「性格の不意打ち」鈴木鹿(27枚)

〈文芸同人誌『突き抜け15』(2018年5月発行)収録〉

 惰性のインターネットをバンドの解散ニュースが流れていく。とはいえ知らないバンドだから残念だということもないし、もちろん喜ばしいわけもない。知らないメンバーから成る知らないバンド。どんな音楽を鳴らしていたのか、もしかしたらテレビかラジオで耳にしたこともあったのかもしれない、けれど解散したからといって既に録音されて世に出たその音楽が消えることはないから、夏戸田にとってはまったく影響ない。
 つまりまったくもってどうでもいいそんなニュースを深夜のノートパソコンの画面の中で何度も何度もスクロールしては夏戸田の目がその上をつるつるつるつる滑っているのは、ひとつにはそのニュースが「活動休止」でも「無期限活動休止」でも「メンバー脱退」でも「卒業」でもなく、ずばり「解散」であり、その清々しさ、取り返しのつかなさ、不可逆性がきょうび珍しく感じたからである。もうひとつには、夏戸田がついさっきプロポーズを終えたばかりだということが影響していると思われる。
 隣の部屋のベッドでは恋人が眠っている。既に眠っているはずである。と思う。もう眠っているのかなといったあたりでそうっとベッドを脱け出たときに声をかけられた気がしたけれど、ちょっとだけ仕事があって、と、もにょもにょ言ってきた夏戸田であった。恋人の言葉も不明瞭だったから半分寝ていたのかもしれない。いずれにしても隣の部屋にいるから、本当は眠っているかどうかはわからない。仕事のふりをして隣の部屋に来てパソコンを開いてはみたけれど結局やっているのは惰性のインターネットである。
 いつもと同じ日曜。いつもと同じように夏戸田の独り暮らしのアパートの部屋で過ごして、いつもと同じく台所にふたりで立ってつくった晩ごはんを食べながら、酒を飲みながら、ふたりほどよく酔っ払って、夏戸田は結婚を申し込み、恋人はそれを受諾したのであった。ああ、ということは恋人は、これでもう恋人ではないのかもしれない。隣の部屋のベッドで眠っている、眠っているかもしれない人は、婚約者。
 口頭で申し込み、口頭で受諾された、口約束の婚約者。書面を交わさなかったとしても、こういった契約は口頭だけで成立するのだとテレビかなにかの法律相談で見たことがある。というわけだから、法的にも正しい婚約者ということになるだろう。いつもの日曜に突然、自分のアパートで婚約者が眠っている。そのなんとも不思議な感じを消化しきれないままで「解散」の文字を何度も何度も眺めているが、不思議な感じは消えもしなければ膨張もせずに、じっとパソコンの前に留まっている。
 パソコンを消して真っ暗になった部屋で、椅子に座ったままで、真っ暗な虚空をぼうっと見つめようとしてみる。当然ながらなにも見えない。見えないからこそ見えてきそうななにか、みたいなものも見えてこない。今日という日が一生の記念になる日になるのか、一生記憶に残る日になるのか、今のところ夏戸田には判断がつかない。常温のままで変化が起きてしまっては、なんの痕跡も残らないのではないか。自分で、意識的に、なにかに記録でもしておかなければ。机上の灯りだけをつけて通勤バッグから手帳を取り出し今週のページを開いてみるけれど、空白のままの今日の枠内を見るだけでなにも書かない。ぱたんと閉じてバッグにしまう。かたちだけは仕事をした風になったな、と思う。
 机上の灯りを消して寝室に戻り、そうっとベッドに潜り込む。婚約者のいびきも寝息も聞こえない。話しかけてもこない。どちらを向いて寝ているのかもよく見えない。夏戸田は仰向けになって目を閉じる。暗いところで目を閉じても暗さは全然変わらない。バンドの解散の理由はどこにも書かれていなかった。昔はよく「音楽性の違い」みたいなフレーズが使われた気がするのだけれど、今はどうなんだろう。もはやそのバンドの名も思い出せないと思ったところで、すとんと眠くなってそのまま月曜の朝が来る。
 いつものように恋人と、ではなく婚約者と一緒に起きて朝食を摂り、それぞれにシャワーを浴びて身支度を済ませたら夏戸田のほうが先にアパートを出る。夏戸田のほうが婚約者よりも三十分ぶん遠い職場へと出勤する。婚約者はいつものように自分のぶんだけコーヒーをハンドドリップしながら夏戸田を見送る。その後、婚約者がどのように過ごしているのかを夏戸田は知らない。三十分もしないうちにアパートを出ているはずだし、それまでにコーヒーを飲んではいると思う。コーヒーを飲み終わったマグカップを洗ってもいる。わかっているのはそれだけである。
 夏戸田は最寄り駅の最寄り改札口を通過して地下鉄に乗り込む。座ることができないのは当たり前の時間帯であるが満員電車というほどでもない。稀に目の前の座席が空けば座ることもあるけれど、目の前の座席が空いても座る気が起きない今朝のようなときは、空席から体半分ほどずれて立つことで座る意志がないことを言外に匂わせながら他の目ざとい乗客が座るのを待つ。一定の呼吸を保ちながら疲れることなく職場の最寄り駅に着く。地下鉄を降りて改札を通過して、駅を出てすぐのビルに入る。高層階に勤める人々で混み合うエレベーターを避けて階段で四階まで上る。
 月曜朝の定例ミーティングには課長と手西と足南、そして新人の清村が、いつもの会議室のテーブルのいつもの席に座っている。夏戸田が最後にいつもの席に座って、それでもまだ予定開始時刻には少し余分な時間があり、いつものような雑談からミーティングが始まる。雑談の内容はたいてい週末にしていたこと、見てきたもの、話題となったニュースのことなど。なんでもいいし、だれが話してもいい。突出しておしゃべりな者も無口な者もここにはいない。部下からの上司に対する過度なおべっかも、上司から部下に対するパワハラもない。あるのは他人に対する最低限の節度だけである。
 夏戸田はこの週末にあったことを思い出そうとするが、日曜の夜、の以前になにがあったのかを思い出すことができない。いつものようにふたりで過ごした、ということはわかっているのだけれど、いつものようにということがわかっているだけであり、いつものように過ごしたというだけでは雑談の話題にはならない。それで具体的になにをしていたのかを思い出そうとするのだが、なぜだかそこには晴れそうで晴れない薄い靄がかかっていて、一向に行動の輪郭が浮かび上がってこないのである。
 仕方なく、ふと、日曜の夜のこと、たった半日前のことを、話してみようかということを思い立つ。ここにいる、課長には妻がいて、手西にも妻がいて、足南にも夫がいて、新人の清村には夫はいないが彼氏はいる。過半数が結婚しており、独身でもフリーという者はひとりもいない。さて、この場ではたして夏戸田は、昨晩の夜のことを話すべきなのだろうか。
 結婚を申し込まれたという話題ならまだ自ら話題にするのもわかる。話題にされたとき、こちらがなんと返せばいいのか、なんとなく想像がつくということである。しかし、たとえ形式的なものであれ、自分のほうから結婚を申し込んだという立場の者が、自らそれを発表するというのは、夏戸田にはどうにもしっくりこないのである。
 祝福されたいわけでもない。共感されたいわけでもない。非難はもちろん受け付けないし、万が一非難囂々だったとしても撤回するようなものでもない。ただニュートラルに報告するだけ。報告? なぜ、なんのために。結婚したというのならまだしも、プロポーズしたこと、婚約が口約束で成立したということ。そのニュースはだれにとって聞く価値があるものなのか。今、目の前にいるこの上司・同僚・部下にとって。いくら職場で平日毎日顔を合わせているといってもそれだけの関係である。
 婚約者のほうは、今日、職場で昨晩のことを話すのだろうか。既に話しているのだろうか。
 定例ミーティングの開始時刻が過ぎて、ミーティングの本番が始まる。雑ではない談は月曜の朝の薄い空気の中でうっすらと死んでいる。夏戸田の思いつきはゆらゆらと海の底の暗いところに沈んで見えなくなる。
 仕事を終えて地下鉄に乗りアパートに帰る。暗い部屋の電灯をつけて開けっ放しのカーテンを閉め、スーツからスウェットに着替えてから台所に立つ。水切り籠にはマグカップが伏せて置いてある。いつもの月曜の夜。いつもの平日の夜。冷蔵庫にある週末の食事の残り物で適当に晩ごはんをつくり続ける五日間。缶ビールを開けて飲みながら、自分のアパートに帰宅している婚約者のことをちらちらと思い出しながら、特に用事もなく連絡などを取り合うことなく、いつものようにひとりでゆっくり過ごしてから、眠る。

   ◆

 金曜の夜に駅前で婚約者と待ち合わせて週末が始まる。何度か来たことのあるバル的な居酒屋で食事。アヒージョに付帯するおかわり自由のバゲットで腹を膨らし、ほどよく酒に酔いながら夏戸田のアパートに帰り、酔っているので最低限の適当な身支度だけをして床に就く。これが二十代の頃なら金曜の夜なんてここからまだまだ続くものだったし、映画を何本も観たりだとかマンガの一気読みをしたりだとか、そもそもアパートに帰ってくることすらしなかったかもしれない。けれど夏戸田も婚約者も三十代の半ばも過ぎて、髪だって染めなければ白髪も出ちゃうお年頃である。月火水木金の疲れをためたところに満腹でなおかつ酒も飲めば、眠い。ただただ眠い。なにもせず、なにも起こらずに、自然な合意のうえで眠る。
 ゆっくり起きるといっても昼を過ぎるということはない。どちらからともなく起きてしまう。簡単な朝食を済ませて買い物に出る。徒歩で最寄りの駅前にある商店街に行くパターンと、そこから地下鉄に乗って街に出るパターンがあるが、買いたい服もなければ行きたいイベントもない今日はなんとなく駅前のパターンになる。肉屋、魚屋、八百屋、惣菜屋、酒屋を冷やかしつつ、駅ビル直結のスーパーマーケットで一通りのものを買うのがお決まりのパターンである。なんだかんだまとめて買えたほうが楽だし、クレジットカードが使えて便利だからである。生鮮食料品をなんとなく眺めながら、自分たちが食べたいものになんとなく向き合い、土曜と日曜の夜の献立をなんとなく決めて、値段をあまり気にせずにぽんぽんと買い物カゴへ放り込んでいく。
 ふと、たとえば、この買い物も、値段をシビアに気にするようになるのだろうか、ということを夏戸田は思う。自分が、あるいは婚約者が、朝の新聞の折込チラシを目を皿のようにして見比べながら最も安い国産鶏胸肉を売るスーパーへ、たとえ遠くなったとしても自転車を飛ばすなどして買いに行くようになるのだろうか。そのために今は購読していない新聞をとり、今は所有していない自転車を買うのだろうか。夏戸田の想像はこのへんで打ち止めとなり、それ以上の具体的な像を結ぶことができない。
 スーパーの冷蔵ロッカーに買った物を入れ、昼前の駅前のドーナツ屋でドーナツじゃないランチ。コーヒーを二杯ずつおかわりして、店内が混み始める前に出る。冷蔵ロッカーから回収したエコバッグふたつ、夏戸田と婚約者がひとつずつ持って、歩いて夏戸田のアパートに帰る。
 ふたりでそれぞれマンガを読む。そのうち婚約者がジョギングに出かける。着替えて、軽いストレッチをして、アパートを出て、帰ってきて、シャワーを浴びて、再び身支度が完了するまでおよそ二時間弱。そのあいだ夏戸田は、ちょっと影響されてストレッチなどをするぐらいにしつつ、ひきつづきマンガに没頭している。いつの間にか部屋が薄暗くなっていたことに、婚約者が電灯のスイッチを入れたことで気がついて、ふたりで晩ごはんの準備。煮魚を好きになるなんて、子供の頃はまるで想像しなかった、との合意を確認しながら煮魚。ちょっと前に買ったばかりの、少量の米をおいしく炊くことのできる保温できない電気釜でごはん。昨晩のうちに用意してあった冷蔵庫の中の水出汁で味噌汁。スーパーで買ってきた漬物。何年も前にふたりで行った旅行先のお土産の箸。ランチョンマット二枚。
 酒をほろほろ飲んで、映画をだらだら観ているうちに婚約者はソファで寝落ち。夏戸田はシャワーを浴びて、ダイレクトにパジャマに着替えて、婚約者を起こしてパジャマに着替えさせて、ベッドで眠る。
 日曜日もだいたいそんな感じで終わる。
 月曜の朝の定例ミーティングで今週はまるで暇だということがわかり、それとなく堆積していた不要な書類の処分やデスク周りの整頓、パソコンのデータの整理などに着手しようと思い立ち、やけに集中してそれらをやったら月曜の定時きっかりに終えてしまって、翌日からすることがなくなってしまったがひとまず帰宅するよりほかはない。課長・同僚・部下に挨拶して退勤。ビルの四階から一階まで階段で下りて外に出るとオフィスの中に比べて外はまだまだ明るくて、雲ひとつない夏の夕暮れの空を見上げた夏戸田は、自分が手ぶらであるということを自覚する。最近、通勤バッグを手持ちものからビジネスリュックに変えたことも影響しているかもしれないが、決してそれだけではないなにかが夏戸田の中にひらめいて、つい、地下鉄駅とは逆方向に足を向け、夏戸田がひとりでふらりと入れる唯一の店に入る。
 カウンターだけの店内にはまだ早い時間のためか予想通り夏戸田以外に客はおらず、マスターも緩みきった表情でタバコを吸っている。マスターが緩みきった表情なのはいつものことである。どんなにひどく久しぶりだったとしてもマスターはいつもと変わらない調子で、久しぶり、と声をかけてくれる。今よりもっと若いうちは、今ぐらいの年齢になる頃には行きつけと呼べる店が街のあちこちに何軒もできるものだと思っていたけれど、自ら開拓するでもなく上司や先輩などと積極的に交流するでもなく、自宅アパートと職場の往復、特定の人としか会わない週末を繰り返していれば、行きつけが一軒あるだけでも上出来といえるだろう。
 マスターと適当な挨拶を交わし、ビールとピクルスを出してもらって、なんとはなしに会話をしていると、これもいつものようにマスターが、最近なにか変わったことはあるかと質問を投げかけてくれるので、夏戸田は素直に、唯一のなにか変わったことである、プロポーズの件を報告する。マスターは小さく驚き、声を上ずらせ、その成功を祝福してくれる。夏戸田は礼を言い、初めて少し照れる。
 で。とマスターは切り出す。この後は、具体的にどのような段取りになるのかを夏戸田に問う。指輪。両親や親戚への挨拶。式の有無。そもそも、いつ書類を提出するのかについて。それらの段取りの必要性について夏戸田も知らないわけではないが、自分ひとりで決めるものでもないと思っており、結果的にすべて未定どころか話し合うことを始めてすらいないことを夏戸田は正直に答える。それはよくない。よくないですか。一週間だろ。一週間です。やっぱりよくないな。よくないですか。マスターはたしか結婚していて、以前はよく奥さんとふたりで店に立っていたこともあるはずだが、それも随分以前のことだし最近はとんと姿を見ない。今どういうことになっているのか夏戸田は知らないし、確認する気もないけれど、それがどっちにしたってなんだか、マスターの言うことには根拠は見いだせなくとも説得力があるのであった。熱々のジャンバラヤを頬ばって冷たいビールを流し込む。飲み込む。若い女性の三人組が店に入ってきたのをきっかけに店を出る。まだ真っ暗ではない空の下を地下鉄に乗って帰る。帰り道、コンビニで『ゼクシィ』でも買っていこうかと思ったが、もしかして婚約者が既に買っているのではないか、買ってアパートにさり気なく置いてあるのではないか、という思いがよぎって、買わずに帰る。
 夏戸田のアパートのリビングの、いつも婚約者が買った雑誌や本が積んである一角を確認する。何冊かの雑誌が積まれているがゼクシィは一冊もない。念のためソファとダイニングテーブル、ダイニングテーブルの天板に隠れたダイニングチェアの座面の上も確認したが、見あたらない。ゼクシィがないと結婚できない。昔、テレビCMで連呼されていたフレーズを反芻する。広告キャッチフレーズとして、そう言いたいのはわかる。登場人物の一人称的な叫びとしてのそれは、わからないではない。ただ、この文章だけを淡々と眺めると、ただの嘘である。ゼクシィがなくても結婚できるし、ゼクシィがあっても結婚できない人もいるのだ。その点でいえば、最近のゼクシィのCMでは、結婚しなくても幸せになれるこの時代に、などというキャッチフレーズが使われているのだと、インターネットで話題になっていたのを夏戸田は思い出す。CMは見ていないのでそれ以上のことを深掘りはできないが、つまりはまあ、できるとか、できないとかじゃないんだ、やるかやらないかだ、みたいなことかな。
 ノートパソコンを開いて、職場のスケジューラにログインし、今週の予定を書き加えた後に課長と同僚と部下にメールを打つ。いちど台所に立って冷たい水を飲んでから、ほろ酔いの脳と指先がクレジットカードの番号を間違えて打ち込まないように、慎重に、数回打ち込む。目覚まし時計をいつもより三十分遅くかけ直して床に就く。

   ◆

 まるで初夏のような北海道の空気は北海道にしたら真夏であるのだろう。少なくともカレンダー的にはそうだ。空港に降り立ち、空港のビルで朝昼兼用のスープカレーを平らげ、そこから快速列車に乗って三十分ちょっと。札幌駅から徒歩数分の、北海道大学の敷地へと入る。
 大学構内は多くの学生らしき人々が通行しているので、夏休みにはまだ早いのかもしれないが、ひょっとするとテスト期間ではあるかもしれない。人は多いのだが、なんせ敷地が広大、道も広大であり、一見して人口密度が非常に低い。立ってポーズを取るクラーク博士像はここにはいない。市内のどこかにいるらしい。
 広々とした芝生に寝転がってのんびりしている人々もいて、夏戸田もそれにならい、既に寝転がっている人々と充分な距離を確保したうえでひとり寝転がってみる。背負ってきたビジネスリュックを枕にして、大の字になると、腕と手の甲に芝生がくすぐったい。ごそごそと両足を擦り合わせるようにしてスニーカーを脱ぎ捨てる。靴下の上から芝生がちくちくする。健康になりそうな刺激である。どこからか炭火でなにかを焼いているらしいにおいがする。
 目の前に広がる大きな木の枝葉の向こうにさらに大きく広がっている青空は、夏戸田がきのう職場を出て見上げた空と同じである。空間的につながっているという意味だけでなく、時間的にもつながっているという実感がある。夏戸田の通っていた大学にはこのような時間があっただろうか。あったかもしれないし、なかったかもしれないし、こういう時間だけがずっと続いていたといえるのかもしれない。二十年近く前のことでいずれにしても自信がない。
 うーんと四肢を伸ばしてから立ち上がって、ビジネスリュックを背負い芝生から道へと戻る。このまま大学構内を一周でもしてみようと思い立つが、真っ直ぐに伸びる道の向こう、道の果てが見えない。敷地が広いということは噂に聞いてはいたが、こう目の前に突きつけられると、その奥へと一歩を踏み出すことが躊躇われるのは否めない。戻ってこられない、ということはまさかないだろうが、行って帰ってくるまでに日が暮れるぐらいのことはありそうである。鬱蒼と茂る木々の中で日が暮れたら、ここで一夜を明かす可能性すら。それはいやだ。夏戸田はベッドで眠りたい。いい大人なんだからベッドで眠りたいのだ。踵を返して正門を出て、札幌駅を越えてホテルのあるすすきの方面へ真っ直ぐに南下する。
 途中で、札幌の街の真ん中を真っ直ぐ東西に走る大通公園にさしかかる。するとそこには見渡す限りのテーブルと椅子。ずらりと並ぶ仮設店舗。忙しく歩き回るスタッフたち。サントリー、アサヒ、キリン、サッポロ、そしてその他も多種多彩。ビアガーデンである。夏戸田はふらふらと仮設店舗のカウンターに向かい、チケットを購入しつつ注文方法などを確認する。隣のカウンターでコーンバターとじゃがバターを購入してから席を確保し、立ち歩くスタッフにビールを注文する。大ジョッキがすぐに届く。
 夕方というにはまだまだ早い夏の午後。周囲にはそこそこの客。というか夏戸田の予想を遥かに上回る客の入りだ。たしかに観光客のように見える人々も多い。夏戸田のように旅人に見えない旅人も中にはいるだろう。けれど、どう見てもあなたは地元の方でしょう、ほんとなら普通に働いている時間でしょう、という人々も決して少なくない。祝日でもなんでもない火曜日。公園の切れ目に掲げられていた看板によれば、期間中は毎日、平日も土日も無関係に、正午から営業しているというのだ。見上げれば大通公園沿いには整然とビルが並び、その中には数多くのオフィスも入居しているだろう。オフィスの窓からは当然ながらこの大通公園も丸見えであろう。そんなロケーションで白昼堂々連日開催ビアガーデン。北海道の短い夏の限られた期間であるとはいえ、札幌市民は正気なのだろうか。
 夏戸田は正気のままでジョッキのビールを喉に流し込み続ける。コーンバターの焦がし醤油風味が鼻腔を抜け、じゃがバターには塩辛がたっぷりと乗せられ、チケットはみるみるビールに変わっていく。サントリー、アサヒ、キリン、サッポロ、そしてその他の会場を、時間の許す限りぶらぶらと巡り、腰を落ち着けては飲む。夕暮れどころかとっくにとっぷり日は暮れて、仕事帰りと思われる人々でごった返したビアガーデン会場は、夜九時に突如一斉にお開きとなる。真っ暗な会場を後にふらふらと正気のままですすきの方面へ徒歩数分の道のりを歩き、ビジネスホテルにチェックインして、最低限の身支度をして眠る。ひとりには大きいダブルベッドで大の字になって眠る。
 水曜も、木曜も、初夏のような爽やかな快晴は続いて、他のどんな観光名所にも、すぐ隣町の小樽にも、立ち姿のクラーク博士がいるところにさえも行かずに、夏戸田は昼近くまで眠り、ホテルを出て大通公園ビアガーデンで朝昼兼用の料理とビール。おやつに料理とビール。晩ごはんに料理とビール。ホテルに帰る際にはビルの隙間にすすきののネオンを見やりながらもその中に吸い込まれることなく、都市の祝祭の真っ只中でだれとも乾杯することなく、しみじみとただひたすらに、飽きるまで自分自身を祝い倒して終わる。
 金曜は朝のいつもとほとんど同じ時刻に起きて身支度を済ませ、ホテルをチェックアウトして、徒歩で札幌駅へと向かう。途中で横切る大通公園はまだビアガーデンの営業開始前で、通勤途中の人々が正気の顔で行き交っている。夏戸田はビジネスリュックを背負って人々に紛れながら真っ直ぐに歩く。札幌駅から快速列車に乗って三十分ちょっと。空港でラーメンを食べてから搭乗。離陸。着陸。あとはこのまま夏戸田は自分のアパートへといったん帰り、然るべき時刻になったらスーツに着替えて出かけて、なに食わぬ顔で駅前の待ち合わせの場所へと行くだけである。
 機外へと降り立ちスマートフォンの電源を入れると、婚約者からの連絡が入っている。今週末は会えないという旨のテキストである。珍しい、というか、当日になっての連絡ということでいえば夏戸田の記憶の限りでは初めてのことである。理由は特に書かれていない。突然どうしたのだろう、どうかしたのだろうかと一瞬、心配が首をもたげるが、すぐに消えてなくなる。夏戸田は風通しのよい心持ちのままで了解した旨を返信する。まったく問題はない。問題はまったくない。
 預けた手荷物を待つ乗客を横目に空港の到着フロアを抜けて駅へ。改札を通過しようとした直前、改札の向こうからやってきた婚約者と対面する。その姿はスーツにビジネストート、いつもとまったく同じ婚約者であり、まったく同じであるがゆえに他人の空似を疑いもしたが、夏戸田の顔を認識したその表情から、紛れもなく婚約者本人であることがわかる。
 北から帰ってきたのだと夏戸田は言う。
 南へと行ってくるのだと婚約者は言う。
 ただいま。おかえり。行ってらっしゃい。行ってきます。
 これから空へ飛んでいく後ろ姿が消えるまで見送ってから、各駅停車に乗って帰る。

〈了〉

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