ヤクザのせいで結婚できない! ep.93
あたしがどうにか機関室にたどり着くまでに、二度大きな揺れが来た。そのたびに船は大きく傾いて、不安定で小刻みな振動がずっと足元から伝わってくる。廊下はほとんどまっすぐ歩けないほどで、壊れたものが散乱していた。
何度か黒服に出くわしそうになって慌てて隠れたりしたけど、黒服たちの方もそれどころじゃないって感じだった。慌ててどこかへ走っていったり、怒鳴り合いをしたりしている。
どう見ても『計画通り』って空気じゃない。訳が分からないけど、こっちにとっては好都合だった。
「混乱してるうちに、何とか朱虎を助け出せたら……」
レオはどうしてるだろう。もう船を脱出しただろうか。
脳裏にものすごい音とともに揺れていたドアがよぎった。ぞくりとする。
「……もう船からいなくなってますように」
適当な神に祈りながら、あたしは階段を駆け下りた。サンドラの説明によると、この突き当りが機関室のはずだ。
あちこちからゴボボボ、とかガギャギャ、とか、嫌な音が聞こえてくる通路の突き当りにある分厚い鉄の扉は、耳を押し当てても中の音なんて全然聞こえない。
あたしはポケットに手を突っ込んだ。サンドラが別れ際にくれたものを握りしめる。
「……ええい、入ってみるしかない!」
息を吐いた時、不意に触ってないノブがぐるりと回った。ぎょっと心臓が跳ねた瞬間、ドアが勢いよく開いて黒服が飛び出してきた。スマホを耳に当てて、何事かまくし立てている。
「……!?」
あたしも驚いたけど、黒服はもっとびっくりしたようだった。あたしにぶつかりそうになり、ぎょっとのけぞる。
あたしは咄嗟にポケットの中のものを引き抜き、突き出した。バチッ! とくぐもった音が響き、動こうとしていた黒服がその場に倒れる。スマホは通路を転がってどこかへすっ飛んで行った。
「びっ……びっくりしたあ! 借りててよかった、スタンガン」
あたしは両手で構えたスタンガンを見下ろした。小型のくせにかなり強力なものらしい。
「さすがマフィア御用達アイテム……って、それどころじゃない!」
またどこかで音がして、船がぐらりと揺れる。あたしは黒服を飛び越えて、機関室に飛び込んだ。
「朱虎ッ! だいじょう、ぶ……」
パイプやいろんな機械がむき出しになっている部屋はだだっ広くて薄暗かった。緑のつるつるした床の先、部屋の隅に誰かが壁に背を預けて足を投げ出している。不自然に上がった両腕は、手錠でパイプにつながれているようだった。
がっくりと項垂れて動かない人影の周りには、どす黒い血だまりが広がっていた。
全身をぞっと冷たいものが走った。
踏み出した足がもつれる。もどかしい遅さで、あたしはなんとか部屋の隅まで駆けた。
むっと血と汗の臭いがする。いつもオールバックの赤髪はくしゃくしゃで、シャツもズボンもあちこち破れて血まみれだ。
「……朱虎?」
恐る恐る呼び掛けても、ピクリとも動かない。パニックになりかけたけど、汚れたシャツの胸がわずかに上下にしているのが目に入って何とか落ち着いた。
「どうしよう、手錠外さなきゃ……鍵! 鍵、どこ!?」
ハッとして、慌てて入口に戻る。転がったままの黒服をあちこち探ると、ポケットから銀色の鍵が転がり出てきた。
「あった! これ!?」
慌てて引き返して、祈るような気持ちで手錠の鍵穴に差し込む。指が震えて何度か失敗したけど、カチッと音がして手錠が外れた時は心底ほっとした。
手錠を外すと、まるで人形みたいに腕がだらりと落ちた。
「朱虎、しっかりして! 朱虎!」
あたしは朱虎にのしかかるようにして懸命に肩を揺さぶった。
すぐにでもここから運び出したいけど、あたしの力じゃ朱虎を持ち上げることなんてできない。
やっぱり慧介さんについてきてもらえばよかった。サンドラにも手伝ってもらって三人がかりなら朱虎を運び出せたのに。
「朱虎……ねえ、朱虎ったら!」
どんなに揺さぶっても朱虎の体は力なく揺れるだけで、そのうちにずるりと横倒しに倒れてしまった。もつれあうように転がったあたしは、慌てて体を起こして朱虎を覗き込んだ。
真っ青な顔に手を当てると酷く冷たい。あちこちが腫れていて、随分ひどく殴られたのだと思うと胸が苦しくてたまらなくなる。
「……何で全部、一人で抱え込んじゃうのよ! だからこんなことになっちゃうんでしょ! ちゃんと話しなさいよ!!」
ああ、あたしって駄目だ。全然ダメダメだ。助けるなんて言って、ここから朱虎を動かすことすらできない。こんなに冷たいのに、あっためることもできない。
「起きてよ……あんたが起きないと、あたし達ここで死んじゃうんだから」
殴ってやるつもりだった。思いっきり怒鳴って怒ってやるつもりだったのに。
また船が揺れた。大きく傾ぐ床に、思わず朱虎にしがみつく。
「きゃっ……朱虎の、バカッ!」
「またそれか」
やけくそで叫んだら妙にはっきりとした声が返ってきた。
「……えっ?」
顔を上げると、朱虎がうっすらと目を開けていた。長いまつげが震え、何度か緩慢に瞬く。視線がぼんやりとさまよって、あたしに止まる。
「あっ、あ……」
目が覚めたの?
助けに来たんだよ。
立てる? 痛いとこある?
何で勝手なことしたの。どうして事情を話してくれなかったの。
言いたいことが渋滞しすぎて、かえって言葉が出てこない。口をパクパクさせていると、ぼんやりとあたしを見つめていた朱虎が不意に「ふ」と息を吐いた。く、く、と喉が鳴る。
えっ、まさか笑ってる?
なんで笑うの!? まさか、頭殴られておかしくなったんじゃ……。
唖然とするあたしをよそに、朱虎は苦しそうに「く、く」と笑い続けている。
「……最後に出てくるのがあんたか。つくづく、俺は……」
ぼそりと呟いた言葉は意味が分からなかったけど、カチンと来た。
出るってなんだ、出るって。あたしはユーレイか!?
ていうか、あたしは元々朱虎をぶん殴るためにここまで来たんだった。
その朱虎は目の前でボロボロになって、絞り出すように笑ってる。
「あのね、朱虎っ! あたしはねっ、……あたしは、」
それから先の言葉が出てこなかった。不意に熱いものがぐわっとこみあげてきて喉を詰まらせたからだ。
ばたばたっ、と勝手にあふれた涙が降り注いで、朱虎が笑うのをやめた。
あたしは朱虎に馬乗りになったまま、口をパクパクさせた。声が出ない。それなのに、涙だけはボロボロとこぼれる。闇雲に顔をこすっても、あとからあとから涙は溢れてあたしと朱虎を濡らした。
「志麻」
ぎこちなく上がった腕があたしに伸びる。かさついた指が頬を撫で、耳の下から大きな手が頭を包み込んだ。
「……最後が泣き顔なんて酷ぇな」
その声に思わず顔を上げた時、不意に朱虎があたしをぐいと引き寄せ――かじりつくようにキスをした。
「――どうだ、志麻の場所は分かったか」
「おー、海のど真ん中にいるわ」
「なんだと? 船が出航しているという事か」
「ま、海のど真ん中に捨てられてなきゃそういうこった。ちなみに電話は途中で切れちまったけど、どうも船は絶賛沈没中っぽい」
「なんだそのタイタニック的な展開は」
「どっちかっつーとダイハードっぽくね? 志麻センパイは朱虎サン助けに行ってるみてーだけど……マジでヤバヤバだわ。兄貴の方はどうよ」
「すぐに海上保安庁に連絡を取るそうだ。……ただ、どこまで急げるかは分からん」
「チッ。……俺らも行くか、港」
「元よりそのつもりだ。タクシーを呼べ」
「はいよ……って、電話だ。ミカさん? ……もしもし。ミカさん、わりーけど今こっち取り込み中……え? や、ちょい待ち、何で……は!? いやいやいやいや、マジ言ってんの!?」
「どうした」
「いや、ちょっ……あ、切れた」
「何だ、青ざめて。ミカがどうしたんだ」
「……ヤベーよ環サン、来るっぽい。俺らから話聞きたいって」
「来るって誰が」
「だから……志麻センパイの保護者」
「はあ? 朱虎さんは船に乗ってるんだろう。何でここに」
「だからその上だって」
「上? って」
「――おう、邪魔するぜ」
「……!!」
「何でぇ、最近の学校てなァしちめんどくせェなおい。身分証だのなんだの小やかましいこった。俺ァただ孫の学び舎に足運んだだけだってのによォ、ええ?」
「――雲竜、組長」
「ああ、お前ェさんが『部長』さんだァな。いつもうちの孫と仲良くしてくれてありがとよ。……ところでよォ、俺が退院するってェ今日に限って志麻がなかなか帰ってこなくてな。うちの若ェモンが言うにゃ、何やらゴタゴタに巻き込まれてるってェ話じゃねェか。お前ェさんらが事情通だってんでちょっくら聞きに来たんだが……うちの孫ァ、今どこにいやがるんだ?」
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