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ゲラゲラ笑える喜劇…じゃないw:舞台「大地」

PARCO劇場でソーシャルディスタンスで上演されている、三谷幸喜・作・演出の新作「大地」。
コロナ対応もあって、観客・舞台ともにソーシャルディスタンス対応するとともに(観客は定員の半分。役者たちも距離を保っての演技になっています)、アーカイブなしのストリーミング配信をされています。
音楽のライブは結構ストリーミングで視聴するようになってますが、舞台は観たことなかったので、トライしてみました。

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ミュージシャンのストリーミングライブの場合、結構カメラワークなんかにも凝ったものが出てきてますが、この舞台の場合は基本的には「引き」の絵と、「寄り」「アップ」のみ。
上からとか、アオリとかはありません。
まあ、でも「演劇舞台」ってことを考えると、コレはコレが正解かな。
「敢えて引だけで」ってトライもあり得ますが、さすがに(臨場感がないと)それは飽きるでしょうからねw。


通信環境については、1幕・2幕で3時間弱の上映中、3回ほどストップ(10秒ほど)。
当然セリフが聞こえなくなるんですが、存外コレは気にならず。
まあリアルで舞台を観に行っても、セリフが追えなく事もあるからなぁw。


ストリーミングの「おまけ」としては幕間に三谷幸喜さんの役者へのインタビューがあって、コレはお得な感じ。
トイレに行きたかったんで、タブレットをトイレに持ち込むハメになっちゃいましたがねw。


全体としては「舞台は楽しめる」ってのが感想です。
ただ臨場感や現場感は当然落ちるので、そういうのが重要な題目だと、つまらなくなるでしょう。(「シルク・ド・ソレイユ」をストリーミングで楽しむのはチョット…)


<以下、ネタバレがあります。観る予定がある方はお読みにならないで下さい>

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三谷作品ということで「喜劇」と期待してたんですが、もっとテーマ性の強い作品でした。(2幕の前半はドタバタ喜劇調がありますが)
三谷さんは「俳優論を舞台にした」みたいなことを話されてるようですが、その延長線上に「演劇論」「エンタメ論」が浮かび上がってくるってのが僕の印象。


大泉洋演じる「チャペック」は、最終的に「才能がない」ということで犠牲として差し出され、差し出したことで<観客>を失ったことで役者たちは演じることができなくなります。


でも「チャペック」は単なる<観客>ではなく、才能はないけど<演劇人>でもあるんですよね。
その<演劇人>を<観客>と位置付けてしまうところに役者の傲慢さを感じるとともに、
「でもまあ、小劇場なんか、<観客>は潜在的な<演劇人>と言えるかもな」
…なんて思ったりしたり、


最終的に演じることができなくなった役者たちは、自分たちを「才能がある」「唯一無二」と思ってたかもしれないけど、結局は自分たちも「代替が効く存在」でしかなかったんじゃん
…とか思ったり、


それでも演技を続けているのが映画俳優(ブロツキー)であるところに、「エンターテインメント」の<演じる側>と<観る側>の関係性が暗示されるのかもな
…とか。


まあ、色々考えさせられたりもしました。
そういう「多義性」を孕んでいるのが「演劇」なんかもなぁ…とかもねw。


しかしまあ、やっぱり個人的にはこういう「テーマ性」の強い演劇はちょっと苦手かなw。
このメンツでの舞台には充実感は確かにありますが。


コロナとは関係なく、本作は昨年には書かれていたそうです。
三谷さん自身に「演劇の必要性」ってのが課題認識としてあったってことでしょう。
そしてそれが「コロナ禍」における「演劇」への逆風によって、より鮮明に浮き彫りになってきているという状況。

「演劇を観る」

というのはある種の「特権的」な体験でもあり、それは音楽ライブよりも強い意味合いを持っていると僕は思っています。
その「特権性」が、果たしてこの環境下においても、社会的に「必要」とされるものなのかどうか?
そのような「問い掛け」の可否自体も含めて、思わぬ深さを本作は持ってしまったんじゃないか、と。


こんな風に面白がってストリーミング上演を見ちゃうくらいですから、僕自身は「必要」と思っている人間です。
でもそれが「社会」としてはどうなのか?
コロナ禍の初期に野田秀樹氏が「炎上」した問いかけは今も有効だと思います。
飲食業や観光業の苦境が鮮明になり、影響を受ける産業の広がりが拡大し続けている現状は、尚更に。


答えはないんだろうけどなぁ…。

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#三谷幸喜

#大地

#大泉洋

#山本耕史

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