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【小説】 懐かしい声


着信画面を凝視しすぎて、電話に出るタイミングを逃した。指が画面に触れるのとほぼ同時に、切れた。
あいつだった。
強引で、夜中でも明け方でも関係なく、自分が暇なら電話をしてきたあいつの名前が表示されている。


「もしもし。今何してた?」
「寝てたよ」
「なんかさぁ、今日あたしさ」
「『なんかさぁ、』ってどういうこと? 寝てたよ」
「今日さぁ、高尾山行きの電車で、それっぽい装備をしたおじいちゃんに席を譲るか譲らないかですごい迷ったんだよね。どうするのが正解だったと思う?」
「あー……。それは迷うかもな。俺は寝てたけど」
「一般的なおじいちゃんだったら、譲るよ? でもかなり元気なおじいちゃんの可能性が高い場合、年寄り扱いがプライドを傷付けてしまいそうで躊躇しない?」
「一般的なおじいちゃんに席を譲ろうとしても、断られることもあるからなぁ」

電話に出た時点で、話してよしと解釈された。迷惑としか言いようがなかった。
なぜ俺に対してのみ、あいつは調子に乗りまくるのか。1回だけ鳴らして切る通称ワン切りというものを平然と仕掛けてくることも多かった。
「おまえ悪徳だぞ!」
俺が息巻いても、あいつはだだ笑い声をあげるだけで、謝るとかは一切ない。
そのうえ、自分が眠くなったタイミングで電話を切る。

不思議なのだが。そんな扱いを受けながらも、俺は電話を切らなかったし、毎回ちゃんと掛け直した。
あいつもきっと、俺に切られない自信があったし、俺が掛け直すことも分かっていた。
暇だったのだ。
 
ときどきは、どちらかに恋人ができることもあって、その期間だけ、深夜の電話は鳴らなくなった。
あいつは自分の恋を満喫していたに違いないし、俺が俺の恋を満喫する間は、たぶん気遣ってくれていたのだろう。
別れればお互いに報告した。駄目になった理由を話したり聞いたりしているうち、その恋が終わっていった。
そしてまた、夜更けに電話が鳴る。
寂しさを感じる隙さえなかった。
だからだ、きっと。学生時代、思ったより俺に恋人が出来なかったのは。
次第に俺は、あいつに恋人ができると夜を持て余すようになった。
暇だから、早く別れたらいいのにと思っていた。

膨大な緩い時間に浸かっていた。もしかしたら自分だけは、永遠に学生でいられるんじゃないかと勘違いすらしていた。
髪を黒く染め直してエントリーシートを書き、長く続いた学生時代の幕切れを世間の冷ややかさとともに感じたあと、俺たちは社会へ出た。
同じ年、無料通話できるアプリが登場して、「ワン切り」は「センター問い合わせ」とともに消えた。
通話料金を気にせず喋れるようになったわけだけれど、新社会人生活というものは忙しくて、覚えるべきことが山のようにあり、夜は眠い。睡眠時間が貴重になったとき、真夜中の無駄話が奇跡みたいに遠ざかった。

あいつとも、文字だけの会話をときどき交わす程度になって1年が過ぎた頃、久しぶりに電話がきた。
「もしもし」
「もしもし。久しぶり、どうした?」
「あのさ……急で申し訳ないんだけど」
「はいはい」
「今日、泊めてくれない?」
「えっ」
「ごめん急に」
「いや、急ではあるけど。何かあった?」
「泊めてくれたらちゃんと話すよ」
「俺今、彼女いるんだよね。でも、困ってるなら方法は考えるよ」
「……ならいいよ」
「え、でも」
じゃあ何でうちに泊まろうと思った?
質問したかったけれど、焦っているみたいだったし、急いでいると予想したから流した。
「彼女とお幸せに。バイバイ」
そのまま通話が切れ、何が起きたのか分からないままになった。


それから1年半ほど続いて、俺は当時の彼女と別れた。自分なりにしっかりと向き合ってきたつもりではあったが、何が駄目だったか、彼女は少しずつ去って行った。
ひとりになると、やっぱりあいつが思い出される。もはや癖だ。
俺はあいつに電話を掛けた。
呼び出し音。
微量の緊張が、血と一緒に体内を駆け巡る。
「もしもし」
「あ、もしもし久しぶり」
「久しぶり。何、どうしたの?」
彼女と別れたから、とは言えない。あの頃なら普通だったことが、もうあの頃じゃないから言えない。
「いや、元気にしてるのかなと思って」
「元気だよ」
「よかった。じゃあ、ドライブ行かない?」
「え、ドライブ? 急に?」
「うん、今から」
「車あるの?」
「いや、チャリしかない」
「だと思った」
格好いいふうに言わないでよ、とあいつが笑った。
「別にレンタカー借りてもいいけど」
と半ば意地になって言うと、
「いいよチャリで」
と言う。
「いいの?」
「うん。まあ、ほんとはちょっと面倒くさいけど。明日予定ないし」

マンションの下まで本当に自転車でやってきた俺を、3階のベランダで頬杖をついたあいつが眺めていた。思いがけず、ロミオとジュリエットみたいになる。
22時になろうとしていた。
俺は「お待たせ」と言ったし、あいつも何か言ったけれど、比較的静かな通りで、近所迷惑にならないようお互い声を絞り過ぎたせいで、相手が何を言っているのかが分からなくて、同時に笑った顔になった。
数分後、あいつが数年ぶりに俺の目の前に現れた。
「変わってない!」
ほぼ同じタイミングで言い合う。
「どこ行く?」
「東京タワー」
「ええ、遠い」
「行こうよ」
「じゃあ電車で」
「ドライブだから、今日は」
「これサイクリングだよね?」
はいはい行くぞ、と半ば強引にスタートして迷路のような住宅街を進んだ。
嘘みたいに急な坂道がいくつもあり、はじめは意地で登りきったけれど、2つ目の坂からはあっさり自転車を押すようになった。ときどき息切れしながらも喋り続けて、飯田橋まで辿り着いたとき、酔っ払ったサラリーマンとか、うつむいたOLとか、はしゃぐ学生たちが早足で駅へ吸い込まれて行くのを横目に見ながら、
「楽しい」
とあいつが呟いた。
九段下のコンビニで飲み物を買い、千鳥ヶ淵でお堀を眺めながら休憩した。
毎年桜が咲き誇る名所に、今は人の気配が薄い。桜から、いちばん遠い季節にいる。
「ボート乗って桜見たら、どんな感じなんだろ」
「それ俺も思った。春、乗りに来る?」
前ばかり見ていたあいつの顔がこっちを向いたので目が合う。
小さな声で「いいね」と返事をしてくれたけれど、俺の予想したテンションには届かない。
いったい何を期待していたのだろう。長く続いた彼女と別れてさみしいから、学生時代の楽しさに縋りつきたくなっただけじゃなかったのか。もうあの頃の自分たちではないのに、なぜ今更会いたくなったんだろう。なぜいつも、同じところに戻りたくなるのだろう。
遠目に国会議事堂を眺めながら、ひとつだけ、確かに言えることがあると気づいた。あいつといると、喜怒哀楽が全てあった。素直に笑えていた。
しんとした内幸町に入る頃には、ビルの隙間に近づいた東京タワーを見つけていた。
今はただ、この特別な夜を楽しもう。

夜の闇よりも強力なオレンジ色が周辺を照らしていた。
駐輪場はもう閉まっていて、時刻は23時47分。
「うそ、あと13分でライト消える」
「今のうちにしっかり見とこう」
1日の営業を終えた東京タワーを名残惜しそうに見上げる人たちは他にもいて、点在するその人たちの間で、俺たちも立ち止まった。
「真下から見るとこんな感じか」
「なんか怪獣みたいじゃない?」
「確かに」
「オレンジの光る怪獣」
「今にも動き出しそう」
「うん踏まれそう」
「なあ、去年の春頃」
視線を東京タワーから外して、ん? という表情をしたあいつが俺を見ている。
「急に『泊めて』って電話してきたことがあったろ」
「……そうだっけ」
「そうだよ。あれ、なんだった?」
「忘れた」
「おい忘れんな」
「忘れるよ。ずっと前だもん」
それっきり、あいつは東京タワーに見入ってしまった。
ふたり並んで、光る怪獣を見上げている、なんとなく奇跡みたいな夜。
数分経って、眩いほどのオレンジ色が突然暗闇に切り替わると、あちこちから「わっ」という声が上がった。今日が終わったのだ。
「消えちゃったね」
花火の後のさみしさと似ている。ぽつりぽつりと帰る人々を見送りながら、置いて行かれるような気持ちに勝手になる。
「帰ろうか」
俺が切り出して、ふたりでのろのろと自転車をこぎ始めた。

まれに夜中に目が覚めることがあって、自然と枕元のスマホを手に取る。着信がないか確かめる癖が未だに消えない。
俺はあの頃と変わっていなかった。履歴がないことに毎回がっかりしてしまうところもそのまま。
そんなことを、あいつに話したいような気がしてくる。
別ルートで少し遠回りをした。嘘みたいな登り坂はそれでも現れたのに、帰り道はショートカットしたみたいだった。
マンションが近づいてきて、
「楽しかったな」
素直にそう伝えると、
「ありがとう。思い出に残る時間だった」
あいつも真っ直ぐな声を出して、その声のまま、
「この間、同じ会社の人に告白されたんだよね」
と、本当についでみたいに打ち明けた。
「そういう話は早く言えよ。言えるタイミングもっとあっただろ」
咄嗟に焦り、怒ったような言い方になる。
怒る権利なんて無いし、タイミングを逃し続けてきたのは自分なのに。
「東京タワーに着いたら話したかったけど、13分しかなかったし、東京タワー綺麗だったから。ちゃんと見ておきたいと思って」
「……綺麗だったもんな。俺はじめて真下から見た」
「あたしも」
「その人と付き合うの?」
嫌だ、断ってくれ、すがるような気持ちが湧き上がってくる。
「うん」


通知された名前をなぞるように眺めながら、それからなんとなく改まった気持ちになりながら、俺は電話を掛け直した。
東京タワーを並んで見上げていた夜から、別れたという報告がないまま2年が過ぎていた。
この2年、何度も電話をかけようと思いながら、結局ただ待っていただけだった。
呼び出し音、2回、3回。
「もしもし」
ああ、この声。
戻りたかったところに戻っていく感覚。
「あ、もしもし。俺だけど」
「詐欺のセリフ」
耳の向こうで、懐かしい声が笑った。
「元気?」
「元気だよ。そっちは?」
「元気にしてるよ。電話、久しぶりだったからびっくりした。どうした、何かあった?」
「ああ……うん。ごめんね、こんな夜中に」「いいよ」
待ってたし、と思わず言いそうになる。
それとも今夜はいいのだろうか、もっと本音で話をしても。
「あのね」
「うん」
「あたし結婚するんだ」
驚き、という言葉を生まれて初めて軽いと感じた。衝撃で息が詰まる。
「……あ、いつ?」
「籍は今月。一応、知らせとこうと思って」
「……そうか……おめでとう」
「ありがと」

相手、前に話してた人?
おまえの強引さを、その人は理解してる?
やっぱりウエディングドレス着るの?
名字って何に変わる?
いろいろ聞いた気はするけれど、頭の中が乾いてしまい、表面の部分だけで会話を続けたせいで内容が耳に残らなかった。
そんなことよりも。たぶんもうこんなふうに、この声を聞けなくなる。それだけを何度も強く思った。
電話を切ることが怖かった。情けない話だけれど。
「河辺」
「かわべ?」
「うん。さっき答えそびれたけど、わたし河辺彩乃になる」
「違和感すげーな。別人みたい」
「自分でもそうだよ」
少しだけ笑ったその声には、俺をムカつかせる余裕と残念さのようなものが混在している。
「スマホの名前って変えた方がいい?」
「ううん、変えなくていい。あえてそのままにしといて」
「わかった。原田彩乃のままにしとくよ」
「……ありがと」
「おまえ、幸せになれよ」
「うん」
終わってしまう。
あんなに時間があったのに。
真夜中に膨大な無駄話をした俺たち。
俺がもっと素直だったら、違う今はあっただろうか。

あの頃、きっと誰よりも近くにいた。
卒業しても、ずっと近くにいる気がしていた。
失って気づく、は本当だ。








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