「夏の玄関入ってすぐの」鈴木鹿(27枚)

〈文芸同人誌『突き抜け16』(2018年11月発行)収録〉

 時間は止まらないし、スケベもやってこない。腕時計の竜頭を指先でつまんで引っ張ったり押し込んだりしてみるが何も起こらない。
 だからといって下駄原の父の形見のセイコーに魔法の力が宿っていないと決めつけるのは早計だ。何も起こらないのは見渡す限り人がいないから、ということはないか。つまり仮に下駄原の目の前に都合のいい赤の他人が、言い換えれば都合よくセクシーな女性らが何人も通りがかってさえいれば、時間は止まり、スケベがやってくる可能性は否めないのではないか。
 今、下駄原の目の前に広がる風景には、人はおろか動物の姿も一切見えず、検索範囲を【生物】まで広げればなんとか遠くに葉の落ちた木々の生えているのが見えて、あとは畑の土と電柱とまばらな家と、海と空と太陽だけ。これではセイコーの魔力の有無は判断しかねる。海沿いの道路から山側に少し坂を上ったところにある一軒家の見晴らしのよい一階ベランダで、下駄原はダイニングから持ってきた木製の椅子に座っている。座面に敷かれたぺらぺらの座布団の感覚は何十年も前から変わらない。秋の終わりの昼間の日差しはじんわりと暖かく、開けたばかりの缶ビールがうまい。静かで何の音もしない。青い空を白い雲がゆっくりと流れて海にも小さな波がちらほら、風が、ああ、なんということだ、雲が流れ波が起きているということは、風が吹いているということは、時間が止まっていないではないか。缶ビールを啜ってベランダの手すりの上に置く。
 古いながらも正確に時を刻み続ける自動巻のムーブメントは竜頭を引っ張られたときだけぴたりと動きを止める。止まるのは腕時計の中の時間だけ。黒の革バンドは下駄原が譲り受けてから自分で交換したもので、とはいえもう何年も経つからすっかり新品の趣を失い左手首になじんでいる。引っ張った竜頭をぐるぐると回して、時間を進めたり、あるいは戻したりすることができないかと試してみるが、雲の流れも波のリズムも変わった様子はまったくない。適当に針を動かしているうちに正しい時刻がわからなくなってしまった。正しい時刻を確認するには家の中に入って、部屋にある時計を見なければならない。下駄原はちょっとだけ考えて、そこまでしなくてもいいと判断して、そのまま竜頭を押し込み、適当な時刻から時は再び動き出す。そもそも部屋に正しい時刻を指す時計があるのかどうか下駄原には定かではない。
 本当に海がよく見える。子供の頃はこの家から海がよく見えることをなんとも思っていなかったけれど、海というのはなかなかどうして見ていて飽きないものだ。変化があるようでないようで、その向こうに思いを馳せられそうで実のところ具体的な思いなんかなさそうで。焚火をぼんやりいつまでも見続けているのと近い心境といおうか、けれど焚火とはちょっと違うかもと思うのは、今が真っ昼間であるということと、あとはやはり火と水では、感慨の質も異なるような気がして。あとは、海が見えること自体、別段この家の特権ということもなく、この町の住人であれば概ね町のどこからでも海を見ることができるから、子供の頃の下駄原がこうして自宅のベランダにダイニングからわざわざ椅子を引っ張り出してきて座って、コーラでも飲んでみるか、なんてことは一度もなかった。当たり前といえば当たり前だ。まばらな木々と家と、どこもあらかた収穫を終えた土だけの畑と電柱と、海と空しかない、人の気配のまるでない町をぼんやり眺めて楽しむなんていう爺臭い娯楽。下駄原にしたって五十歳になってようやくである。
 いや、実際の年齢はさほど関係ないのかもしれない。五十を過ぎて時間が止まるだのスケベが起こるだの、普通に考えれば危ない男である。ただ、ここには下駄原を危ないと断じる者はいない。そのことで下駄原は体の奥のほうに眠っていた萎縮のひとつがほどけて緩んでいくような感覚をおぼえる。
 年齢なんて関係ない。
 わりかし手垢のついたそのフレーズを具体的に反芻しながら、下駄原は自分の年齢の目盛りの上を自由自在に移動できるような気がしてくる。五十等分された目盛りのどこにでも。たとえば、何か特別なことがあった日の飲み物がコーラだったような、あれは何歳の頃だったっけか。だいたいどこからでも海の見えるこの町のもっぱら坂道をあちらこちらへ縦横無尽上下左右、競い合うように走り回っていた。何を競い合っていたのかはわからないけれど確かなのは競い合うような相手がそのときはいたということだ。息を弾ませながら帰ってきた家の玄関。鍵なんかかかっていなかったはずだ。子供の腕力には重たい玄関のドアを開けて中に入ってきたときのあの暗さを下駄原は鮮明に思い出すことができる。家のつくりも今風のそれと違って窓から入ってくる光量もそれほど多くはなかったけれど、それ以上に家の外がとにかく明るくて、明るいところにずっといた子供の目が屋内に慣れるまでの、時間が止まったような空間。夏だったと思う。夏休みだったのかもしれない。たまらなく濃い黒色が時間の経過とともに薄れて、運動靴を中の砂ごと蹴飛ばして、脱げかけた靴下なんか脱ぎ散らかして、リビング、ダイニング、冷蔵庫。コーラなんか特別なときしか飲めなくて、けれど水出しの麦茶さえ冷えていれば完璧だった。テレビでは昼間の気だるい番組がいつも流れていた。妙に青っぽい色合いの映像だったように思うのだけれどあれは何かの再放送だったのだろうか、いつも、いつも、いつも。
 ああ、テレビがあった。テレビはあるな。リビングに今もある。あったはずだ。テレビをつければ正確な時刻がわかるから、腕時計は後でテレビで合わせよう。後でいい、全然いい。テレビ映るかな。さすがに映るよな、地デジ。
 今に戻りかけた年齢の目盛りを再び過去にずらしたり、今に戻してみたりする。玄関に駆けてくる前の、縦横無尽上下左右走り回った家のまわり、子供の行動半径の内側の、あの家、この家、集合住宅。今もそのままあるものなんて、きっとほとんどないのだろう。駅から自分以外に乗客のいないバスに揺られて、バス停から歩いて家までたどり着いたその道程において、かつてあったはずの同級生の家、住居兼商店、当時から既に古かった集合住宅のあった場所などは軒並み明らかな廃墟か、ただの空き地になっていた。都会ならばせめて駐車場に変貌しているところかもしれないが、車を駐める場所に困っている人はこの町にひとりもいないみたいだ。そればっかりは昔から同じだ。
 きっとこの町に下駄原の知り合いはもうひとりも住んでいないのだろう。ひょっとすると何人かはいるかもしれないけれど、その人たちが知り合いと呼んでいいレベルかどうかはわからない。故郷を離れてどれだけ経っていようが今どこに住んでいようが、かつての同級生をインターネットでたやすく見つけることができるようになったということを知識として知ってはいても、そのような行為にはまったく興味が湧かなかったし、逆に誰かによって発見されるようなこともなかった。積極的にではないにせよ結果的に、故郷を捨てたという明確な自覚が下駄原にはある。自分が捨てた故郷に、自分と浅からぬ関係があった人間が今も生きている、そして同じ五十歳になっているという想像が下駄原にはどうしてもできない。もしそんな人が実際にはいて、ばったり出会ってしまったりしたら下駄原はどうすればいいのだろう。そのときは時間を止めてしまおうか。
 海を眺める。見飽きないとは思ったけれど実際には見飽きるんだと思う。一時間か、もって二時間、尿意に中断されるのがせいぜい潮時だろう。この海だけは何も変わっていないと確信できる数少ないもののひとつだ。海と、空と、あとはなんだ。尿意か。いいや、尿意は変わった。随分と近くなったはずだ。幸いまだ下駄原の股間までは到着していないようだから、今のところベランダの椅子から立ち上がらずに済みそうである。
 温泉旅館のあのスペースみたいだ、と下駄原は思う。畳敷きの和室の客室に入って奥の窓際にある細長い板の間の上に小さな座卓を挟んで向かい合うように椅子が二脚置かれた、何と呼べばよいのだあのスペースのことを。湯上がりの火照った体を冷ますのに窓を開けて、煙草なんか吸って。そうだあの頃は煙草を吸っていた。あの頃って、今、下駄原が思い出しているのは二十代の頃だ。座卓を挟んで向かい合う椅子には、その後しばらくして妻になる恋人が座っていて、旅館に備え付けの小さなコップに缶ビールを注いで飲んでいる。
 煙草を吸いたいような気分になるがもう何年吸っていないのかもわからないし、煙草を売っているコンビニはバス通りまで歩いてそのさらに向こうまで行かなければならない。やっぱり車は要るかもしれないと下駄原は思う。スクーターか電動自転車でもいいのだけれど冬には雪が積もって乗れなくなってしまうから、軽でもいいから四駆の車がいい。母は車もなくてどうしていたのだろう。配達サービスと通販と、それだけで本当になんとかなっていたのだろうか。
 母。ああ、家の中を探せばもしかしたら、どこかに母の煙草があるかもしれない。あるとすればどこだろう、台所か、あるいはリビングのサイドボードの引き出しの中か。煙草の置き場として思い当たるのはそれぐらいだから後で探してみようか、でも、そこまでして吸いたいこともないし、仮に見つかったとして何年前の煙草なんだという話で。だからやっぱり煙草は要らない。そもそもまだここから立ち上がりたくない。遠くに見える海水みたいにゆらゆらちゃぷちゃぷしていたい。
 二十代、二十いくつだったのかは忘れてしまったけれど結婚していないということは二十七より若い頃のいつかだ。何度か温泉旅館に行っている。下駄原の記憶として再生された旅館のあのスペースはいつ、どこでのものだろう。仲間みんなでのときが多かったけれど彼女とふたりきりのときもあったし、仲間みんなで行ったけど部屋が彼女とふたりきりだったのかもしれない。
 仲間。下駄原にとってそれはつまり同期入社の同僚を中心とした集団を意味する。会社全体でいえば百人前後の新入社員がいる中でさらに最初の配属先が同じだった者たち十名ほどがコアメンバーとなり、日が経つにつれてそれぞれの親しい者が数名、自然と合流したような、どこまでがメンバーか曖昧なグループ。男女がだいたい半々で、ときどき仕事終わりに飲み会があって、飲み会といっても誰かがきっちり仕切っているのではなくてだらだらと合流して気づけばみんないるようなタイプのやつ。で、夏の連休にはキャンプとかあって、その流れで冬は温泉でも行こうかなんつって、それ。それだ。
 全員二十代だった。話すことはいくらでもあった。仕事の愚痴、上司や先輩や取引先の悪口もあるにはあったし、もっとポジティブな、将来の夢とか野望とか、そんなこともたくさん話したと思う。けれどいちばん多かったのはたぶん、その場限りのじゃれ合いだ。その時間、その場所、その文脈でしか息のできないような無意味な言葉の羅列と応酬だ。会話は続けようと思えば無限に続けられそうだった。時間と場所と文脈を共有し続けているただそのことだけが下駄原たちにとって重要だった。あれだけ大量の言葉を交わし合ったはずなのにワンフレーズたりとも記憶に残っていないのがその証左であろう。
 誰から何を言われたかも自分が何を言ったかもおぼえていない中で、なんとなくはっきりと、そのときの気分だけを下駄原はおぼえている。この中にいる誰よりも自分は偉くなるのだろうなという漠然とした気分である。
 下駄原はギラギラした若手ビジネスマンだったわけではない。少なくともそのような自覚は微塵もない。下駄原より上の世代の人たちに比べて同年代にそのような人間は、いないとはいわないが多くなかった。それなりのやりがいとそれなりの達成感が最良とされる空気があったし、その空気を下駄原は肯定的に受け入れていた。周囲を蹴落としてまで上に行く、みたいなメンタリティの存在を知ってはいたが、そういうのはマジ無理だと思っていた。もしかしたら周囲のみんなも同じように思っていて、だからこそ、それなり礼賛のアトモスフィアが形成されていたのかもしれない。空気と意識、どちらが先かはわからないし、今さら遡って検証することもできない。
 ただ、その空気を吸って吐いてしながら下駄原は、この中の誰よりもいつか偉くなる、きっとなる、というか、なりたいと思っていた。そのことだけははっきりとおぼえている。どうしてそう思ったのか理由まではわからない。というか、偉くなるって具体的にどういうことを指していたのか。収入のことか、仕事の立場の上下のことか、成し遂げる仕事の大きさのことか、有名になるとかそういうことか、あるいはやはりその当時もてはやされ始めていた、生活の質的な意味での格上感についてだろうか。何をもって偉いと考えていたのか。深くは考えていなかったのか。そうかもしれない。きっとそうだろう。
 仕事は楽しかったけれど、当時の楽しさを仕事のことだけ切り分けて考えるのは難しい。毎日が楽しかった。故郷で過ごした十代までとは雲泥の差といってもよかった。朝起きて自宅を出て仕事をして酒を飲んで帰宅しての繰り返し。月に一回お金が振り込まれて自分の好きなことに使える。十代までの自分が想像していたよりもずっと都会は静かで、平和で、やさしくて、下駄原はあからさまに充実していた。体力もあったし時間は無限にあると信じて疑わなかった。不安がなかった。静かで平和でやさしい摩擦が下駄原に生きている実感を与えていた。緊張と弛緩のルーティンとしての都市生活とレジャー。自家用車を所有していることなんてださい世代のレンタカー。
 温泉旅館のあのスペースで座卓を挟んで向かい合う彼女は本当は煙草が好きではなくて、けれど下駄原が煙草を吸うときも嫌な顔はしない。小さなコップでビールを飲みながら窓から流れ込んでくる夜気に身をさらして、下駄原は煙草の火を消して、もうひとつのコップに缶ビールを分けてもらって飲んだ。
 同期入社で仲間のひとりだった彼女といつからそういう仲になったのか、具体的な日付や、具体的な言葉、具体的な行動を思い出すことが下駄原にはできない。それは何十年も経った今だからではなくて、その当時から思い出すことができなかった。事に及んだ日、事に及んだ夜、たぶん夜、事に及んだ瞬間は確実にあったはずなのに、意味の稀薄な日々の空気にまみれて瞬時にうやむやになってしまった。
 けれどその空気にお互いよくなじんでいたからだろうか、ふたりで過ごす時間は下駄原にはとても心地よくて、なんとなくといってはあれだけれども結婚することになるのである。することになる、じゃない、することにした。これに関しては、自らした。流されていたことは否めないけれど、自発的にしたのだ。誰に問われるでもなく繰り返し強調したくなるのは、それだけ大変だったという思いがあり、その思いを自ら否定することに抵抗があるからだ。すると決めたらいろいろと準備があった。そのへんのやるやらないも含めてお互いに了解したうえでの決定だったけれど、金も手間もかかった。それが二十七歳のとき。
 この家にも何度も来た。結婚前の挨拶のときもそうだし、結婚後も年に一度は、盆か暮れか正月か、その年の休みの具合によって違ったけれど、はるばる公共交通機関を乗り継いで来た。ふたりで来るのがやがて三人になって、それからは年に二度や三度来る年もあったかもしれない。
 下駄原一家が寝泊まりする部屋はいつも客間だった。家の一階、玄関入ってリビングの隣にある、普段は誰も使っていない和室。稀に遠方の親戚がやってきた際などはこの部屋に客用の布団が敷かれていたものだが、そんなことは本当にごく稀で、基本的には何もない部屋。広さでいえばリビングのほうが広いわけだが遮る家具が何もなくてがらんとしていたから子供の頃はよくこの部屋で跳んだり跳ねたりして遊んでいたものだ。幼い自分の子供が同じく畳の上で跳んだり跳ねたりしているのを見ながら感慨にふけったりもした。
 下駄原の部屋、正しくはかつて下駄原の部屋としてあてがわれていた部屋もあった。下駄原が出て行った後もそのままになっていた。だから本当はその部屋に寝泊まりしてもよかったのだけれど、元々狭いうえ、シングルベッドと学習机と箪笥と本棚でほぼ埋まっているような状態である。男子ひとりが寝泊まりするのならまだしも、妻子を連れてではなかなかに厳しい。階段を上って二階の海側。このベランダの真上にある部屋。基本的には帰省してきたら客間に直行、荷物も客間に置いていたし、一休みするのも客間と隣のリビングで、よほどわざわざ用がなければ自分の部屋には入らずに帰省が終わることのほうが多かったと思う。帰省、とか、帰ってきたとか言ってはいたけれど、客間に寝泊まりしていた自分たちは、この家にとっていったい何だったのだろう。下駄原が帰省の期間を終えて再びこの家を出るときに「帰る」と言い始めたのは、いつ頃からのことだったろう。
 今、客間には子供の頃にはなかった立派な仏壇がある。両親がこの家を建てる際、稼働率の著しく低い客間のような部屋をなぜ設けたのか幼い自分には想像もつかなかったのであるが、おそらくいつか仏壇の置き場になるだろうということも想定していたに違いない。それぐらい、仏壇は客間の片隅にちょうどよくなじんでいる。その横には下駄原のスーツケースとショルダーバッグ。なにも客間に置く必要はなかったのだけれど、つい自然な流れでそこに置いてしまった。とりあえず当面は、スーツケースを置いたその場所が下駄原の拠点になるのだろう。そう短くはない会社員生活で培った出張パッキング術でまとめた、当面の着替えと当面の生活用品にぬかりはない。もちろん、ぬかりがあったら買いに出かければよろしい。ああ、ショルダーバッグに携帯電話を入れたままだ。急ぎの連絡など入るわけがないので、このままで構わない。
 結局最後まで自分の住まいを手に入れることがなかったのは、持ち家か賃貸かというよくある二項対立を考え抜いた結果などではまったくなくて、単に自分の居場所を自分で定めることができなかったということだ。二十代でつるみ倒した仲間たちはそれぞれに新しい家族を形成したり、新しいキャリアを形成したりするなどして自然と疎遠になり、それでも会社に残っている人間であれば日々の会社員生活の中で直接会いもすれば間接的に近況を知ったりする機会もあるし、会社を去った人間のことも、ひょんなことから知ったり知らなかったり。つまりはつかず離れず毒にも薬にもならないほどよい距離感で下駄原たちはつながりを弱め続けたのであった。その誰よりもいつか偉くなる、きっとなる、なりたいと思っていた下駄原の三十代、四十代。五十等分の目盛りの上を行きつ戻りつ意識の記憶をスキャンする。働き方と生き方の多様性が下駄原たちを飲み込んでいた頃、具体的な偉さを見つけることも決めきることもできないまま、そのくせたいして悩みもせずに、野望ともいえない妄想はただただ萎んで見えないほど小さくなって、小さくなったにもかかわらず鈍い重みだけがどんどん増していったのだった。
 飲み会は自宅の晩酌に変わって、人間関係の仕入れは子供を介した間接的なものに置き換わっていった。妻子と過ごす時間は率直に幸せだった。嘘偽りない気持ちだと信じることができた。ずっと家族で過ごせたらどんなに素晴らしいことだろうと願ってやまなかった。三人で共有している時間と場所と文脈が最高に尊いと思っていた。だからこそ、それを具体的なかたちにすべきだったのかもしれない。もちろん家を建てさえすればよかった、マンションを買いさえすればよかったということにはならないのだけれど。
 この家が建ったときのことを下駄原はおぼえている。下駄原が小学生になるタイミングで両親はこの家を建てたのだ。下駄原は嬉しかった。それまでのアパートにはなかった自分の部屋がもらえるという予告が下駄原の表面的な嬉しさの大部分を占めていたけれど、とにかく嬉しそうな父と母に巻き込まれるようなかたちで、いっしょになって嬉しくなっていたような気もする。だから下駄原は、この家を、古い家だとはまだ思えない。冷静に数え上げれば築四十年を超えている木造一戸建てというわけでなかなか年季が入った住宅であることに違いはないのだが、それでも、いまだに新築の匂いが漂ってくるような気さえしてくる。
 結果として自分で住まいを買わずによかったとは思わない。そのように納得できるほどの器用さは下駄原にはない。
 どうして妻子と離別することになってしまったのか、そのきっかけとなった一言を下駄原はどうしても思い出すことができない。こんなに大切なことをどうして記憶していないのか下駄原自身も驚くよりほかない。口火は些細な口論だったはずなのだ。そして、何か自分の言葉が妻の逆鱗に触れたのだ。そのことはわかるし、そこから後に大変な思いをしたことはまだ記憶にも新しいのだが、肝心の発言が何だったのかを下駄原は本当に忘れてしまった。そもそも、その発言を特定したところで今さら何が起こるわけでもなく、流れの中で自然とそうなったのだと理解しておくことで今後の下駄原の生活に支障はまったくない。
 ただ、あえて検証しておきたいとすれば、本当に下駄原のその一言、その一言だけのせいだったのかどうか、という点についてである。下駄原がまるでおぼえていないほど、その一言それ自体は実のところどうでもいい言葉であり、それに対して妻が激昂したというのはつまり、そこに至るまでの知られざる蓄積が、下駄原はもちろんひょっとしたら妻自身すら意識したことのない積み重ねがあったのではないか。そう考えたほうが俄然リアリティを帯びるのだ。あったとすればそれはいったいどういうものだったのか。蓋を開けてみれば空気しかなかった数十年の時間と空間と文脈の、けれどたとえ空気でさえも、積み重ねれば負の質量を有するとでもいうのだろうか。
 堂々めぐりの何にもならないリアリティ。すべては決着済みであり、常識的な金額の資産を下駄原は失い、下駄原は自らの五十年にぽっかりと空いた風穴を埋める努力をすることなく、穴を形成するまわりの骨肉をすべて取っ払うことで、穴を穴でなくする方法を選んだ。海はかつて荒れたことなど一度もなかったかのような穏やかさ。
 五十等分された目盛りのどこにでも移動することができたとしてもそれはすべて下駄原がこれまで進んできた日に戻ることでしかなくて、今、下駄原が座っているこの現在地の先には何等分の目盛りがあるのか下駄原にはまるでわからない。そんなもの誰もわからないのは知っている。それがわかるならいくらなんでもイージー過ぎて、きっと十代の下駄原でさえこの町を出ることをしなかっただろう。
 この町を出なかったら。というか、下駄原はこの町を出なかったということにすればどうだろう。さすがに荒唐無稽な思いつきに鼻息笑いが漏れるが否定する者は誰もいない。空中にそっと浮かべたアイディアはむくむくと夏の雲のように厚みを増して膨らんでいく。
 今、下駄原が座っているこの現在地は、この町を出なくとも座ることのできた現在地だ。それなりの空気の積み重ねで有限の目盛りを食いつぶし、心身は衰え、目はかすみ、目盛りの先はぼやけて見えず、今、積み重ねてきたすべての清算を終えた下駄原の体はあまりにも軽くて、強くなってきた海風に吹かれてベランダから飛んでいってしまいそうになる。セイコーの竜頭を摘む。
 一切の摩擦が起きそうにないこの町で、まずは失われた自分の暮らしをかたちづくらなければならない。やはり足が欲しいが車は予算的に難しいだろうか。子供の頃にあったあの自転車屋はまだあるのだろうか。きのうの夜中に見たインターネットの記事によれば、今、パリでは電動のキックスケーターのシェアリングが流行しているんだそうだ。何だそれは、だからどうした、この町からパリはあまりにも遠すぎて、知る意味がまるでない。どちらにせよまずは自前の足で歩き回ってみなければ始まらない。スニーカーぐらいは新調したいな。運動靴ではなくスニーカー。中に砂なんか入らないやつを。
 この竜頭、自分の乳首と同じサイズではないかと下駄原は気づく。直径といい高さといい、確かめはしないが間違いない。半世紀に及ぶ人生で最も無駄な気づきである。形見の腕時計に対する息子の感慨がそれではおそらく亡き父も浮かばれまい。下駄原は父が亡くなったときの年齢を、来月には追い越してしまう。
 太陽が家の裏側に回って日陰になったベランダで晩秋の風に冷やされた体を震わせる。少しだけ残った缶ビールを無理して飲みきらない。家の中に入ろう。お湯を沸かして熱い茶でも淹れよう。ゆっくり飲んで体を中から温めて、トイレに行って、そうしたら二階に上がってかつての自室を片付けよう。そこに何があるのかわからないけれど、何があるのか見もせずにすべて捨ててしまってもいい。学習机も本棚もシングルベッドもすべて放り出して、空っぽにしてぴかぴかに掃除して、部屋の真ん中に座ってもう一度はじめから考えよう。母が世界一周クルーズから帰ってくるまでに最低でもそこまでは終わらせておこう。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?