として、関西人バージョンのヒースクリフ(‼︎)が見られる。何が正しくて何が間違いかではなく、読者のために世界をつくりあげ、その全責任を負うのが翻訳家なのだ。

では、見えない部分で翻訳家は何をしているのだろう。たとえば『赤毛のアン』のアン・シャーリーは、原文にて年の割に大人びた語彙を使うが、子どもなのだからと子どもらしい語彙に直して訳してしまっては原文の意図が削がれてしまう。なぜアンが大人の言葉を使うのか(あるいは、なぜモンゴメリはアンにその言葉を使わせているのか)、その言葉を選んだ動機、効果、人物の性格、年齢、周りとの関係、などなど作品に書かれている以上のことを翻訳家は考え、日本語訳を決めている。

作家の意図という点では、ポーの『アッシャー家の崩壊』のラストシーンにおける原文の語順について詳しい解説があった。つまり、登場人物が経験した「見え方」と、現実のそれとは乖離があるかもしれないのだ(ウルフの『灯台へ』の章でも、この点について目からウロコがポロポロ落ちた)。この見え方はおかしい、現実ではこちらのはず、などと翻訳家が変えてしまうと、正しいけれどリアルではなくなってしまうのだろう。何かの本で(『エンピツ戦記』だったと思う)、スタジオジブリのアニメはデッサンの正しさではなく人間の目に映ったままに描いていると読んだことがある。文章表現でも、きっと同じようなことが言えるのだろう。

新刊を読んでのぞんではいたものの、対談をうかがうにつれて、ガラス窓の向こうの夕闇がどんどん色を濃くしていったように、私の頭の中もだんだんと考えが深まっていったように思う。帰り道、駅に向かって歩いていると、アッシャー家のラストよろしく丸い月が明々と夜道を照らしていた。


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