「切って落とす」鈴木鹿(31枚)

〈文芸同人誌『突き抜け10』(2015年11月発行)収録〉

   1

 カラオケボックス「風になりたい」の受付カウンターで、手宮坂はマラカスを選んでいる。音色、装飾、振り心地、あまりにも豊富なバリエーション。しゃっ。しゃっ。しゃかしゃかしゃっ。カウンターの片隅でひとつひとつ試しながら手宮坂は悩む。とはいえ、こだわりがあるわけではない。プロのマラカス奏者でもあるまいし、手宮坂が判断基準とするポイントはひとつだけだ。どのマラカスが一番盛り上がるか。これだけだ。盛り上げたい。ものすごく盛り上げたい。手宮坂は今、心の底からそれだけを強く思っている。
 あちらの部屋、こちらの部屋からマイクを通したがなり声が漏れ聞こえてくる。それらはどれもひどい歌声に違いないけれど、クリスマスソングに飽き飽きしていた手宮坂の耳には新鮮に響く。年の暮れはすべての人々に平等に訪れ、人々は良かれ悪しかれ平等に浮き足立つ。どの部屋も盛り上がっている。手宮坂はなおさら燃え上がってくる。なんとしても盛り上げなくてはならない。
 就職を機に地元を離れ、ほどなく結婚、そして十五年が経ち離婚に至った手宮坂は、かなり久しぶりの年末単独帰省でまるっきり暇を持て余していた。初日の昨日こそ従来の帰省とは違う我が身の軽さを新鮮に感じて、今年一年心配をかけた両親に一人息子らしくいっちょ孝行でもしてやろうかと思わなくもなかったが、そんな気持ちは初日の夜であっさりとついえてしまった。両親との積もる話といっても特に会話が弾むわけでもなくむしろ重苦しい空気がつのる一方であり、押し黙った親子の前で流れる夜のテレビは単調で、昼のテレビは再放送だ。かつての自室はリフォームされて当時の痕跡もすっかり消え失せ手宮坂は懐かしさを反芻することすら許されず、大晦日の午後、いたたまれずにコンビニへ出た。
 立ち読み中の手宮坂に声をかけてきたのは近所の幼なじみの祝岩だった。コートの上からでもわかるぐらい相変わらず巨乳だった。幼なじみ、といってもなじんでいたのは十五年前、手宮坂が親元を離れるまでのことで、幼稚園と小学校と中学校が同じで、高校と大学は別だけど近所だからまあ交流はあったよね、的な。祝岩がきれいになっていてびっくりした。コンビニの中で話すのもなんなので、おでんを買ってコンビニの前で食べながら話した。人は少なく、静かだった。おでんの湯気が猛烈に白かった。祝岩のくしゃみを合図に帰ろうとしたところを飲みに誘われた。どきっとしたが、聞けば今夜、同窓会と呼べるほどの規模でもないが、アンオフィシャルな小中学校同級生の集いがあるのだという。あいつやこいつも来るというその名に懐かしさをおぼえた手宮坂は、二つ返事で出席の旨を伝えたのだった。帰宅して母に蕎麦は不要と告げた。寂しそうな、でもほっとしたような顔をされた。
 せいぜい暇つぶし程度に考えていた一次会の居酒屋が、それなりに楽しかったのは嬉しい誤算だった。それぞれに経験を積んだあいつもこいつも祝岩も手宮坂の突然の出席を喜んでくれた。このような会に参加するのは初めてだった。手宮坂こそずいぶんとごぶさたであったが、中には地元に残っている者、まめに帰省している者などもあって、同級生のコミュニティは現在に至るまで緩やかに続いているらしかった。小規模とはいえ想像していたよりも多くの人数、二十人程度が集まっていて、中には同級生というだけで親しくはなかった者もいたが、そこはお互い大人なわけでアルコールの力を借りながら大人らしく空気を読んで過ごした。徐々に楽しくなってきて、なんだか、これぞ忘年会だなという感じがした。職場の忘年会でも友人との忘年会でも行きつけの店のおねえちゃんとの忘年会でも晴れなかった厚くて黒くて重い雲が、もしかしたらここで晴れるような気がした。今まで生きてきた中で一番忘れてしまいたい一年の最終日。きれいで巨乳の祝岩が、とろんとした目で微笑んでいる。酔った祝岩を見るのは初めてである。どきっとする。ようし、こうなったら、とことん盛り上がっていこう。そう強く思ったところで時間が来て、一次会はお開きとなった。
 さて、手宮坂のもうひとつの誤算は、懐かしいあいつもこいつも、そして祝岩さえもが一次会で帰ってしまったことである。当然のように二次会の人の流れに乗っかってきた手宮坂は、カラオケボックスの入口でその事態にようやく気づいた。そりゃそうである。大晦日の夜である。地元に暮らしているにせよ帰省中であるにせよ、実家にいる以上は基本的には家族と年を越すのが普通であろう。祝岩とは別れの挨拶すら交わすことができなかった。手宮坂は不完全燃焼の気持ちを抱えたままで、はしごを外され宙ぶらりんになってしまった。
 残ったのは手宮坂のほかに三人。全員が特に親しくなかった、一次会では大人の対応でやり過ごした者ばかりだった。ただ、じゃあ帰ろう、というのはいくらなんでもないだろうと手宮坂は思った。まあ、同級生とはいえたぶん二度と会わないような相手であるから嫌われたってどうってことないといえばないのだが、大人としてその態度、その対応はさすがにちょっと。そもそも、この場を辞したとして手宮坂に行くところなどないのである。地元の店などろくに知らないし、一次会で再会したメンバーのほかに会いたい旧友が特にいるわけでもない。そして、家に帰ったところで手宮坂の蕎麦は用意されていないのだ。手宮坂は頭を抱えて天を仰ぎ、そして、強い目で前を向き腹をくくった。
 受付カウンターに手宮坂を残して先に部屋へと入っていった三人の顔を思い浮かべる。男が二人、女が一人。
 塩柳は中学時代にバスケ部のキャプテンだった男で、当時から背も高く目立っていたからもちろん手宮坂も知っていた。向こうは手宮坂のことを知っていたかどうかはわからない。バスケ部でキャプテンで長身である。端的にいってモテた。顔も、男の手宮坂には正直よくわからないが、不細工でないことは確かだった。祝岩が、塩柳に気があるとかないとか、そんな噂が立ったことがあった。本人に確かめはしなかった。
 今日、一次会の居酒屋に入ったときに真っ先に目についたのは塩柳だった。当たり前だが相変わらずでかかったし、太りもせずスタイルを維持していて、顔も当時の面影を色濃く残す、端的にいってモテそうな感じだ。ただし、額より上だけが完全に違っていた。きっと定期的に会っている人間にとっては今さら指摘することでもないのだろう、塩柳は自虐ネタにすることもなく自然にまばらな前髪をかきあげながらビールをすすっていた。首都圏の大学に進み、卒業後にUターンして今は市職員だそうだ。
 松奥は中学三年間、学年トップの成績を維持し続けた男である。手宮坂の通った中学では定期テストの成績上位者の得点は貼り出されるという慣例があり、松奥の名はその最上段に常に載り続けていた。手宮坂も得意の科目単体では肉薄した点数を取ったことが何度かあったが、松奥の上に名前が載ったことは一度もなかった。ガリ勉という印象はなく、淡泊で飄々としている雰囲気だったような気がする。ただし、当時、松奥と同じ塾に通っていた別の友人によれば、塾では明るかったらしい。
 中肉中背だった体型は現在さらに少しだけ横に伸びた感じで、仕事上の酒のつき合いでしょうがないのだ、と問われもしていないのに言い訳した。手宮坂の記憶の中の松奥より今日の松奥は雄弁だった。おそらく塾での松奥だ。茶髪のくりんくりんパーマ、個性的なメガネ。芸能事務所のマネージャーをやっているそうだ。
 船園、という女だけは手宮坂の記憶の中をいくら探してもその影すら見出すことができない。それだけ遠い日のことなのだと片付けることもできるが、一次会にいたメンバーの中でまったく記憶にないというのは船園だけなのである。ほかは皆、たとえ親しくないといっても顔を見て思い出したり、それが無理でも名前を聞けば記憶はよみがえったものである。仮に当時、祝岩が船園と交流でもあれば手宮坂も間接的にだが接点があったと思うのだけれど、それもない。どだい、誰かが持ってきていた中学の卒業アルバム、その顔写真を見てもわからなかったのだ。いかにも地味な、おとなしそうな、限りなく薄い存在感で船園はそこに写っていた。なんと手宮坂と同じクラスだった。
 今日の船園は、うって変わってかなり派手だ。ケバいというほどではないが、しっかり化粧をして、しっかりよそ行きの格好をして、しっかり女である。とはいえ学生服を着た卒業アルバムの暗い印象を大人になるまで引きずり続ける人間が、とりわけ女が、どれほどいるというのか。歳月というのはそういうものだし、社会とはそういうものだ。一次会では、そんなに喋ってはいなかったと思う。特に昔のことはひとつも。
 以上、三人と手宮坂の合わせて四人の二次会カラオケが始まる。いや、部屋では既に始まっているだろう。この四人で、はたして盛り上がることができるのか。手宮坂は真剣なまなざしで、マラカスを選んでいる。受付カウンターでに並ぶ数え切れないラインアップから最終候補に残した三種をひとつひとつ手に取り、スナップを利かせて振ってみる。しゃかしゃかしゃっ。しゃかしゃかしゃっ。しゃかしゃかしゃっ。しゃっ。……決まった、これだ。真っ白くペイントされた上から銀色で模様が描かれた、ひときわ音の大きなマラカス。さあ、パーティーの始まりだ。手宮坂はカラオケボックスの廊下を足早に突き進む。誰が何を歌っていても構わない。最近の曲でも、中学時代の曲でも、激しい曲でもなんならバラードや演歌でも構わない。絶対に盛り上げる。盛り上げたる。そして今年をきれいさっぱり忘れたる。手宮坂は力強く部屋のドアを開けた。
 ビニールのソファの真ん中に座った船園を、松奥と塩柳が両側から挟んでいる。脚を組み、けだるく、しかしうまそうに煙草を吸う船園に対し、松奥はなんとか気を引こうとチャラい感じのトークをまくしたて、もう一方の塩柳は余裕をかましながらまばらな前髪をかきあげつつ視線は船園に釘付けである。つまりは男が二人して女一人を口説くという閉じた構造が完成している。流れているのは年末に雪が降る歌。廊下と同じBGM。誰も歌っていないのである。
 入口近くに突っ立ったままで手宮坂の頭が急速冷却されていく。血走っていた白目がすうっときれいな白になる。一瞬だけ静寂が訪れた後、厚くて黒くて重い雲が嵐のように手宮坂の心を覆いつくす。雷鳴が轟き地面を叩き割る。地の底深くから腹の奥にどすんと響く。
 手宮坂はリモコンを手にとって、流れるような手つきで曲を入力する。BGMが唐突に消える。キーを原曲に。左手にマイク。右手にマラカス。モニターに曲のタイトル、作詞者、作曲者が表示されると同時にイントロ。ステレオタイプな都会の冬の風景の中を匿名顔の男女が楽しそうに歩く。息を吐いて、吸う。

   2

 舞台はステレオタイプな都会の冬のショッピングエリア。日が暮れて点灯した煌びやかなイルミネーションが街を彩っている。通りに面したショーウィンドウには流行のファッションアイテムがお洒落にディスプレイされ、道行く男女の様々な欲望を煽っている。
 タケルとミチコが腕を組んで歩いてくる。二人はそれぞれ目に欲望を宿しているが、その欲望の種類が同じものかどうかは判然としない。ミチコがショーウィンドウの中のひとつに駆け寄る。腕を引かれて、タケルは小走りについていく。ショーウィンドウの中では、マネキンが冬物のコーディネートに身を包んでいる。

ミチコ  ねえ見てタケル。このコート可愛い!
タケル  ほんとうだ。可愛いね。
ミチコ  この色、すごく好き。
タケル  うん。
ミチコ  あと、このフワフワも。
タケル  そうだね。
ミチコ  私に似合うかしら。
タケル  ミチコは何だって似合うよ。
ミチコ  うれしい〜

 二人は見つめ合い、微笑み合う。ミチコ、くるりとタケルに背を向けて独白。

ミチコ  もう! そういうことを言ってほしいんじゃないのに!

 タケルはきょとんとしてミチコの背中を見つめる。

タケル  どうしたの? ミチコ。

 ミチコはタケルに向き直る。

ミチコ  ううん、なんでもないの。うれしくて。
タケル  そう。でも、ほんとうさ。ミチコは何でも似合うもの。
ミチコ  うれしい〜

 ミチコ、タケルの腕に抱きつく。タケルはバランスを崩しかけて慌てるが、まんざらでもない顔をしている。そのまま腕を組んで二人は歩く。互いの欲望がぎらつくが、互いの欲望には気づかない。
 隣のショーウィンドウの前でミチコが急に立ち止まる。腕をつかまれているのでタケルは転びそうになるが、なんとか踏みとどまる。ショーウィンドウの中では、マネキンが冬物のコーディネートに身を包んでいる。

ミチコ  タケル、見て見て。このスカート可愛い!
タケル  ほんとうだ。可愛いね。
ミチコ  この生地、すごく好き。
タケル  うん。
ミチコ  あと、このヒラヒラも。
タケル  そうだね。
ミチコ  私に似合うかしら。
タケル  ミチコは何だって似合うよ。
ミチコ  うれしい〜

 二人は見つめ合い、微笑み合う。ミチコ、くるりとタケルに背を向けて独白。

ミチコ  もう! なんでわかってくれないのかしら!

 タケルはきょとんとしてミチコの背中を見つめる。

タケル  どうしたの? ミチコ。

 ミチコはタケルに向き直る。

ミチコ  ううん、なんでもないの。うれしくて。
タケル  そう。でも、ほんとうさ。ミチコは何でも似合うもの。
ミチコ  うれしい〜

 ミチコ、満面の笑みでタケルの胸を強く突き飛ばす。タケルはバランスを崩して転んでしまう。ミチコはそれに気づかずに、くるりと前を向いて歩き出す。
 ミチコ、独白。

ミチコ  タケルったら、やさしくて素敵だけど、な〜んか物足りないっていうか、ズレてるなって感じることがあるのよね。似合ってなかったら似合ってないってちゃんと言ってほしいし、似合ってるんだったら四の五の言わずに黙って買ってくれればいいのよ!

 ずんずん歩くミチコの反対側から、トモオが一人で歩いてくる。トモオはミチコに気づくが、ミチコは気づいていない。

トモオ  あれ、ミチコじゃん!

 ミチコ、トモオに気がついてハッとする。反射的に顔を伏せるが、まる見えである。

トモオ  どうしたの、こんなところで。今日は用事があるんじゃなかったの?
ミチコ  う、うん。そうなんだけど……
トモオ  あ! そっか、用事が意外と早く終わっちゃったんだ! そうでしょ?
ミチコ  終わった、っていうか、その……
トモオ  ほら、じゃあ、行こうよ!

 トモオはミチコの手を力強くつかんで、ミチコが歩いてきた方向へと進む。トモオの目には欲望が宿っている。ミチコは手を引かれるままにトモオに寄り添う格好になる。ミチコの目にも欲望が宿る。
 タケルは転んだまま、道に座ったままでその様子を見ている。タケルの前を通過するトモオとミチコにタケルは声をかける。

タケル  ミチコ?

 ミチコ、立ち止まる。トモオもミチコが立ち止まったことに気がついて立ち止まる。

タケル  ミチコ?
ミチコ  タケル……
トモオ  ミチコ、どうしたの? それ、誰?
タケル  ミチコ、どういうこと?
トモオ  ミチコミチコって、誰なの? おまえ。
タケル  それはこっちのセリフだよ。
トモオ  何?

 タケル、立ち上がりトモオに詰め寄る。

タケル  それはこっちのセリフだって言ってんだよ。おまえ誰だよ。
トモオ  おまえのほうが誰なんだって言ってんだよ。
タケル  おまえのほうが誰なんだって言ってんだよ。
トモオ  おまえのほうが誰なんだって言ってんだよ。
タケル  おまえのほうが誰なんだって言ってんだよ。
トモオ  ミチコ、こいつ、誰? こいつ何言ってんの?

 ミチコ、二人に背を向けて、独白。

ミチコ  どうしよう! まさか、こんなことになっちゃうなんて!

 タケル、トモオに殴りかかる。

タケル  この野郎!

 トモオ、吹っ飛び、倒れるが、すぐに立ち上がる。トモオがタケルを殴る。

トモオ  ふざけんなよ、この野郎!

 タケル、吹っ飛び、倒れる。きいている。立ち上がる。

タケル  おまえがミチコを!
トモオ  おまえがミチコを!

 タケルとトモオ、ぼこぼこに殴り合う。本気で殴り合う。ときどき蹴る。トモオが倒れ、タケルが馬乗りになって殴る。トモオがブリッジで返し、タケルに馬乗りになって殴る。互いの目には欲望がぎらついている。
 殴り合うタケルとトモオを前に為す術のないミチコは二人に背を向ける。その目には欲望がぎらついている。

ミチコ  誰か! 誰か〜

 道行く男女の欲望を煽るショーウィンドウのお洒落なディスプレイ。街を彩る煌びやかなイルミネーションが明るさを増して、やがて舞台を真っ白に飛ばす。

   3

 フミヤは通りを挟んだ反対側からその一部始終を眺めている。もはや鑑賞しているといってもいいかもしれない。怒りはとうに限界を超え、ブチ切れにブチ切れを重ねた結果として人生で最高に冷静な精神をフミヤは今、手に入れている。
 おまえは誰なんだ。おまえは誰なんだ。
 ふざけんなよこの野郎。ふざけんなよこの野郎。
 それらはもろもろ、まとめてこっちのセリフである。
 腕を組んで歩いてきたタケルとかいうあの男は論外だ。トモオとかいうあの男はどうやら用事があると言われていたようだが、それでもまだマシだ。勇気を出してミチコを誘ったフミヤに対し、ミチコは「不治の病で行けない」と言ったのだ。
 不治の病である。
 あの浮かれた足取りが、あのぎらついた目が、あの様子のどこが不治の病だというのか。そもそも遊びに行けない不治の病とは具体的にどんな病だったのか。いや、そもそも、そもそもそもそもそもそもそもそも、不治の病で行けないという理由を述べられてフミヤがどう思うかについて、フミヤがそれを信じるかどうかについて、ミチコは一秒でも想像してみたのだろうか。していないのだろう。していないのである。想像力の欠如である。フミヤに対する想像力の欠如なのである。それは、フミヤのミチコに対する想像力、ならびにその行動を追い続けようとする行動力と正反対のベクトルである。そのことをフミヤは今、通りを挟んだ反対側で、冷静な精神をもって認識している。
 かたや、マイルド風味の軟弱男。かたや、ワイルド風味の強引男。ぎらついた目をした二人の男がぐちゃぐちゃに殴り合っているのを尻目に、ぎらついた目で「誰か」を呼ぶ女。その「誰か」の中にフミヤは入っていない。女のぎらついた目に、通りの反対側、真正面にいるフミヤの姿が映っていないのは明らかだ。フミヤはマイルドでもワイルドでもない。何ルドでもない。
 タケルとトモオ、その両方を欲してしまったミチコの気持ちがフミヤにはわかる。ミチコの思考や行動に対して圧倒的な興味がつきないフミヤには容易にわかる。単に、欲しいものは欲しいのである。それが相反するものであるか類似のものであるかは不問なのだ。ミチコという女は、欲しくなってしまった以上は、どちらかだけでは満たされない。だからどちらも欲するし、実際に手に入れてしまう。それがために修羅場を招くことになろうとも構わないし、修羅場というのは客観的に、対岸から見るからそう見えるにすぎず、現場のミチコ本人からすればそこまでのものではないのかもしれない。
 そのミチコから「不治の病だから行けない」と言われたフミヤは、ミチコが欲する対象にはなっていないのである。いつからそうなってしまったのかはわからないが、最初からそうだったのかもしれないし、わからない。眼中にないのである。ここがミチコの面白いところなのだが、ミチコは眼中にないものはほんとうに眼中にない。つまり、目の前にどんなに目立つ何かがあっても、興味がなければまったく見えない。だからこそフミヤは、ミチコのことをこのような至近距離で見続けることができているのである。フミヤが望みさえすれば、朝も昼も夜も、どこへでも。
 フミヤの口の端が勝手に歪んで、にやついた表情になっているのがフミヤ自身にもわかる。体に力が、入っていないわけではないのだが力が、思い通りに入らない。意識が制御しきれない体の動きが出始めている。手の指先が細かく震えている。さっきまでは怒りで打ち震えていたものが、怒りの閾値を超過してからびたりと凪いでいた指先が、ぷるぷるぷるぷる。おえっ、おえっ、嗚咽。頬をつたった水が顎からぼたぼたと足下へ滴り落ちて、いつの間にかフミヤは水たまりの中に立っている。靴の隙間から水がしみてきて靴下を冷たく濡らす。二人の男に対する怒りではなく、一人の女に対する悲しみでもなく、その向こう側にある感情がフミヤの体を突き動かす。ただ己に対する情けなさのためだと断じるにはあまりに強く。
 だん! と足を踏む。ばちゃん! と水たまりの水が跳ねる。ゆっくり、もう一度、足を上げて、だん! と踏む。ばちゃん! と水たまりの水が大きく跳ねる。だん! ばちゃん! だん! ばちゃん! だんばちゃんだんばちゃんだんだん! ばちゃんばちゃん!
 水たまりの水がすべて跳ねてなくなってしまってから、フミヤは上げた足を前へと踏み出す。だん! 前へ。だん! 前へ。一歩一歩、前へと踏み出しながらフミヤは煌びやかなイルミネーションが彩る通りを歩く。だん! 前へ。だん! 前へ。ステップは次のステップを呼び、指先の震えは腕へ、肩へ、上半身へ、そして全身へと伝染していく。頭のてっぺんから爪先までを震わせながら、前へ、前へとステップは進む。
 フミヤの後ろに一人、また一人、地面を踏む者、手を叩く者、持っているものを打ち鳴らす者が加わる。目に欲望をぎらつかせた男女が一組、また一組、くっつきながらあるいは離れながら、横に、後ろに、つながってくる。ショーウィンドウのマネキンと同じ服装の店員たちが店から出てきて連なる。
 膨張した集団は通りの片側の歩道の幅よりさらに広がり、車道に、そして反対側の歩道にまで到達しながら進む。殴り合っている二人の男の殴るリズムが同調する。誰か、誰かと叫ぶ女の叫び声が同じリズムで覆い被さる。三人を巻き込んで、道行く男女を巻き込んで、店員を巻き込んで、犬の散歩をするおばあさんを巻き込んで、予備校帰りの受験生を巻き込んで、蕎麦屋のバイクを巻き込んで、地面を、空気を震わすリズムが大きなうねりになって進む。
 軽やかな音、太い音、様々な種類の太鼓が加わる。金属のパーカッションの音が加わる。けたたましいホイッスルをはじめとする笛の音が加わる。マラカスを手にした男がカラオケボックスから飛び出してきて加わる。リズムが旋律を生み、旋律がリズムを生み、往復運動は加速しながら渾然一体として、うねりはさらに肥大する。
 歩道、車道を含めた通りの最大幅をあふれたうねりは、細い脇道へと浸食を始める。住宅街の小径という小径を葉脈のように伸びながら家々の中から人々を引きずり出す。一目で巨乳とわかるきれいな女がコートを脱ぎ捨てセーターを脱ぎ捨て、肌を露わにして足を踏み、巨乳を震わせて進む。女が次々と服を脱ぎ捨てる。男が次々と服を脱ぎ捨てる。筋肉と脂肪が躍動する。赤の、青の、黄の、緑の、紫の羽根飾りが揺れる。押し合いへし合い、足を踏み、体を震わせ、打ち鳴らすものを打ち鳴らして進む。コンビニの店員が全員加わる。僧侶と神主がうねりの中で出会ってハイタッチを交わす。
 うねりは街全体を覆いつくしたところで拡大を止め、今度は反時計回りにぐるぐるとゆるやかな円運動を開始する。徐々に、徐々にその中心へと凝縮し、リズムは速く、旋律は激しく、うねりの中身がどんどん濃くなっていく。紙吹雪が舞い、汗が飛び散り、声を嗄らし、髪を逆立て、ホイッスルが、太鼓が、パーカッションが、マラカスが、乳という乳が、尻という尻が、老いという老いが、男が、女が、人という人が。

 十、
 九九、
 八八八、
 七七七七、
 六六六六六、
 五五五五五五、
 四四四四四四四、
 三三三三三三三三、
 二二二二二二二二二、
 一一一一一一一一一一、

 すべての色を含んだ花火が夜空を昼にして、人々を腹の底から震わせる。誰彼かまわず抱き合ってもみくちゃにキスをする。誰と彼の境目がなくなって、彼岸と此岸がひとつになって、うねりは絶頂に達する。熱気が空高く上り、雲を生み、街じゅうに白い雪を降らせる。

   ○

「今年もよろしくお願いします」手宮坂は背筋を伸ばし、餅を三つ食った。

〈了〉

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