想像力の過去の訓練
イメージを作る力を育てる方法として、一つ極端な事例で考えて見ましょう。現在の日本社会に生きている私達は
豊富なメディア環境
を当たり前のことと思っています。例えば、紙の本も多く印刷されていますし、そこには綺麗な写真や絵があります。更にテレビやスマホには、豊富なAVコンテンツがあり、世界中の情報を見ることが出来ます。更に、学校教育が充実しているので、『正義』や『慈悲』などの抽象的な概念での議論もできます。
こうした環境がない時代を、想像します。例えば仏教伝来の6世紀を考えて見ましょう。当時は
紙は貴重品
現在のような教育は普及していない
と言う時代です。そこで
阿弥陀如来の救いを伝える観無量寿経
では自らの想像力で
極楽浄土を観る
定善の十三観法
を説いています。十三の観法は以下の通りです。
沈む夕日を見てその残像を常に見る日想観
清い水を思い浮かべる水想観
水が氷となり、その氷が瑠璃となって大地となる
透き通った瑠璃の内外に極楽浄土を映す
瑠璃の大地は金剛七宝の金の幢が支える、それは八角形の柱の形であり八つの百種百種の宝玉で飾られている
一々の宝珠に千の光明があり、一々の光明八万四千色で瑠璃地に映ずることは億千の日のようである
極楽世界の瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞ
れの区域が七つの宝で整然と仕切られている
一つ一つの宝には五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のように輝き、大空にのぼって光明の台となる
その台の上には百の宝でできた千万の楼閣がそびえている
台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている
そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたる
***ここまでで極楽浄土の概要を想像する***上で見た極楽浄土を定着させる地想観
大地から伸びる宝樹を想う宝樹観
極楽の池の水を想う宝池観
極楽にある多数の建物を想う宝楼観
阿弥陀仏の台座である蓮華の花を想う華座想観
仏像を見て阿弥陀仏の姿を想う像想観
阿弥陀仏の真実の姿を想う真身観
阿弥陀仏に従う菩薩のうち観世音を想う観音観
阿弥陀仏に従う菩薩のうち勢至菩薩を想う 勢至観
あまねく浄土の仏,菩薩,国土を想う普観想観
行者と仏の想いが雑(まじわ)る雑想観
これは、想像力の訓練法として、よく体系化されています。最初の日想観は、具体的な夕日の残像という、目に浮かべやすいモノから入ります。次に『清浄なる水』と言う対象に移ります。そして水が氷になったイメージから『瑠璃の大地』を想い、更に極楽浄土の色々な様子を想像します。
このイメージ化が終われば、その『瑠璃の大地』に自分がいると、目を閉じても開いても、見えるようになります。その大地から樹が伸びる、そして樹になる宝珠を思い浮かべていきます。さらに、極楽浄土にある宝の池を想い浮かべます。
次に、阿弥陀如来を想うのですが、その前に準備として、仏の座として、極楽浄土の池に咲く『蓮の華』を想い浮かべます。この『蓮華座』に阿弥陀如来を迎えるのです。まずは、姿からと言うことで『仏像』として表された、阿弥陀如来が蓮華座に座る姿を想います。更に、仏の真実の姿を想い浮かべます。これは、仏教の世界にそびえる須弥山の数倍あり、光が三千世界に及んでいます。こうして、仏の力の偉大さを感じます。更に、仏の『慈悲』と『智慧』を、観音・勢至の両菩薩と言う形で観ます。そして、阿弥陀如来と観音・勢至をはじめとした、多くの菩薩が遊ぶ極楽浄土を観る。
そして最後には、その極楽浄土に自分がいる。但し、ここでは、自分の力と仏の力が相まって、極楽浄土を観るのです。
さて、このような観想の働きは、現在の我々には
そこまで必要が?
と感じるでしょう。
しかし、もう一度言いますが
紙が貴重な時代
大量印刷技術もない時代
なら、このような想像力を発揮しないと、極楽浄土と言う概念が、伝わらなかったと思います。昔の人々の修行法を思いやる、そこから私達が見落としているモノが見えてくるでしょう。