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【ショートショート】 僕たちは売れない靴だった


 コトさんは、かつて靴でした。
 今は、駅のそばの路地裏で、小さな靴屋を営んでいます。

 コトさんが靴だった頃、隣にはトコさんがいました。ついになったスニーカーの、コトさんは右で、トコさんは左でした。
 靴たちは、気に入られれば買われてゆき、履かれたり、あまり履かれなかったり、人間次第の運命です。
 あまり外へ出られない靴は、暗闇で過ごすかわりに、人間並みの寿命を全うできましたし、頻繁に履かれる靴は、あらゆる場所へ行けるかわりに、短い生涯をおくることがほとんどでした。

 コトさんとトコさんは、いつまで経っても売れませんでした。
 ショーウィンドーに飾られ、日に照らされ続けたため、コトさんとトコさんのからだは、経年劣化で黄ばんだのです。
 売れないふたりは、長い年月をショーウィンドーでともに過ごしました。
 
 少しすましたポーズでディスプレイされたふたりには目もくれず、人間たちは店へ入っては出てゆきます。
 箱の入った紙袋を手に提げた人間が出てゆくたび、コトさんは「なんだか気の毒だね」とか、「トコさんは外に出たい?」とか、「空が綺麗だね」とか、トコさんに語りかけましたが、靴は発声ができないため、コトさんの言葉は届くことがありませんでした。
 それは、さみしいことでしたが、届かないとわかっているから、「トコさんの声が聞きたい」とか、「歩くってどんな感じだろう」とか、正直にもなれるのでした。

 ある日、店に来たこどもがショーウィンドーに入りこみ、ディスプレイを揺らしました。
 トコさんが床に落ちました。
「あっ!」と思わずコトさんは声を上げましたが、誰にも届きません。手を伸ばすこともできません。ならばもう一度揺らしてくれ、僕も落としてくれ、とコトさんは念じましたが、飽きたのか、こどもはすぐに立ち去ってしまいました。
 トコさんのことが気がかりでした。痛んでいなければいいけれど……。

 最後の客を見送ってシャッターを下ろす頃になってようやく、店主は転がったトコさんに気がつきました。
 店主は、トコさんを拾い上げると、元の場所には戻さず、コトさんのことも連れて、大きな鏡の前へゆきました。そうして、ふたりに話しかけました。
「なあ、トコさん、コトさん。君たちは売れなかった。ディスプレイももう、変えたい。だから、長年ここにいてくれた君たちに、人生をプレゼントしたいと思っているんだけど、どうかな」
「……人生?」
「人生ってなに?」
 声にはならないはずだったのに、コトさんは、なぜだか声を発していました。そしてそれは、トコさんも同じでした。
 初めてトコさんの声を聴きながら、コトさんは鏡に映ったトコさんを見つめていました。トコさんもコトさんを見ていましたが、コトさんには、それがわかりません。
「人間になってみないか?」
 再び店主の声がして、コトさんはハッとしました。
「生まれ変わるんですか?」
 トコさんが店主に尋ねました。トコさんの声が、すぐそばから聞こえてきます。
「そうだよ」
「あの、あの。僕たちは、人間になっても一緒にいますか?」
 今度はコトさんが店主に尋ねました。口に出してしまったあとで、これはまるで愛の告白だと、コトさんは赤面する思いでしたが、靴なので、目に見える変化はありません。
「どうかな。同じ頃に生まれてはくるだろうけど、近くにいるか、遠くにいるかは、私にもわからないな。君たちは靴だったから、ペアが必要だっただけなのでね」
 店主がこたえると、店内に沈黙が流れました。それならばこのまま、靴のままでいたい気がして、コトさんは口をつぐみましたが、
「わたし、人間になります」
 トコさんの返事は、きっぱりとしたものでした。
 ……お別れです。

 おそらく気を利かせた店主が店の奥へと消えて、最後に少しだけ、コトさんとトコさんはふたりになりました。
「わたしは、ガムを踏んでみたかったのです」
「ガム……」
「そう。踏む人、滅多にいなかったけど、たまにいたでしょう?」
「あんまり見てなかった」
 いつでも体の一部がほんの少し触れ合っていたふたりでしたが、見てきたものは、全然違っていたのかもしれません。そうやって考えると、コトさんは胸が痛むのでした。
「嫌そうな顔をしていたから、どんな感触なのかずっと気になってて」鏡に映るトコさんの表情はやっぱりただの靴でしたが、コトさんには笑顔に見えます。
「トコさん、そういう声だったんだ」
「どういう声?」
 ずっと聞いてみたかった声、そう言いたかったけれど、言えませんでした。
「僕がよく想像したのは、烏が僕を咥えて飛んでいくところ」それで少し、コトさんは強がりました。僕だって、君をひとりにできる、というつもりで。
「スペインまで?」
 けれどトコさんは、コトさんの空想をあっさりと見破りました。
「なぜわかったの」
 思わず気が抜けたコトさんが笑うと、
「同じ景色を見てきたじゃない」
 トコさんの声も笑いました。
 靴屋の向かいは、スペイン料理店です。

 
 人間になったコトさんは、無類の靴好きとして育ちました。収集する、ということではなく、ファーストシューズ以降、一度も靴を捨てないまま大人になったのです。
 手のサイズより小さな靴も、ぼろぼろになった靴も、全て。
 そして靴を愛するコトさんは、靴屋を開きました。
 ある日、足を少し引きずって歩く人が、コトさんの店にやって来ました。
『スペインまで、行ってみたかった?』頭の中に、ふとそんな言葉が浮かびました。コトさんは、なぜだかその人のことが気になって、近づきます。
「あの、あの。ガムを踏んだことはありますか?」
 恐る恐る、質問を投げました。するとその人は、コトさんの顔をましまじと見つめてから、
「とっても不愉快でした!」
 明るく笑って、そうこたえたのです。
 コトさんとトコさんは、かつて靴でした。





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