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ゴシック・ロックとはなにか? なぜ、エホバの証人やモルモン教徒は異端と見なされるのか? (現代なお生き続けるニカイア公会議の決定について。)

ロックはキリスト教文化圏で生まれた反逆の音楽芸能であり、リスナーの中心は反抗期のティーンエイジャーであり、準じて(良くも悪くも)十代の心を忘れない、こじらせた大人たちである。おのずとロックはサタニズム(悪魔主義)と縁が深い。なぜなら、キリスト教は万人に原罪を背負わせ、死後に最後の審判があるぞ、と恫喝する。しかし、サタニストは、原罪なんてものは悪しき洗脳にすぎない、そんな妄想から解き放たれて、人は生のよろこびを存分に味わうべきなのだ、いまを徹底的に楽しめ、と挑発する。おのずとその教義は、セックス、ドラッグ、ロックンロールである。リスナーである反抗期のティーンエイジャーが熱狂しないわけがない。たとえそんなかれらもまた日曜の朝には良い子ぶった着こなしで嫌々教会へ行くにしても。




ロックにサタニズムを持ち込んだのはローリング・ストーンズの"Sympathy for the Devil"(1968)である。あの歌は日本では『悪魔を憐れむ歌』と呼ばれているけれどしかしあれは誤訳であって、正しくは悪魔への共感である。なお、あの歌は当時ミック・ジャガーの恋人だったマリアンヌ・フェイスフルの入れ知恵によったもの、この曲のなかの悪魔は(ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』に由来し)、暗にスターリンのことを指しています。なお、ローリング・ストーンズがサタニズムを主題にしたのはこの一曲だけのことで、他のサタニズムをアイデンティティにするバンドと同列に扱うわけにはいかないけれど。



メガデスもまたサタニズムの使徒でしょう。また、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジはオカルト界の巨人アレイスター・クロウリーの信奉者である。それはまさに、キリスト教文化圏の外にこそ探求すべき世界がある、という主張である。同様にグルジェフ、ブラバッキー、シュタイナーたちの神秘主義思想もまたロックと縁が深い。



では、その後ロックの世界に登場したゴシック・ロックにはどんな文脈があるだろう? スージー&ザ・バンシーズ。ジョイ・ディヴィジョン。ザ・キュアー。そしてザ・シスター・オヴ・マーシー。ミッション。







自分が生きている時代の政治に恐怖を感じるとき、クリスチャンは自動的にゴシックを召喚するんじゃないかしらん。(光のルネサンス~近代/闇の中世という図式のなかで。)かれらにとって闇の中世は過去ではない、現代こそがまさに闇の中世なのだ。この考えのもとフランケンシュタインや、ドラキュラが創造された。けっしてむかしばなしではなく、近代科学を悪魔的と見立てる視点である。ポストパンクの系譜からゴス(=ゴシック・ロック)が生まれたのも、あの時期の「ファック・オフ、マギー!」の叫びの美学的表現でしょう。


興味深いのは、ゴシックの系譜を引く、Fields Of The Nephilimである。



Fields Of The Nephilim。そのバンド名は、『創世記』に由来する、邪悪な天使が人間の女と交尾して生まれたハイブリッドで暴力的で恐怖を撒き散らす存在(ネフィリム)のためのフィールド群。エホバはネフィリムを滅ぼすために洪水を巻き起こした。



UK Wikiによると、ヴォーカリストCarl McCoyのおかあさんは(『ものみの塔-Wachtower Announcing Jehovah’s Kingdom 』を発刊する)エホバの証人の信者で、かれもまた信者なんですね。エホバの証人は、父なる神、キリスト、精霊の三位一体を否定し、地獄も魂も否定し、死者はただ眠っているだけ。この曲のリフレインで何度も繰り返される、You can't wake up もまたそんな宗教観を背景にしているでしょう。



クリスチャンでありながら精霊を否定することは多数派のクリスチャンからすればとんでもないこと。なぜなら、ヒトはそのままの状態であるならばただの肉に過ぎない、精霊(spirit) をインストールされることによって人間(信仰を生きるまっとうな人間)になるのだから。




エホバの証人において神は、旧約聖書における7つの神のうちのひとつエホバ(=ヤハヴェ)のみを信じ、キリストを重要視しない。したがってかれらはクリスマスもハロウウィンも祝わない。これはこれで筋がとおってはいます。また、エホバの証人は輸血を拒否するのは、かれらが輸血を神の意志に反すると考えるからです。なるほど、輸血は臓器移植ですから、わからないでもありません。



しかしながら、キリスト教圏においてはかれらはカルトと見なされていますから、エホバの証人はロシアをはじめ各国で(ときに激しく)弾圧されています。クリスチャンにとってはサタニズムにはまだしも改心の余地があるけれど、他方、エホバの証人は新約聖書そのものを否定していますから、正統派と見なされているクリスチャンとのあいだに激しい軋轢を引き起こす。



ロックは反逆の芸能として、「原罪を否定して、快楽を求める」サタニズムとは縁が深いけれど、しかし、(クリスチャンの信徒が世界中に24億人であるのに対して、エホバの証人の信者が世界中で860万人と少ないせいもあるにせよ)、エホバの信者のミュージシャンはPriceを有名な例外として、他にはそれほど聞きません。なお、メタリカ&メガデスのギタリスト、デイヴ・ムステインはエホバの証人として育てられたものの、しかしいまではかれは言う、「わたしは宗教を信じていない、わたしは神とキリストと個人的な関係を持っている。」そんなかれはロックに蔓延するサタニズムやオカルト志向に嫌悪感を隠さない。



隣接話題として、なぜモルモン教がプロテスタントの出自を持ち、聖書の教義の多くを受け入れながらも、しかし異端と見なされるのか。その理由もまた、かれらが神、キリスト、精霊の三位一体を否定しているからです。世界史マニアは理解するでしょう、キリスト教が古代ローマ帝国の国教になるに先だって、325年に開かれたニカイア公会議がいまだにいかに重要な意味を持っているかについて。なお、モルモン教徒のミュージシャンはそれなりにいますが、ぼくが知っているのは、あの頃めちゃめちゃかわいかったダニー・オズモンドくらいのもの。かれは”Puppy Love”を歌い、沢田研二さんは、Puppy Love を翻案したメロディに詞をつけた『巴里にひとり』を切々と歌ったものだけれど、ただし、これらのすべてはゴシック・ロックとはなんの関係もない。


話をFields Of The Nephilimに戻しましょう。Fields Of The Nephilimは、UKでは大メジャーなバンドであって、けっしてエホバの証人の信者たちだけで盛り上がっているわけではない。もっとも、ロックはサタデイ・ナイトのらんちき騒ぎのために存在するものであって、サウンドを聴いて、お、かっこいい、とおもえば自動的に好きになるもの。けっしてキリスト教神学史を参照しながら好きになったり嫌いになったりするものではないけれど。



また、人の信仰は、その人が4歳~7歳のときにどんな環境にいたかに依存するもの。けっして人はあらゆる宗教の教義を調べてから、どの宗教を選ぶか決めるわけではない。もっとも、ここには信者二世のともすれば受難もまたあるのだけれど。



またどんな宗教であろうと、その存在基盤は、信徒が集まる場所があり、そこへ行けば誰もみんなけっしてひとりじゃない、仲間がいるんだという心の慰安であるでしょう。人はけっして教義を検討して宗教を選択するわけではない。人にとって宗教とは偶然の出会いであり、ときにそれが運命的なものになってゆく。



なお、ぼくは幼稚園の1年間だけクリスチャン世界の賛助会員だった。食事のまえのお祈りだけはいまも覚えている。「天にましますわれらの父よ、願わくばみなのとおとまれることを祈ります。」当時ぼくは意味もわからずその言葉を唱えたもの。意味を知ったのは何年も経ってからだった。


thanks to 湘南の宇宙さん




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