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文章ってそういうもんだよな、とおもう

 澄んだ詩を書きたくなるのがスピッツを聴いているときなら、銀杏BOYZ聴いてるときはなんだかわからないものをめちゃくちゃに書きなぐりたくなる。散文書くならスマホ、小説書くならポメラ、エッセイ書くならパソコンで、日記書くなら手書き。その理屈で言うとこの文章はエッセイに分類されてしまうけど、殴り書きがいちばん正確です。

 おすましした文章が真心込めてつくった料理なら、殴り書きはドミノピザ? 考えて書く文章が流暢なナレーションなら殴り書きは深夜のファミレスのおしゃべり。身になんかならないよ、でも不意に人生のたいせつな夜になったりするじゃない。うん、わたしは料理が苦手だしきちんと喋るのはもっと苦手。そのくせ四六時中話さなきゃいけない仕事だから、いっそ教室もデニーズになれっておもいながらしゃべってる。

 毎日散文を投稿するようになって五ヶ月なんだけど、びっくりするほど日常になってびっくりしている。一月一日深夜二時、結構な覚悟で誓ったんですよ、浅草寺で、今年はまいにち書くぞって。書きたいことがないときは何も書けないだろうよ、と思ってたんだけど、書かなきゃなんもうまれないぞってことがわかった。その理論を応用して、書きたいこととかないのにnoteの新規記事作成のページをひらく、その成れの果てがこの記事です。

 自分の文章がきもちわるくなる瞬間ってない? わたしは死ぬほどある。書き終えた小説の手直し、そのほとんどが気持ち悪い文章をなんとかする作業ですし。読み返して蕁麻疹のでる言い回しを直して、もう一回読み返してまた蕁麻疹がでそうになって、ぞわぞわしながらまた直すと今度はとなりの文がきもちわるい、もう悪夢だね。うん、だからnoteに書いてることって気持ち悪いの嵐だよ、読み返してないし。でもたまにはさ、ぜんぶどうでもいいやっておもって文章書きたいじゃん。

 三年前、わたしは何かを書きたくてしかたないのに何を書けばいいのかわからなくて、キーボードのホームポジションに指を十本おいて静止してた。殴り書きだって実はむずかしいんだよ、ほら落書きだって、そもそも絵がかけないとかけないでしょ。澄んだ詩を書きたくなるのがスピッツを聴いているときなら、銀杏BOYZ聴いてるときはなんだかわからないものをめちゃくちゃに書きなぐりたくなる。とか言って、わたし今フジファブリック聴いてる。文章ってそういうもんだよな、とおもう。

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