ヤクザのせいで結婚できない!ep.60

 囁かれる言葉と熱っぽい視線があたしを絡めとる。
 どうしよう、動けない。
 真剣な眼をした蓮司さんは恐ろしく綺麗だった。殴られた跡が痛々しくて目が離せない。
 せめて何か言わないと。何か、一言でも。

「――あ、りがとうございます」

 蓮司さんがはっと目を見開いた。長いまつげが瞬き、眼差しが熱を帯びる。
 あ、やばい。あたし、間違えた。
 あたしの頬を包む蓮司さんの指が、位置を確認するみたいに唇を掠めた。思わずピクリと跳ねた体に影が落ちる。
 あたしは馬鹿みたいに、近づいてくる形の良い唇を見つめていた。
 駄目だ、逃げなきゃ。でも身体が動かない、時間もない。
 誰か。
 ああ、何で外になんか行っちゃってるんだ、バカバカ、ホント――

「――……のバカ」

 ぽろりとこぼれた言葉は自分でもほとんど聞き取れなかったのに、蓮司さんはぴたりと止まった。
 唇が触れるか触れないかの距離で、あたしは蓮司さんの瞳がぐしゃりと歪むのをまともに見た。

「……やっぱり、あの男なんですね」

 低く呟いた蓮司さんがすっと身を引く。
 張りつめた空気が一気に解けて、あたしはいつの間にか詰めていた息を吐き出した。どっと汗が噴き出す。
 危なかった! ギリッギリでセーフだった……セーフだよね?
 そろりと顔を上げると、蓮司さんはあたしの手を掴んだまま険しい顔で地面を睨んでいた。

「あの……蓮司さん」
「一つだけ答えてください」

 蓮司さんがあたしを見る。強いまなざしに、あたしは思わず背筋を伸ばした。

「な、何ですか?」
「志麻さんはあの男が好きなんですか」
「えっ」
「一人の男としてという意味です」

 助かったのは良いけど、何か決定的な誤解をされた気がする。

「あ、あの……ええと、それは」

 ――でもそれって本当に『誤解』なんだろうか。

 不意に浮かんだ自分自身の声にぎくりと心臓が跳ねた。
 朱虎はいつまでもあたしを小さな子供のように扱う。あたしの前では口やかましくて過保護で、でもいつも助けてくれる大人の顔を絶対に崩さなかった。
 だけど、でも、本当は。
 ボロボロになるまで殴り合いをした挙句に不貞腐れた態度で出ていく朱虎の背中が頭をよぎった。
 もしかしたら朱虎は、あたしが思ってるほど大人じゃないのかもしれない。
 あたしも、朱虎から見るともう子供には見えてないのかもしれない。
 さっき感じた、キャーッと叫んで走り回りたくなるみたいなふわふわした気持ちについて、あたしはもっと真面目にならないといけないんじゃないだろうか。
 そうじゃないと、あたしのことを好きだと言ってくれた蓮司さんに失礼だ。
 だから要するに、つまり、あたしは、

「好きなんですか」
「はい!」

 あれこれ考えている時に再度突っ込まれて、反射的にめちゃくちゃいい返事が飛び出した。
 蓮司さんがちょっと驚いた顔になったけど、あたしはもっと驚いた。
 ええーっ、やっぱりそうだったんだ!? それならそうともっと早く言ってくれれば良かったのに! えっ、いつからいつから? 何きっかけで!?
 なんて、脳内で自分にインタビューしてしまうくらいびっくりした。
 でも、どこかでふわふわしていたものがぴたりとおさまったような、スッキリした気分だ。
 そっか。あたしって、朱虎のことが好きだったんだ。
 蓮司さんがふっと笑って、頭を下げた。

「そうですか。……今日は駆けつけてくれてありがとうございます」
「へ? いえ、そんな……」
「あなたの気持ちは分かりました。困らせてしまってすみません」
「えっ……」
「本当はあなたがここに来た時から分かってました。無理だなって。でも、あがいてしまって……こんなだからフラれるのかな、僕は」
「そっ、そんなことないです!」

 あたしは思わず首を振った。

「蓮司さんはほんとにカッコいいし優しくて、環の大事なお兄さんだし、あたし、蓮司さんのこと嫌いじゃないんです、素敵だと思ってます。でも」

 ああ、何を言ってるんだろうあたしは。
 風間くんの言ってた通り、『嫌いじゃない』なんて言葉は余計に蓮司さんを傷つけるだけだ。
 それなのに蓮司さんは微笑んでくれた。

「ありがとう。嬉しいです」

 あたしって最低だ。何だか泣きたくなってきた。

「ごめんなさい、蓮司さん。本当にごめんなさい」
「いいんですよ、志麻さん。――せめて、友人として傍にいることは許してくれますか?」

 やばい、こんなに優しくされたら本当に泣き出しそう。
 あたしはうつむいて涙をぐっとこらえた。

「もちろんです……」
「良かった。――ああ、それと僕、あなたを諦めるつもりはないので」

 ん?

 顔を上げると、蓮司さんはにっこり笑った。

「あの、諦めないって……?」
「ああもちろん、今すぐ結婚は諦めました。友人で十分ですよ、今はね」

 握られたままだった手がすいと持ち上げられる。ごく自然な動作で、蓮司さんはあたしの手の甲にちょんと口づけた。

「ひゃっ!?」
「あの男が嫌になったらいつでも言ってください。待ってます」

 うわーっ、何だ今の! 
 一歩間違えたら寒いどころかセクハラ案件なのに普通にドキッとしてしまった! 
 これが※ただしイケメンに限るってやつか……。

「そうだ、今日のお礼に食事に招待させてください」
「えっ、お礼ですか?」
「もちろん友人として、ですよ。親しい友人同士、食事くらい一緒に食べてもおかしくないでしょう? あ、もし二人きりが嫌でしたら妹も入れて三人で」
「えっ、いや……えええ?」

 何だこの『閉めたはずのドアの隙間に足を挟んでグイグイ入ってくる』みたいな雰囲気……!?
 困惑しながら口を開いた瞬間、倉庫の壁をトラックが突き破った。

「チッ……クソポリが。煙草もまともに吸えやしねえ」
「あ、あのー……朱虎さん、で良いんですよね」
「ああ? ……この前のガキじゃねえか。なんでこんなところにいやがる」
「あっいや、あの、俺、志麻……お嬢さんをここに連れてきて」
「てめぇか、余計なことしやがったのは」
「うぐぐぐっ!? おっ俺は志麻さんにここまで連れて行けって言われただけで! あの、雲竜さんに志麻さんを迎えに行けって、言われて、ぐぐっ」
「オヤジが?」
「はっ、はい、あの、は、離してくださ……い、いきが」
「……チッ」
「ぶはっ! は、はぁっ、はぁっ……ちょ、今片手で俺のこと持ち上げてましたよね……?マジ怖え、何このターミネーター……」
「おい、火」
「えっ、は、はい!」
「……てめえ、怪我が治ってんのに何でまだいるんだ。オヤジにヘラヘラ取り入って何考えてる」
「あの! 俺……雲竜組に入りたくて」
「消えろ」
「ちょっ、待ってください! 俺、本気なんです!」
「てめェみたいなシャバガキにヤクザなんか務まるわけねえ。とっとと地元に帰ってゴボウ育ててろ」
「えっ、朱虎さん何でうちがゴボウ農家なこと知ってんすか」
「……馴れ馴れしく呼んでんじゃねえ」
「あっすみません……あの、俺、マジで本気なんです。組に入れて欲しいって、志麻……さんにも頼んでるんすけど」
「……お前、まさかお嬢に惚れてるとか言うんじゃねえだろうな」
「え゛っ!? うっ、はい……そ、そうです」
「まともな女見たことねえのかお前。それともヤクでもやってるのか、女の趣味イカレてるぞ」
「そ、そこまで言わなくても……あ、牽制すか」
「あ?」
「やっ何でもないです! あの、俺……誘拐騒ぎの時、あの、啖呵切ってる志麻さん見て、マジでズバーンッと来たっつうか……すげえカッコよくて、なんか、それで、俺」
「うるっせえよ。俺にぐたぐだ語ってんじゃねえ」
「あっ、すみません! だ、だから俺、マジであの子の傍にいたいんです! その……付き合うとか出来なくても、ただ、傍に」
「馬鹿かよ」
「はい。多分俺、馬鹿なんです。さっき、志麻さんに『朱虎さんはあんたに惚れてる』って言ったらメチャクチャ喜んでんの見て、悔しかったっすけど、あーすげー可愛いなって思って」
「待て。何だ今の話」
「えっ、すみません。だから俺、あの子の笑顔見られるだけでいいなってそういうバカに」
「てめぇのバカさ加減はどうでもいいんだよ! お嬢になんつったって?」
「や、だから、『朱虎さんは間違いなくあんたに惚れてる』って……ふぎゃっ!? なっ、何で蹴るんすか!?」
「お前そこから海に飛び込め」
「へっ?」
「それとも放り込まれてえか」
「え、俺なんかやりましたか? あっ腕抜ける痛い痛い痛い! ま、待っ……えっ、何だあれ!?」
「古典的な手で逃げようとすんな! いいから飛べ、太平洋まで流れていきやがれ」
「いや待ってください、マジあれなんか変な……と、トラック!? ちょっ、トラックが……突っ込んできますっ!!」

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