見出し画像

【入社エントリー】自分の40代をmentoとコーチングにBetすると決めるまでの話

自己紹介

初めまして。2022年8月にコーチングプラットフォーム事業のスタートアップ「mento」に参画しました鈴木麻理子と申します。
これまでの会社では「すずまりさん」と多くの方に呼んでいただいていました。(気に入ってます)
余談ですが、私は旧姓も「鈴木」で、「鈴木さん」と結婚したので昔も今もすずまりさんです。
なお、本エントリーは長文です。お暇なときにご笑覧いただけますと幸いです。

経歴

貧乏な学生時代

少し遡りますが、私の原点となった時期でもあるので大学時代からお話させてください。
大学は早稲田に通っていました。
大学時代は、早稲田生らしくバイトとサークル活動に明け暮れる日々でした。

仕送りなしでかつかつ貧乏な学生生活を送っていたので、サークル以外の空いている時間はずっと近所の居酒屋でバイトをしていました。

昼すぎから翌早朝までバイトして、その後バイト仲間と飲みに行って朝帰り、起きたらまたバイトという生活でした。
当然ながらこの生活サイクルでは全然授業に出ることができず、3年生まではバイト・サークル・飲み会まみれの日々でした。

気づけば4年生で40単位(フル単)が残っており、経済的にさすがに留年はできないので4年生は睡眠時間を削ってなんとか授業に出て、ギリギリで卒業しました。

そんな学生生活だったので、就職活動は最低限しかできませんでしたが、運良く三井住友海上から内定をいただきました。(なんで内定をもらえたのか今考えると不思議です。)

当時はまだ「キャリア」なんていう言葉はなく、就職氷河期の終わり頃で内定をもらえれば御の字、という時代でした。
経済的にも単位的にも就活をのんびりしている状況ではなかったので、最初に三井住友海上から内定をもらった時点で、早々に就活を終えました。
大手で安定していそうだと思ったし、給料高かったし、面接でも良い人ばかりだったし、同期もみんな最高でしたし、何の不安もありませんでした。

全く成果を出せなかった新卒時代

三井住友海上には総合職として入社しました。たしか総合職同期が150人くらいいて、女性が12名くらいだったと記憶しています。まだ会社の中心は男性という空気が色濃く残っている時代でした。私たちの代は女性比率が1割にも届きませんでしたが「この代は女性がすごく多い」と言われていました。

私がなぜ総合職での選考に進んだかというと、給料が高かったからです。学生時代にお金で苦労したので、経済的に安定したいという気持ちが大きく、会社を背負って立つとかそんな気概は全くありませんでした。安定した会社に就職することがゴールでした

3ヶ月ほどの研修期間を経て、発表された配属先は岡山県での営業でした。横浜生まれ横浜育ちだった私にとっては青天の霹靂。総合職は全国転勤ありの雇用形態だったので、別に驚くことではないのですが、どこかで「自分は女性だし首都圏だろう」とタカをくくっていました。

総合職女性で地方配属になったのは私が初めてだったそうです。また、今は分かりませんが、当時岡山は自社のシェアが最も高く、「営業の出世コース」とも言われていました。

学生時代は遊びとバイトしかしておらず、強い貢献意欲などもなかったのになぜかそのような先駆者的な配属だったので、「私は期待されているんだ」と思い込んでいました。今振り返ると本当におめでたい思考だったと思います。

本当に会社から期待されていたのか、生意気な新卒だった私に現実を見せてあげようという厳しさ(優しさ?)だったのか、真意は分からないですが、期待に反して岡山では私は全くといっていいほど成果を出せませんでした。就職することがゴールだった私は、仕事に対する覚悟も熱意も持ちきれていませんでした

「新卒で、地方で、総合職で、営業で、女性」というラベリングの珍しさだけでこの期間をやり過ごしてしまっていました。お取引先様からはかわいがっていただきましたが、数字を達成できないこともしばしばあり、恥ずかしながらそれをずっと環境のせいにしていました。
こんな私に対しても多くの先輩が向き合ってくださり、我慢強くご指導いただいたり、飲みに連れて行ったりしていただきました。毎日辞めたいと思っていましたが、なんとか辞めずに頑張れたのは、周りの先輩方に恵まれたおかげです。本当に感謝しかありません。

念願の本社への異動・・だったけれど・・・

岡山での3年間を終え、4年目に本社の営業企画部へ異動となりました。念願の異動です。
他責思考が染みついていた私は「やっと本来の自分の能力を発揮できる」と思いました。これまでの成果を出せなかった自分を省みることもなく、相変わらずおめでたい心持ちで意気揚々と異動してきました。

しかし、社会人基礎力やスタンスが未熟だった私が、職種が変わったからといって成果を出せるわけがありません。本社にきてみたら、さらに信じられないくらい優秀な人ばかりに囲まれ、見様見真似で仕事を覚えてついていくのに精一杯でした。

とても忙しい日々で、いろんなことをやらせていただきましたが、この時期のことは正直あまり覚えていません。ただ与えられたHowをひたすらにこなしていたように思います。

岡山にいたときは会社の先輩以外に交流できる友人が一人もいなくて(環境のせいにして、自ら人間関係を作ろうとしていなかったというのが正しいですが)、やっと東京に帰ってこられたので、孤独だった時間を取り戻すかのように仕事以外の時間をエンジョイしようと必死でした。学ぶことも内省することもなく、遊んでばかりでした。

この頃から少しずつ自分の今後のキャリアについて悩むようになっていきました。
転職することが当たり前ではなかった時代、大手で安定したこの会社を辞めることは、もったいないと思っていました。
一方で、自分で選んだにもかかわらず、「全国転勤があったら結婚もしづらいし、長くいられない」などと不満を持っていました。

異動してもなお成果を出せない自分に自信を失っていて、相変わらず環境のせいにして、環境を変えたいと考えていたようにも思います。
いえ、「逃げたい」「やり直したい」というのが正直な本音でした。

他の会社を見てみようと転職エージェントのところに行きました。
転職エージェントという存在もそのときに初めて知って、リクルートエージェントの八重洲の素敵なオフィスに仕事帰りに出向いたことを今でも鮮明に覚えています。
担当してくださったCA(キャリアアドバイザー)は30代半ばくらいの超絶仕事ができそうな女性の方でした。おめでたい他責思考の私を責めることなく、話を聞いてくれて、いくつか候補の求人を出してくださいました。

直感で決めた最初の転職

忙しかったので転職活動にそんなに時間をかけられず、3社ほど話を伺って、研修会社のインソースに転職を決めました。

インソースの選考は最初からいきなり最終面接で、社長と専務が出てきてその場で内定をもらいました。笑
ワイルド!
その大胆さがなんとなく気に入ったのと、社長がおもしろい人だったのでこの人と働いてみたい!と直感的に思い、即決しました。

インソースは企業や官公庁のビジネスパーソン向けにビジネススキルの研修事業を主軸とした会社です。今は上場もして、堅実に成長されています。
私が入ったときはたしか社員が100名くらいだったと記憶しています。ベンチャーという言葉は当時はまだ一般的ではなかったですが、まさにみんなで走りながら考えて事業をつくっているフェーズで、まさしくベンチャーでした。

直感で決めたのですが、後から振り返るとインソースを選んだ原体験が1社目のときにありました。
三井住友海上に在籍していたたときに、「7つの習慣」の研修を受ける機会がありました。外部の研修を受けたり、ビジネススキルを高めるなんて習慣がなかった私は、この研修でパラダイムシフトが起きたような体験をしました。
自分がいかに井の中の蛙であるかを痛感したのです(そこから自分が変われなかったのは本当に残念すぎますが・・・><)。

転職活動を始めたときにはその記憶は忘れかけていましたが、インソースで働いていくうちに、私は「普通に頑張っているビジネスパーソンが少しでも成長を感じて、やりがいを持って仕事できることを支援したい」ということを大事にしているんだということに気づいていきました。この軸は今でも私の仕事観の根底を成しているように思います。

インソースは小難しい理論は入れず、実践的で明日からすぐに使えるような研修コンテンツを大事にしていてそこにもすごく共感していました。
インソースでも営業をしていましたが、人事のご担当者や研修を受けてくださった受講者の方が喜んでいただけることが多く、とてもやりがいを感じました。
社員の平均年齢が当時おそらく20代後半くらいで、自分と同年代の仲間が切磋琢磨し合いながら成長し、また事業や会社がどんどん大きくなっていく過程もとてもエキサイティングで、私は出世とかにはあまり興味がなく、仲間と一緒に走ること、事業づくりに肌感を持てることに大きなやりがいに感じるんだなということも自己認知しました。

1社目で染みついていた他責思考もインソースでの環境で少しずつ拭い去られ、自分の成長は自分で責任を持つということを20代も後半に差し掛かったあたりで認識しました。(遅すぎ、残念すぎ)

インソースには3年弱在籍していました。退職に至るネガティブな理由は特になかったのですが、結婚・妊娠を機に退職しました。妊娠中に身体のトラブルがあり入院しなければならなくなったことと、20代はずっと激務だったので子供が生まれたら少しのんびりしたいという気持ちがあったからです。

初めての出産・育児とフリーランス時代

インソースを退職して、妊娠28週のときに超低体重出生(1,000グラム未満で生まれること)で娘が生まれました。体重は719グラム、身長は30センチでした。妊娠中にお腹の中で発育が芳しくないと先生に言われていたので多少の覚悟はしていましたが、まさかこんなに小さく生まれてしまうなんて、、当時は自分をすごく責めました。

妊娠したことに気づかず、妊娠初期は普通にスノボに行ったりしていたし、お酒も毎日飲んでいたし、仕事では大量の重い資料を抱えて営業で歩き回っていました。

それが原因かは分からないのですが、元気な状態で娘を産んであげられず、産んでからも一緒に過ごすことができず、保育器に入って小さい小さい身体にたくさんの管が繋がれている姿をガラス越しに見守ることしかできない、抱っこすらできないという時間はとても辛く、毎日泣き暮らしていました。

それでも日本の優秀な医療に助けられ、本当に幸運なことに大きな病気もなく、小さいながらも少しずつ成長してくれました。4ヶ月ほど入院し、体重が2,200グラムになったときに退院していよいよ一緒に暮らすことができるようになりました。

初めての育児は戸惑うことや不慣れなことの連続でしたが、天使のような娘が隣にいてくれるという事実だけで幸せでした。何か掛け違えていたら、この命はなかったかもしれないと思うと、この天使が家にいるだけで奇跡だと感じました。

退院してから2〜3ヶ月ほどは楽しく育児と家事に専念していましたが、早々に「物足りない」という気持ちがむくむくと出てきました。

社会とつながっていない孤独感、経済的に夫に頼りきりの罪悪感、娘と家族以外の誰の役にも立てていないという寂しい気持ち、、やっぱり私は仕事をしたいんだと自覚するまで時間はかかりませんでした。

生後半年以上経っていましたが、娘はまだまだ新生児くらいの大きさで保育園に預けるのは不安だったので、時間と場所の融通がきくフリーランスで働くことにしました。
ありがたいことにちょっとしたご縁があり、市場調査大手のマクロミルから業務委託を受け、マーケティングリサーチに関わる補助業務をしていました。子供が1歳半のときに保育園に入ることもでき、自分のペースで楽しく仕事と育児を両立していました。

育児ノイローゼで倒れた日

フリーランスで働きながら、相変わらず育児を中心とした生活が2年半ほど続きました。娘は小さいながらも順調に成長してくれました。赤ちゃんの頃はとにかくかわいくて、食べちゃいたいくらい。というか毎日かぶりついてました。笑

夢中になって育児をしてきましたが、いつの間にか娘もイヤイヤ期に突入していました。イヤイヤ期は健全な成長の証なので喜ぶべきことだと頭では分かっていましたが、あまりにも想像の上をいく大変さ。

フリーランスで仕事をしていたこともあり、たまに仕事先の方と会うときと、夫と話す以外は大人と会話する機会がなかった私は、上手くいかない育児のあれこれを発散する術がなく、いつの間にかどんどん追い詰められていました。

あんなに小さく産んでしまって、絶対にこの子を幸せにする、小さくてもハンデにならないように頑張ると誓ったはずなのに、自分をコントロールできず、まだ善悪の区別もつかない娘に怒鳴ってしまう。かわいいはずの娘がかわいいと思えない。それでまた自己嫌悪に陥るということを繰り返していました。

ストレスでごはんが食べられなくなり、半年で8キロ痩せました。

ある日の朝、いつものように自転車で保育園へ娘を送っていく途中に、強烈な目眩に襲われました。視界がぐるぐる回り、世界が白黒になりました。娘が自転車に乗っているので倒れるわけにはいかないという本能だけで、自転車を身体で支えましたが、一歩も動けなくなりました。

目を開けているはずなのに、周りに人がいるのかも見えず、倒れたら娘が大ケガをするかもしれないという恐怖感で立ち尽くし、誰かいるかもしれないという一心で、「助けてください!」と叫びました。(実際は声もうまく出せなかったので、ささやきくらいの声量だったかもしれません)

幸運なことに保育園の先生が通りがかって気づいてくれて、娘を下ろして、自転車を支えてくれました。
私は一旦保育園に運び込まれて寝かせてもらい、その後保育園の先生に付き添っていただき近くのクリニックで点滴を打ち、回復しました。極度の低血圧か貧血(?)だったようです。

この件をきっかけに、仕事の仕方を変えようと決めました。
フリーランスはやりがいを持ってやれていましたが、私はやっぱり組織に属して、人とコミュニケーションを取りながらチームで働く方が合っていると思ったのです。

育児への向き合い方を変えようと思うのではなく、仕事の環境を先に変えようと思うのが今考えると私らしいなと思います。
自分が心身ともに充実していれば、育児の向き合い方も変わると直感的に感じたのだと思います。

派遣からビズリーチへ

外で働こうと決めて、初めて派遣会社に登録しました。
派遣を選んだのは、キャリアにブランクがあったことと、フリーランスでは不規則な生活だったもあり、フルタイムの正社員になるのはまだ難しいのではないかと思ったからです。
まずは1日6時間くらい時短で働きたいという希望を派遣会社に伝え、最初に紹介されたのがビズリーチでした。

当時はまだCMもやっていなくて、ビズリーチのことは知りませんでした。
派遣元から「渋谷のIT企業」と言われて、「サイバーエージェントさんで働けるのか、楽しそう!」と勝手に思い込んでいました。笑

職場見学に行ってみたらビズリーチだったのですが、面談いただいた方(当時のビズリーチの事業部長)が素敵な方だったので、ここで働こうと即決しました。

インソースのときもそうだったのですが、たくさんの選択肢からあれこれ悩むのではなく、キャリアの転換点では私は直感即決型です。
小さいことはうじうじ悩むのに、なぜか重要な意思決定はワイルドに決めたい、という志向性があります。
たぶんワセジョっぽく大胆に生きたいんです。(早稲田の女性のことを早稲田の人はワセジョと呼びます)

ちなみにmento代表の木村にこの話をしたら、ワセジョっぽいの最高と言われてめっちゃ嬉しかったです。

ビズリーチでは、ビズリーチ事業の事業部長のアシスタントから派遣業務をスタートしました。日程調整等をする秘書的なアシスタントではなく、多忙な事業部長の代わりにゴーストライター的に戦略資料などを作る仕事がメインでした。

派遣なのにこんな重要な仕事を任せてもらいとても驚きましたが、雇用形態にかかわらず裁量の大きい仕事をさせてもらえる社風がとても好きになりました。
半年ほど派遣で働いていましたが、ビズリーチの人がどんどん好きになり、事業のことをもっと知りたい、もっと貢献したい、もっとこの輪に入りたい、という想いが強くなり、時短かつ派遣という働き方では物足りなくなりました。

育児と両立していけるのか不安はありましたが、社員になりたいと思っていることを上長へ相談し、面接機会を設けていただき、正社員に登用いただきました。2017年6月のことです。

社員になってからは、ビズリーチの事業企画に1年ほど携わった後、人事企画へ異動しました。
2022年7月に急逝された多田さん(当時はキャリアカンパニーのカンパニー長)は人材育成に強い想いがあり、人材開発を本格的に立ち上げていくという話を聞いて、インソースでの経験を生かしたいし、私がやりたいことだと思って、多田さんに直談判し異動させてもらいました。

当時は新卒研修・キャリア入社研修など、入社時の研修はやっていましたが、それ以外の施策は特にありませんでした。
本当に手探りでしたが、初めてマネージャー向け研修を企画立案して実施したり、翌年以降は新卒の皆さんの受け入れや研修等も任せていただきました。
大変なことも多くて忙しかったですが、とても充実した日々でした。

コーチングとの出会い

ビズリーチでは、半期に1回全社でのキックオフを実施しています。
2018年のキックオフで代表の南さんが「今年は社員の人材開発に●億円投資する!」と発表しました。(※かなり前の話ではありますが社外に出して良い数値ではないかもしれないので、具体的な金額は一応伏せます)

当時私は人材開発のマネージャーをしていましたが、全くそんな発表がされるとは聞いていなかったので驚きました。笑
南さん、ワイルド。

ビズリーチでは1on1の文化が根付いていましたが、その時間をさらに価値あるものにしていくため、1on1やコーチングのスキルを学ぶ研修に多額のコストを投資いただくという内容でした。

リーダーやマネージャーは研修だけでなく、プロコーチからコーチングを受けられるという経験もセットとなった研修プログラムでした。
そのプログラムに私も受講者として参加し、初めてプロコーチのコーチングを受けました。これが私とコーチングとの初めての出会いです。

このコーチングの体験は私にとっては忘れらないものでした。
「良かった」とか「面白かった」とか「モヤモヤが晴れた」とか、そんな単純な言葉では言い表すことができません。
強いて表現するのであれば、「誰にも見せていなかった私の中心を覗かれて、かつ思いきりそこをぶん殴られたのに、同時に強い安心感と受容をもたらしてくれた」。そんな感じです。

このときはビズリーチに入って丸2年目くらいだったと思います。ビズリーチの仕事は本当に楽しくて、やりがいがあって、私のマインドシェアの95%くらいを仕事が占めていました。

今振り返ると母としても、妻としても失格だったと思いますが、いつの間にか「仕事以外の時間が邪魔」だと感じてしまっていて、態度にも出てしまっていました。娘や家族と向き合うために仕事の環境を変えたはずなのに、家族をおざなりにしている自分がいました。

そして、薄々それに気づいていたのに、気づかないふりをしていました。無意識に罪悪感に蓋をしていました

もちろんコーチングの体験で初対面のコーチにそんなことを話すつもりはありませんでした。
いつもの私の通り、仕事の話をテーマとして持っていきました。たぶん「キャリア」とか「成長」とかそんなテーマを持っていったように思います。

しかし、どういう流れだったのかは忘れてしまいましたが、気がつけばコーチに対して、育児と仕事のせめぎ合いで苦しんでいる自分の気持ちを号泣しながら話していました。コーチはただただ圧倒的な味方としてそこにいてくれて、心底救われたと思ったことを強烈に覚えています。

この問題がすぐに解決したわけではありません。ブランクからくるキャリアへの焦りや、周りが優秀な人ばかりで比較して落ち込むなど、ことあるごとに私の弱い部分が顔を出してきます。そして、その度にまたベクトルが仕事だけに向いてしまう。

ただ、このときのコーチングセッションをきっかけに、これは私自身の捉え方の問題であり、自分はいつでも自分を変えることができると気づいたし、私自身が問題を受け止め、向き合う覚悟ができた。
さらに、そんな弱さも含めてそれが私なんだと自分を少しだけ認められるようになったことは、前を向けるきっかけになりました。

いつか私も自分と同じような人を救える存在になりたいと思い、仕事の合間にスクールに通い2020年にプロコーチの資格を取得しました。

プロコーチへのチャレンジ

コーチングの資格を取得した頃と同じ2020年にビズリーチはVisionalとしてグループ経営体制に移行しました。私は引き続き人事として、制度運用や組織開発、分社化やIPOに向けた基盤整備、新規事業のHRBPなどさらに多くの貴重な経験をさせていただきました。

ここまで読んでいただいた方には(長くてすみません)、ここから先は順風満帆だったのではないかと思われるかもしれません。

しかし、そんなことはなく何度も壁にぶつかり、うまくいかないことがたくさんありました。人事という仕事は何が正解かも分からず、本当に難しく、時間がかかり、奥深いなと思います。
誰のせいでもなく、自分で自分をできない人間だと思い込み、ドツボにはまって、萎縮して、予定調和に陥って、成果に繋がらず、落ち込む経験を何度も繰り返しました。

それでも私はやっぱり大好きなVisionalの仲間が活躍することを願い、実現していく人事という仕事が好きで誇りに思っていて、自分のその頼りないけれど小さな信念と、周りの方の支えを糧に日々奮闘していました。

また、子供や家族との向き合い方、仕事との両立についても徐々に自分なりのやり方でアジャストできるようになっていきました。公私ともに穏やかながら幸せで充実した日々を送っていました。

同時に、節目となる40歳が近づくにつれ、キャリアや未来に対する小さな不安を持つようになっていました。
リスキリングや副業というようなキーワードが世の中に溢れていて、相対的に成長スピードが遅いのではないかという焦りもあったと思います。
「自分が本当にやりたいことが未だに見つかっていない気がする」「いつまで新しいチャレンジをできるのだろうか」というような不安がいつも心の片隅にいました

なんとかその不安を打破したいと思って、学び続けてきたコーチングにチャレンジしてみようと決心し、2021年からmentoの登録コーチとして副業でコーチングの仕事を始めました。

コーチングは資格を取って終わりではなく、ここからがやっとスタート地点なんだと強く痛感しました。まだまだコーチとしては駆け出しで、学びになることが日々山のようにあるのですが、さすがに長くなり過ぎるのでそれはまた別の機会にしたいと思います。汗

mentoとの出会い

コーチとして登録した後にmentoの中の人(社員)とオンラインでランチをさせてもらう機会がありました。

インソース、ビズリーチと事業会社で事業作りに携わってきた私としては、「コーチとしていかに稼ぐか」より「この事業はどういう可能性があるのか」ということばかりに興味がいき、そんな質問ばかりをしていた記憶があります。変わったコーチだと思われていたかもしれません。笑

mentoの皆さんと話す中で、コーチング市場における課題を知り、それをmentoという事業を通じて、テクノロジーの力で解決していくことに大きな可能性を感じ、何よりも「コーチングを通じて主観的幸福に感じる人を増やしていきたい」という想いに心から共感しました。

mentoを使ってくださる方の多くがビジネスパーソンであることも、「ビジネスパーソンが少しでも成長を感じて、やりがいを持って仕事できることを支援したい」というインソースのときから持っている私の価値観ともFitしていると思いました。

私自身がコーチングによって救われたことを身を持って経験してきたこともあり、コーチングは今後ますます多くの方に求められていくものであり、この事業はきっと成長していくだろうと直感的に確信を持ちました

mentoのコーチになれたことはとても誇らしく、そこに貢献したいと思いました。
同時に、「事業サイドにも関わりたい」そういうふうにも思いました。ビズリーチで社員にチャレンジしようと思ったときと同じ感覚です。この輪にもっと入りたい、と思ったのです。

そのランチの翌日にCOOの丹下にDMを送り、「ボランティアで良いので何か手伝いたい」と伝え、快諾をもらいました。
迷惑に思われるのではないかとか、余計な逡巡をしましたがw、自分で行動を起こさなければチャンスを逃すかもしれないと勇気を出しました

そこからmentoのコーチとして活動しながら、同時に事業サイドにもできる範囲で携わらせてもらい、それがご縁となって入社することになりました。

ウェルビーイングという比較的新しい概念を浸透させていくコーチングを軸とした事業の可能性、目指したいビジョンへの心からの共感、傾聴と対話を大事にする組織、温かく強い優秀な仲間。
バラバラだったパズルがピタッとはまるかのような感覚で、「私が次の人生をかけるべき場所はここだ」と感じました。

やっぱり直感で即決しましたが、これまで直感即決でキャリア選択を間違えたと感じたことは一度もないので、ここだけは自信があります。

フリーランス時代も含めここまで学ぶことの連続で、かけがえのない時間を過ごさせていただき、たくさんの失敗を積み重ねながらも自分らしいキャリアを歩んでくることができました。

至らぬ点も多々ありましたが、本当に多くの人に支えられ、新しいチャレンジができることを幸運に思い、ご縁があった方・ご指導賜った方にこの場をお借りして、改めて心より御礼を申し上げます。

これからチャレンジしたいこと

mentoのビジョンは、「夢中をふつうにする」です。
ミッションは「コーチングとテクノロジーの力によって日本の主観的ウェルビーイングを世界No.1に」です。

日本の主観的幸福度は世界で54位。先進国ではダントツの最下位です。戦後、急激に経済は成長したのにウェルビーイング指標は横ばいのまま。経済的に豊かになっても心は満たされていない。これが日本の実態です。

経済合理性だけを追い求める時代はすでに限界がきていて、主観的な幸福や充実を誰もが得られることを目指す社会がすぐにくるのではないかと思っていますし、そうありたいと願っています。
mentoはコーチングとテクノロジーの力でそのような社会を実現していきます。

まだ10名未満のスタートアップなので、役割がかっちり決まっているわけではありませんが、私自身はコーチサクセスをメインで担当します。
職種でいうとこれまでやってきたHRに近いけれどもちょっと違う、新しいチャレンジです。

mentoの事業はコーチの皆さんに支えられています。クライアントさんとのマッチングをただ提供する意思のないプラットフォームではなく、コーチの皆さんと一枚岩となって、1人1人のクライアントさんへ価値を提供し、「夢中がふつう」である世界を一歩ずつつくっていきます

そして、mentoがコーチの皆さんにとってもウェルビーイングであり続けられるプラットフォームにしていくこと。これがコーチサクセスとして私が目指している世界です。

=======================================================

mentoのコーチングを体験してみたい方、コーチとしてmentoとともに価値を届けてくれる方、mentoに興味を持っていただいた方、いつでもお気軽にお声がけください^^

◆mentoに興味を持ってくださったコーチの方

◆mentoのコーチングにご興味をお持ちいただけた方
まずは5,000円(税抜)で体験することができます^^

◆mentoに相談したい経営者や人事の方

◆mentoという会社に興味を持ってくださった方

=======================================================
文章をまとめる力がなく、これまでの経験と想いを全て書き出したらこんなに長くなってしまいました。
ここまで脱落せずに読んでいただいた方、お付き合いいただきまして、ありがとうございます。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?