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徳川慶喜の負け方

第15代将軍徳川慶喜の、鳥羽伏見の戦い以降の、振る舞いについては、色々な説があります。特に、徳川幕府側では

裏切り者

と言う評価もあったようです。

私は、徳川慶喜の振る舞いは

母方の有栖川宮家に従い
天皇への忠誠を貫く

と言う考えで、一貫していると思います。つまり

錦の御旗を完全なモノとする

ため、しっかり負ける想いでの行動です。

そして新政府側も

東征大総督に有栖川宮熾仁親王

を許し

有栖川宮と血縁深い
徳川慶喜救済

のメッセージを送っています。

さらに、水戸藩の本圀寺党に対して

除奸反正の勅書

を下しています。これも、深読みすると

徳川慶喜を水戸藩預けにするため
水戸藩の佐幕派を排除しておけ

とも読めます。

このように考えると、静岡での

西郷隆盛と山岡鉄舟会談での
唯一の官軍譲歩
慶喜の備前藩預けを水戸藩預けにする

も、幕府側の顔を立てるために、官軍側が仕込んだ話に見えてきました。

なお、徳川慶喜が14代将軍になっていれば、もう少し徳川幕府存続のために力を入れたかも知れません。14代将軍が、紀州の徳川家茂になったのは、紀州藩と水戸藩の格の違いでしょう。この経験が、慶喜にとって、皇族である、有栖川宮の血を引いていると、意識付けたのではと思います。

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