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自分の人生悪くねぇな

僕は、現在、自身の連載中のマガジン『VR健常者』のなかで、自分がインターネット上で、障害者であるということを隠して、活動してきたことをエッセイとして執筆している。

その中では、自分が障害についてのコンプレックスを抱えて生きてきた旨を書いている。そして、#5の記事を書いている真っ只中なのだけれど、自分の中にある、不思議な感情を見つけたので、忘れないうちに、ここに思考の吐露をしていきたい。

どういう話の帰結を迎えるのか、自分でもはっきりしていないため、僕自身は、この段階でワクワクしているけど、オチがしょうもない可能性があることに、ご了承を‼

僕は、長い年月の間、それはもう人生の半分に差し迫る勢いで、身体障害者ということを隠して、インターネット上で、健常者としての自分を演出してきた。

その一方で、自分でも不思議なのであるけれど、自分を不幸であると思ったことがない。不思議すぎて、自分を疑うほどに。

強がり、なのではないかと、まず疑った。コンプレックスを感じているという確かな事実と行動があるのに、おかしすぎる。不幸を背負って生きていく自分を認めたくないから、思考を遮断して、強がっているだけなのではないかと。

本当は、健常者として生まれてきたら、どれほど、幸せだっただろうかと、自身を憂いているのではないか。

しかし、僕は、自分を不幸と思っていない根拠をひとつ持っている。
誰しも、夢を見たことがあると思う。それは野心であるとか、将来的に手にしたいものの方の夢ではなく、寝ているときに見る方の夢だ。

空を飛んでいる夢。敵から好きな子を守る夢。幽霊やゾンビに襲われる夢。はたまた、学校に遅刻する夢や、仕事で大ポカをしてしまうといった現実味のある夢。

僕は、自分が自分の足で歩いている夢を見たことがない。夢の中の自分というのは、いつも車椅子に座っているのだ。

子どもの頃に戻ってきゃっきゃ遊ぶ夢や、今ほど体が不自由ではない頃の自分の夢は数えきれないほど見るのに、いつだって、僕は車椅子に乗っている。

夢の中ぐらい、理想の自分で在ればいいのに、欲の薄い人間だなって自分に呆れてきたけれど、自分にとって大事なものは別にあるのではないか、という疑問にたどり着いた。

身体が自由であることが必ずしも多幸感を生む重要なものではない、という深層心理が夢に現れているのではないか。

中学の頃、ある先生にこんな一言をもらった。
「お前は恵まれているな」
難病を抱えながら生きている人間に対して、恵まれている、という言葉を選ぶって、どんな神経してるんだ、と脊髄反射的にはイラっとしたけれど、自分が思っている以上に、煮えくり返る感情はなかった。

たしかに、恵まれていたからだ。
この「恵み」という言葉は、両親をはじめとした、周りの援助に支えられながら生きていること、という意味なんだろうとすぐに自分の中で咀嚼できたからだ。それだけ、愛を感じながら、僕は生きていた。

僕は障害者であることの悩みを両親に話したことはない。それは、両親が、みんなと同じように、ふつうに遊んで、ふつうに学校に行けて、楽しい生活を僕に与えようと努力していたからだ。そんな様子を、おくびにも出さず、教育委員会や市役所の人と日々話し合い、僕にふつうの生活を与えようとしてくれていたからだ。

五体満足でいる方が人生の選択肢が広がって、楽しいのだろう。ただ、別に今の自分の人生も悪くないなって、心底思う。
生まれ変わったら、さすがに健常者になりたいけど、そうなったら、クソみたいな性格の人間になりそうだな、なんて思う。別に今のままでいいや、なんて思う。

僕自身、相当なひねくれものだけど、そんな自分が好きだ。もう一人自分がいたら、僕はそいつと仲良くなりたいし、親友になりたい。まじ、わかるわそれって共感したい。

もし、この記事を読んでいて、息子(娘)に障害を抱えている親御さんがいて、息子(娘)が何を考えているか理解できなくて悩んでいるとしたら、大丈夫と言いたい。
正しい方向で愛さえ伝わっていれば、俺(私)の人生わるくねぇなって思ってくれていると思う。

そして、僕みたいな、心の底で清廉潔白な人間でいることに疲れている、ひねくれものにも言いたい。
俺はひねくれものが好きだから、俺と友達になろう。


行き当たりばったりな文章になってしまったけど、最後まで読んでくれてありがとうございました。よかったらコメント等お待ちしております。


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