「酒抜き地蔵」鈴木鹿(43枚)

〈文芸同人誌『突き抜け11』(2016年5月発行)収録〉

 地球にのこぎりをあてるならハワイのあたりがよさそうだ。つるんと真っ平らな青の表層にぽつんとポイントされた目印は刃をあてるためのちょうどいいガイドとなって、素人でも上手いこと切り込みを入れることができるだろう。そのまま切り込んでいって真っ二つ。刃を南北に、南極と北極を通るようにして切るのもいいが、それではあまりに凡庸だ。ハワイという一点を、線ではなくてあくまで点を目印とするならば縦横斜め角度は三六〇度自由自在である。地球にあらかじめ引かれた線などない。ここにはあるが、本当はないのだ。
 ハワイの突起を指先でなぞってから、太平洋ごと手のひらで覆い隠すようにして、回す。七日ぶん自転したところで止める。休め、休め、休めよ世界。止めた指先が北海道の上にあることに気がついて、無精髭の生えた五里矢の緩い口元がさらに緩む。
 古くて重い学習机の上の地球儀は山の高さや地形を物理的な凹凸で表現しているタイプのもので、球体ではあるがごつごつとして、まるで肌理を失った五里矢の顔のような表面である。大きさも五里矢の頭部とほぼ同じだ。
 コップの中身がほぼ空になり、五里矢は足元の酒瓶をぐいと持ち上げ、栓を抜き、注ぐ。勢いよく注ぎ、なみなみで打ち切る。コップから酒が零れないことを確認して口をつける。まろやかな心持ちが、さらにまるみを帯びていく。
 義父がこの地球儀を買い与えてくれたのは何年前のことだっただろうか。数えようと思えば数えることは容易だが今はたまたま億劫だ。五里矢が子どもの頃には存在しなかった国がある。今はもう存在しない国もいくつかある。当時から今まで見たことも聞いたこともない国も。すべて南極と北極を通過する経線と、直交する緯線、真一文字の真っ二つに赤道、島を、国をかわすようにカクカクと日付変更線。
 ベッド脇の本棚の上、幼稚な原色の目覚まし時計の針は午後四時過ぎを指している。ただしこの目覚まし時計は大幅に時間が狂っている。どれだけ狂っているかはわからない。窓から射し込む光の具合、明るさと角度を見るに、遅れているのだということはわかる。どれほどの遅れなのかは、この部屋にいる限り知る由もない。そもそもこの目覚まし時計の乾電池をいつから替えていないかわからない。なのによく止まらずに動いているものだ、むしろそちらを褒めるべきではないか。
 窓を少し開けて二階から外を見下ろす。向かいの家の庭に生える木が長い影を伸ばしている。わあきゃあと、どこかから男児か女児かのじゃれ合う金切り声が聞こえる。緩やかな上り坂になっている家の前の道を、籠に生鮮食料品とおぼしき袋をみっしり詰め込んだ自転車が猛スピードで上っていく。女性は涼しい顔で立ち漕ぎもしない、きっと電動アシスト自転車なのだろう。あれもまた、五里矢が子どもの頃には存在しなかった乗りものである。どんな感じなのだろう。乗ってみたいが買うほどではない。
 雲がゆっくりと流れ、理想的な気温と理想的な湿度が街全体を包み込んでいる。子どもの金切り声はどこか遠くへ行ってしまった。五里矢はそっと窓を閉める。そっと閉めたつもりが意外と大きな音がしてびくっとする。コップの液面が揺れる。カーテンを引いて、酒瓶とコップをそれぞれの手に、漏れる光を頼りにして一人息子の部屋を出る。
 薄暗い階段を降りて、まだ明るいリビングダイニングへ。ダイニングテーブルに酒瓶とコップを置いて、カーテンを引いて電灯を点ける。ダイニングチェアに腰を掛けて、しばらく座る。トイレに立ち、流し、また戻ってくる。しばらく座っているうちに、窓の外がとっぷり暮れて暗くなってしまったのが、なんとなくわかる。
 昼間に買ってあったコンビニのビニール袋の中からツナマヨのおにぎりを取り出す。パッケージに印刷された段取りを無視して接着面を剥がし、海苔と米とが分離した状態でテーブルの上に広げる。おにぎり一個なのにわざわざ付けてもらった割箸で、米の塊に埋め込まれたツナマヨだけをつまんで、食べる。甘ったるい口の中に油分と塩分がやさしく広がる。コップを手に取ると酒がほとんど入っていなくて、あわてて酒瓶を開栓、勢いよくなみなみ。口をつけて、目を閉じる。口の中をもむもむとする。ツナマヨを最初より多めにつまむ。今度は落ち着いて、適量を探りながら酒を口の中へ流し入れる。目を閉じてもむもむとする。頭蓋の中の音だけが五里矢の耳に届く。
 あらかたツナマヨを食べ尽くしたところで、パッケージからぱりぱりの海苔を引き出す。台所のガスコンロに点火して、軽く炙り、香りが立ってきたところで火を止める。テーブルに戻り、その香りだけで酒を飲む。入れ替わり立ち替わり違う香りがやって来ては消える。小さく千切って口に運ぶ。歯触りを楽しみ、奥歯で磨り潰す。口蓋に引っついたのを舌先で剥がして、酒を飲む。テーブルの上に散った細かい欠片を指先にくっつけて食べる。飲む。
 海苔を少しだけ残して置いておいて、再びガスコンロに点火、薬缶に湯を沸かす。茶碗と粉末出汁を取り出して、開いたパッケージの上に置かれたままの米を茶碗に入れ、粉末出汁を振りかけて、沸いた湯をかけ、海苔を千切って散らす。ふーふーと生ぬるい息を吹きかけながら、箸でかき込む。最後の一粒、最後の一滴まで、一気にいく。茶碗を置いて、目を閉じて、手を合わせる。
 のっそり玄関へ立ち、郵便受けに入っていたチラシを手に取る。表で中古住宅を売りたいチラシは裏で中古住宅の買い取りを訴える。表でピザを売りたいチラシは裏でパエリアも始めたことを知らせてくれる。宗教が話を聞くよと呼びかける。その文字、その写真を、玄関に突っ立ったままで丹念に読み込む。読み終わって、鍵を掛けて、トイレに入り、流し、リビングの電灯を消して、暗い階段を上り、一人息子の部屋のベッドに寝転がる。今が何時何分なのか、光ではもうわからない。天井に貼られたサッカー選手の顔が見えない。


 酒は残り二本のうちの一本を開封したときを発注点と設定している。その前に酒を買うこともないし、それを過ぎて買わずに放置することもない。五里矢は自分の記憶や勘、つまりは自身の脳の能力というものを信頼していないので、ルール化できることはルール化してしまって、あとはそれに従うだけというのがいいと思い、そうルール化している。おかげで酒を買い忘れたといらいらすることも、酒がきれていらいらすることもない。もういつからそのようにしているのか思い出すことができないが、五里矢が決定した生活の知恵としては最も効果的なものであるし、このルール化があるからこそなんとか五里矢の生活は成り立っているのだともいえる。五里矢はルールを信じている。ルールさまさまである。
 発注といっても五里矢が自ら買いに出るのである。平日の朝、通勤通学の人の流れが落ち着いてきた頃合を見計らって玄関を出る。鍵を掛けて家の前の坂道に出ると向かいの家の庭で水をまいている獅子出さんと目が合う。ほどよい爺くささのリラックスしているが小綺麗な服装で、いつもにこにこと好々爺といった風情の獅子出さんは、五里矢が用事を足すのに家を出るときにほぼ毎回顔を合わせる。庭に住んでいるんじゃないかと思うほど庭にいる。五里矢がここに暮らし始めるずっと以前から歴史を重ねてきた家と庭は、素人目に見てもいい味が出ている。
「おはようございます」獅子出さんの挨拶はいつだって溌剌としている。小柄な体格の割に声がでかい。今は引退、隠居、悠々自適の身だが、かつては国会議員だったというからその名残なのかもしれない。
「おはようございます」と五里矢も挨拶を返す。より若く、より図体もでかいのに、その声は自分でもちょっと引くぐらい小さい。喋る筋肉が弱っている感じがする。か細く、声量もなく、張りもない。実際「ござ」のあたりから獅子出さんは聞こえていない。
「いい天気ですね」シンプルな発言に存在感が宿る。これが若い頃から街頭で手を振り演説をこなしてきた男の溌剌である。名前を大きく記したたすきが見えてくるようである。五里矢は黙って頷き背中を丸める。
「お出かけですか」
「ええ、買物に」
「行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」の「って」以降は獅子出さんは聞こえていない。たとえ聞こえていなくてもにこにこ顔は崩さない。好々爺にはそのように見えるだけの背景がある。
 五里矢は坂道を下る。誰もいない公園の脇を通り抜け、道幅は徐々に広くなり車通りも増え、いよいよ表通り、商店街という角で、いつものように反対側を選択、長い長い郊外へ至る道を歩く。獅子出さんが言ったように今日は本当にいい天気で、これなら道中も楽であることが予想され、五里矢はほっとする。ルールに天気のことは加味していないため、酒の残量が発注点を迎えてから最初の平日の朝が雨の日であってもそれは仕方ない。すぐさま酒が切れるわけでもないから好天の日を待っても本当は構わないのだが、一日中そわそわしてしまうぐらいなら五里矢は嵐の中を外へ出る。今までにそのような事態になったことはないけれど。
 暑くも寒くもない理想的な気温と理想的な湿度に包まれた街であっても、長いこと歩けばじんわり汗ばんでくるのは避けがたい。登山家であれば命取りになるような汗冷えも、都市生活者の五里矢にしてみればまったく問題ない。汗を冷やす。がんがん冷やす。大きな売場面積と大きな駐車場を擁する大きなスーパーマーケット。冷房が効いているうえに、生鮮食料品の棚が冷気を積極的に発している。体がぐんぐん冷える。人もまばらな広い通路をカートを押して進む。タイムサービスのもやしと、昼の弁当、好物のチーズおかきを籠に入れ、そして最後に目的の酒瓶を籠にびっしりと入れて、いくつも並ぶレジの前へ至る。左から右へさっと目を走らせて、目当てのレジをすぐに見つける。五里矢がこのスーパーマーケットのレジ打ち店員の中でも絶対的エースだと評価している殿見さんである。おばさん体型でおばさん顔の、おばさんである。
 殿見さんのレジ打ちは決してスピーディには見えない。「いらっしゃいませ、お待たせいたしました」と、にっこり笑顔の挨拶には余裕すら感じられ、商品のひとつひとつを丁寧に扱い、順次、バーコードを読み取りつつ、その価格を読み上げていく。しかしながら会計に至るまでの所要時間は他のレジ打ち店員に比べて格段に短く、最初に殿見さんのレジ打ちを経験したときには五里矢はその凄さに気づくことができず、三度目の正直でその異変、違和感に気づき、一度、週に一度の特売のタイミングで店内が混雑していた際に離れてレジを観察していたところ、殿見さんのレジだけが明らかに大量の買物客を処理していることを知ったのだった。以来、殿見さんがいる限り、たとえ殿見さんのレジに多くの買物客が並んでいようとも、五里矢は殿見さんのレジを選択するのである。
 もちろん、早いというのは理由のひとつとしてある。いくら五里矢が無尽蔵に時間のある人間でも、だらだらと列に並び続けるのを好みはしない。とっとと会計を済ませたいという気持ちはたしかにある。けれどそれだけではない。接客にせよ商品の扱いにせよ非常に丁寧でありながら、スピーディに見えないのにスピーディという、それはつまり、動きにまったくの無駄がないということで、まったくの無駄がない動きができるというのは身体の練度が高いということもあるけれど身体を動かす前段階の判断が適切だということだ。買物客に心のこもった笑顔を振りまきながら殿見さんの目は籠の商品をくまなくスキャンし、頭の中はフル回転で適切な商品を選択、完璧な整然さと安定感を保ちながら籠から籠へと商品を移す。頭脳と身体、それらは不可分に稼働する。そんな殿見さんその仕事ぶりを見たいのである。今日も、気づけば会計が終わっている。惚れ惚れした顔で次のお客様に押し出される。
 もやし、弁当、チーズおかきと酒瓶の入ったビニール袋を両手に持ってスーパーマーケットを出る。来店時よりも気温が上がり、がちがちに冷えた体がぬるんでいくのがわかる。長い長い道のりを戻る。指に食い込むビニールを持ち替えながら、ごまかしながら進む。
 小学校の前を通りかかると、校庭で児童らが運動しているのが見える。よく晴れた日の体育の時間というのは気持ちがいいものだ。それはどんなに時代が変わってもおそらく変わらないもののひとつである。仮に体育の嫌いな、かつての五里矢のような運動神経のよくない児童だったとしても、天気がよければまだましだ。たとえ雨が降ったって、校庭が体育館になるだけで体育が中止になることはないのだから。
 よく見ると児童らは、思い思いの運動をしているというよりは規則性のある、統率された行動をしている。それがおそらく、運動会の練習であることに五里矢は気づく。入場行進だとか、そのへんだろうか。いわゆる軍隊的な動き。そんな季節である。
 足が速い子どもにとっては一年で最大の晴れの舞台である運動会。五里矢にとっては晴れの舞台ではなかった運動会。どうして運動会ではスピード系競技ばかりが重んじられたのか、と五里矢は不思議に思う。同じフィジカルを競うのでも、パワー系の競技があればまだ五里矢にも活躍の場があったのかもしれないのに。それもまた、親や親戚を呼んで披露するということの意味のわからなさ。五里矢が子どもの頃には、親が前日の夜や当日の早朝に場所取りをするというのが当たり前だったけれど、今では違ったりするのだろうか。わからないけれど。
 指先はいよいよ赤を通り越して青く、酒瓶の本数はいつも通りであるがいつもより弁当が重いのだろうか、家はもうすぐだが、公園で休憩を入れることにする。往路では無人だった公園は復路の今も無人である。ベンチにビニール袋を置いて、肩の力が抜ける。両手をぶるんぶるん振って、座る。汗ばんではいるが冷えるほどの気温ではない。
 時計は正午に近いがまだ午前中、ここで弁当を食べていってもいいかもしれないなと五里矢は思いつく。空腹かといえばまあ、食べられないこともないが食べなくても大丈夫というぐらいの中途半端な腹ではあるが、外で弁当というシチュエーションに魅力がある。遠足気分とでもいうのか、いい歳をして遠足もないものだと五里矢はひとりで照れるが、ほら、ちょうどビニール袋の中にはおやつだってあるし、いいじゃないか。遠足のおやつにチーズおかきとはなかなか渋いかもしれないが、いい歳をしているのだから構わないだろう。
 いつもなら電子レンジで温めてから家のダイニングテーブルに広げる弁当を、冷たいままでベンチの膝の上に広げる。湯気の立たないごはん。湯気の立たないおかず。湯気の立たないポテトサラダは、むしろこれが正しい姿であるように思う。弁当は作りたてではないにせよ冷蔵ケースに入っていたわけでもないので、冷えているというよりは常温である。
 ところで常温って何だろう。常なる温度。普通の温度ということか。温度における普通って何だ。もしそれが外気温なのだとすれば季節によって、地域によって変動することになる。北海道の冬なら氷点下が常温となる。でも違う。常温というのは季節によって、地域によって、そんなに変わるものではない。じゃあ温度における普通とは何なのか。変わらない普通があるのか。
 ああ、体温か。わりと簡単に五里矢は思い至る。人間の体温なら基本的にはいつも変わらない。恒温動物としての人間にとっての普通の温度が常温。そうか、常温というものは人間中心主義的な概念だったのか。五里矢は割箸を割り、人間中心主義的な白身魚フライを口へ運ぶ。ソースをかけ忘れたことに咀嚼してから気がついて、どこからでも切れる小袋を開封、ちょうど指についたのを舐めて、追いソースとする。
 おかずが先になくなって白いごはんが余るという状況だけは避けなければならない。自宅であればなんとか冷蔵庫から追加のおかず的なもの、あるいは味噌や醤油や塩のようなものを用意することができるが、外出先ではそうはいかない。避けよう、避けようと、おかず少なめに対しごはん多めの省エネ方式で弁当を食べていたら、ごはんを食べ終えた時点でまだだいぶおかずが残っている。白身魚フライ、ウインナー、ポテトサラダ、かまぼこ、オレンジの輪切り。ちょっと残りすぎである。バランスを意識するとバランスが崩れる。わかっているつもりなのに今日もやってしまった。
 ビニール袋の中には、もやしとチーズおかき。あと、酒瓶。膝の上のおかず。五里矢は酒が飲みたくなってくる。白いごはんのお供だったものが酒のつまみに姿を変える。いや、姿は同じだが鮮やかにその役割を変えるのである。花見の季節からは外れているが、屋外での飲酒というのもこれまた乙なものである。それこそ五里矢が子どもだった頃の運動会では、親たちは酒を飲んでいたものだ。今ではどうなんだろう、もしかして禁止だったりするのだろうか。わからないが。
 コップはないが問題ない。酒瓶の封を切り、口を直接つけてのラッパ飲みである。かといってがぶがぶと飲むわけではない。そのような飲み方は若いうちだけのもの、五里矢はとうに卒業している。たとえラッパ飲みであっても、ちびりちびりといく。時折、バランスを失って、酒瓶に大きな気泡が入る。むせることなく飲み込む。無味無食感のかまぼこを噛みしめる。
 ベンチの背もたれに背をもたれ、真上の空を仰ぎ見る。太陽は真上に至り、五里矢の顔面を垂直に照り落とす。太陽光で全身まるごと燗をつけて増幅した酒気が全身の血管を巡り、酒気を含んだ呼気がさらに酒気を呼ぶアルコールアンプ状態。しばらく味わっていなかったポジティブな酔い、開放感あふれる恍惚を五里矢は得ている。チーズおかきも開けてやろうか。
 どれだけ真上を向いていたのか、首が痛くなったのに気がつきあわてて元の体勢に戻ると、少し離れたベンチにひとり子どもが座っているのが見える。ランドセルを脇に置いているから小学生だろう、ランドセルの色では男女の区別がつかない。男児にしては長め、女児にしては短めの髪で、うつむいて、手元には何か本を広げている。その薄さからして教科書だろうか。公園のベンチでひとり教科書らしきものを読んでいる男女不詳の児童。足をぷらぷらさせて。
 学校帰りなのかと思ったけれど、まだまだ太陽は真上、公園の時計を見れば正午を五分過ぎた頃。昼の給食にもまだ早い時刻である。そもそも下校時刻ともなれば他にも児童らがあちこちに姿を現すのが自然だがそれもない。ということは早退か。早退したのにどうして家に帰らずに公園のベンチでひとり足をぷらぷらさせているのか。あるいは、学校に行っていないのか。学校に行かずに何をしているのか。どうして教科書なんか読んでいるのか。教室の外なのだからマンガでもなんでも好きなものを読めばいいのに。給食を食べていないのだとすれば昼食の準備はちゃんとあるのか。そもそも朝食はしっかり食べてきたのか。菓子パンだけで済ませちゃいないか。
 児童と五里矢のあいだはせいぜい二十メートルもなく、普通なら声をかければすぐに気づく距離である。まわりには誰もおらず、公園には五里矢と児童のふたりだけ。児童は五里矢に気づいているのかいないのか、こちらを見向きもせず顔を上げずじっと教科書らしきものを読んでいる。五里矢は声をかけたくなる。声がきちんと出るかどうか、二十メートルもない空間をきちんと貫いていけるだろうか、不安だが、なにせ児童のことが心配である。ぷらぷらと揺れる小さな足が心配で心配で仕方ない。
 五里矢は息を吸い込んで、その息で、自らの姿を思い出す。膝の上の弁当と、がっしりと掴んだままの酒瓶を思い出す。平日の昼間に、誰もいない公園で、弁当を広げて酒をラッパ飲みするおっさんが児童に声をかけようとしている。それを目撃した人は、通報以外のどんな行動が取れるだろうか。
 膝の上に弁当を乗せたまま、手に酒瓶を掴んだままで五里矢は何もできずに固まってしまう。児童は黙々と熱心に教科書らしきものを読み続けている。太陽がじりじりと照りつけて、空気は微かに埃っぽい。常温の弁当は常温のままでゆっくりと不味くなっていく。
 わあきゃあとやかましい子どもの声が公園の外から中へ切り込んでくる。小さな自転車が四台、土煙をあげながら公園に入ってきて土煙をあげて停車。ベンチに座っていた児童は顔を上げ、教科書をランドセルにしまう。自転車が再び走り出し、児童はぷらぷらと揺れていた小さな足をしっかり地に着けて全速力で駆けていく。
 五里矢は時間の経過がわからなくなる。とりとめもなく荷物をまとめ、屑籠に捨てるものを捨て、バランスを失ったビニール袋を両手の指に食い込ませながら帰途につく。上り坂を上る。「おかえりなさい」という獅子出さんの溌剌とした声に、最後の力を振り絞って会釈を返す。玄関を抜け、ビニール袋を置いて二階の一人息子の部屋へ行き、ベッドに前から倒れ込む。酔っているのか醒めているのかを見失った目から涙が零れる。運動会だとか遠足だとか、自分自身の子どもの頃のことしか思い出せなかった自分を思いながら、すやすやと眠る。


 後悔と共に目を覚まし、自責の念と日中を過ごし、日暮れの空の切なさの精神的な負荷に耐えきれず酒を飲み、眠る。毎日、毎日、毎日、好天が続く街の気温と湿度は理想的なまま季節が通過しようとしているが、今、いったいどの季節なのか五里矢にはわからなくなっている。
 再び酒の発注点を迎えた夜、五里矢はその時点で酒を注ぐ手を止められず、ぐいぐい、ぐいぐいと注いでは飲み、注いでは飲み、最後の一本を開封し、半分を飲み終えたところで椅子から転げ落ちぶっ倒れ、朝、鈍い頭痛を抱えて目を覚ましたとき、髪の毛には赤黒い血の塊がくっついており、それにより、五里矢は自分がぶっ倒れた拍子にテーブルの脚に頭を打ったことを知る。
 頭痛が二日酔いのためなのか傷のためなのか、それとも五里矢の知り得ぬ頭部へのダメージのためなのか、判断がつかない。判断するのも面倒な重い気持ち、いつもの朝に輪をかけた後悔が五里矢の上半身を襲う。自暴自棄になりそうなところを、頭痛がなんとか正気を支えてくれる。頭を打ったのだから念のため、念のためと自分に言い聞かせ、ニットキャップを目深にかぶり家を出る。向かいの庭から「おはようございます」と声がするが無視して坂を下る。ポケットに手を突っ込んで、背中を丸めて歩く。
 酒臭い息が周囲にできるだけ影響を与えないように広い待合室の隅っこに座る。広い空間のごく一部が酒気に包まれ、その中心に座るしかない自らを五里矢は恥じる。
 待合室には五里矢のほかに老人しかいない。老若男女の「若」だけを除いた状態である。老男女は声がでかい。非常にでかい。ここは病院だと注意をする者もいない。声がでかい者しかいないのだから誰も迷惑だとは感じていないのだろう。さらにいえばここには、体調の悪い者はいない。社交場としての待合室の一角に五里矢は身を預けている。
 掲示板のポスターは禁煙外来の存在を告知している。煙草をやめるのに病院での治療が推奨される時代である。酒をやめるのにも医療の助けを請うべきなのだろうか。きっとそれは正しい。とても正しい。その正しさが五里矢の決意を鈍らせる。
「酒ヌキジゾウ」という単語が聞こえてきたのはその待合室にいるときのことである。サケを酒と瞬時に理解してしまう自分自身がいやになるが、五里矢の耳が反応したのは酒に対してだけでなく、その耳慣れぬ音の連なり、それでいて語呂のよさに対してである。老男女の誰かが話しているのだろうが、病院の硬い床と硬い壁、硬い天井に反響して誰が話しているのかを見極めることができない。老男女はみな同じ顔に見えてくる。これも頭を打ったせいなのだろうか。
 酒をやめられなくてやめられなくて、家族に愛想を尽かされ体まで壊したにもかかわらずそれでもなお酒をやめられずにいた男があった。社会的にも肉体的にもぼろぼろになってそれでも酒をやめられず、もはや酒を飲んで楽しい気分になれるわけでもないのにやめられず、そこまでいったら普通は治療が必要と判断されるところをそれだけは、それだけはと拒否し続け、それを熱心に説得するような身寄りも既におらず、医者にも匙を投げられて、ついに人生も投げてしまおうかと近所の山林に分け入り分け入り、首を吊る場所を探していたところを、不意に大きな木の根元にたたずむ小さなお地蔵様に出会ったのだという。
 ああ、これから首を吊ろうというところにうってつけのお地蔵様。信心深い人間ではなかったけれどここはひとつ手を合わせておきましょうとまずは合掌。そして、その小さなお地蔵様の頭がまた、首を吊るのに使いたい枝に対してちょうどいい踏み台になると男は気づいた。罰当たりなのは承知のうえでせめてもの礼儀と靴を脱ぎ、かといって靴下では滑ってしまうと靴下を脱ぎ、裸足でお地蔵様の頭上に立った男は、用意していたロープを枝にくくりつけようとした。
 と、そのときである。男は両足の裏が、お地蔵様の頭に強く吸いついていることに気がついた。いくらお地蔵様の頭のカーブに足裏が完璧にフィットしているとはいえ、そのあり得ない安定感。男は足を上げようとしてみたが足が外れない。足を外そうと力を込めたが、それでも足は外れない。両足はすっかりお地蔵様の頭に吸いついていた。というより、お地蔵様の頭が男の足裏を強く吸っていた。足裏を通じて男から何かを吸い取っていた。男は足裏からお地蔵様に何かが吸い取られているのを感じた。それが何かはわからないが、体内から何かがずんずん吸い取られていくのがわかった。吸い取られれば吸い取られるほど、どんどん頭がすっきりして、体が軽くなっていくように感じた。
 両足を固定され、直立した姿勢のままで下を見ると、くすんだ灰色だったはずのお地蔵様の顔が真っ赤になっていた。すると、それまでかちこちだったお地蔵様がふにゃふにゃに弛緩して、男はあれよあれよと地面に叩きつけられた。吸いついていた足もあっさりと外れた。危うく怪我をするところだったが、既に健全な心身を得ていた男は上手く受身を取ることに成功していた。
 地面に這いつくばったままでお地蔵様を見上げると、真っ赤になった顔が今度はみるみる真っ青に変化して、弛緩していたはずの体が再びかちこちに硬直した。お地蔵様はしばらくぷるぷると震え、その震えが徐々に徐々に大きくなって、ついにこらえきれなくなったという感じで口から虹を噴き出した。それはさながらシンガポールの観光名所のようで、男は「また家族で海外旅行に行きたいなあ」と心底思ったそうだ。以来、酒を一滴も飲まなくなった男は、幸せに暮らしましたとさ。
 酒ヌキジゾウは酒抜き地蔵であった。とげを抜くのでなくて酒を抜く地蔵。それも、ずいぶんとエキセントリックなプロセスで。いったいどんな顔した人間のホラ話だろうかと老男女のほうを凝視するが、凝視すればするほど個々人の差は見えなくなって、いまやひとつの塊としてしか認識できなくなっている。
 ざっくり「幸せに暮らした」とまとめられた男は、具体的にどのように暮らしたのだろう、と五里矢は思う。愛想を尽かして出て行ったかつての家族と一緒に暮らしたのだろうか。それとも若くてエロい美女と暮らしたのだろうか。またはそのまま、ひとりだったのだろうか。酒が抜けた男の幸せに、濁ったレンズのピントが合わない。
 四時間待った挙句、医者には「総合病院に行け」と指示されるのみで、紹介状を小さく折り畳んで真っ直ぐ帰宅。向かいの家の庭に獅子出さんの姿が見えず、珍しいなと思いながら玄関の鍵を開けるためにポケットをまさぐっていると、坂を上ってきた黒塗りの高級車が向かいの家の前に止まって、同時に家の中から獅子出さんが姿を現す。見たことのない高級背広姿で、手には高級スーツケースを持って。
「やあ、こんにちは、おかえりなさい」いつもと違う出で立ちの獅子出さんも声は変わらず溌剌と、なんならいつもよりも溌剌が二割増しである。
「こんにちは」つられて五里矢も絞り出すように返事をする。
「じゃあ、私も、行って参ります」
「ああ、はい」珍しいなと五里矢は思い、つい「どちらへ」と尋ねてしまう。その声は相変わらずか細くて黒塗りの高級車のエンジン音にかき消されてしまいそうで、それでも獅子出さんの耳がいいのか、獅子出さんはにっこりと五里矢の言葉を受けとめて「地元へ帰るのです」と、溌剌。
 地元? と声には出ない疑問が五里矢に浮かぶ。獅子出さんの家は昔からずっとここにあって、獅子出さん自身もこの家で生まれ育ったと聞いている。まあ、リフォームや、もしかすると建て替えはしているだろうけれど、獅子出さんにとって地元は、この家、この街ではないのか。今、その家を出て、地元に帰るとはどういうことなのか。
 五里矢の疑問は声に出ていないはずである。はずであるのに、獅子出さんには届いてしまう。
「昔の、議員だった頃の、地元です」
 獅子出さんは五里矢に向けて力強い笑顔を発すると、颯爽と黒塗りの高級車に乗る。黒塗りの高級車は獅子出さんの家の前を使って方向転換し、下り坂を下って行ってしまう。ポケットをまさぐる手は家の鍵を掴むことができない。


 故郷の北海道を離れてカルチャーショックだったことはいくつもあるが、地蔵の多さはそのひとつだ。北海道にも地蔵はいるにはいるが、寺の境内や墓地の敷地なんかにときどきいる程度で、それはわかりやすい信仰の場にあるものであって、そういうものなのだろうと五里矢は思っていた。寺も墓もないようなただの道端に地蔵が立っている光景というのは民話、昔話の類の中のものだとばかり思っていたから、現代の世にもそのような場所がたくさんあるということに五里矢は驚いたのだった。あちらこちらに、ぽつりぽつり。今でこそいちいち意識しないが、最初の頃は地蔵を見かけるたびにテレビアニメの昔話の例のテーマソングと、例の女優の声が頭の中にこだましたものだった。
 そのような自身の出自を再認識したうえで、改めて酒抜き地蔵の話を反芻してみる。この話を荒唐無稽、子ども騙しの物語と切り捨てるのは容易いと五里矢は思うのだが、それはひょっとすると、地蔵に馴染みの薄い五里矢ならではの感覚なのではないだろうか。仮に五里矢がこの界隈に生まれ育ち、道端に地蔵が当たり前のようにたたずんでいる環境を当たり前と感じる大人になっていたとしたら。無邪気にまるごと信じ切ることはないにせよ、さもありなん、なんつって笑う余裕ぐらい持ち合わせることができたのではないか。まるであの待合室の老男女のように五里矢も楽しく話の輪に入ることができたのではないだろうか。
 信じるわけではない、断じてないのだが、仮に百歩譲って事実なのだとしてもなにせ老人の話である。それが昔の話なのか最近の話なのか、はたまた昔の話を現代風にアレンジした話なのかはわからない。そもそも分け入るほどの山林など、すっかり開発されてしまったこの界隈になど、と近隣の地勢を思い浮かべて、商店街を抜けた向こう側にある小さな山のことを思い出す。ああ、よりによってあんな場所に。行かない、行かない、絶対に行かない、近寄りたくもない。しかし、あそこにしか山林はないのだ。
 半分だけ残っていた最後の酒瓶が学習机の上で空になろうとしている。窓の外には日曜の平和な日が広がっている。この日が暮れてまた明けたなら月曜の朝がやって来る。スーパーマーケットへの長い道のりを歩く平日の朝がやって来てしまう。
 酒瓶の底に一口ぶんだけ残したままで栓をする。部屋を出て階段を駆け下りて、鍵も持たずに家を飛び出す。下り坂を転がるように駆け下りて、平坦になったところで歩きに変わる。息が上がっている。老若男女の「老」だけを除いた親子で賑わう公園の脇を通り抜け、道幅は徐々に広くなり、表通り、曲がり角、商店街へ至る道へ、いつもと逆の選択。
 温かなムードに満ちた商店街には老若男女のどれも欠けることなくすべての人々が行き交っている。いつもの賑わいのほどは知らないが、率直に大いに賑わっている。酔って鈍感になった五里矢の心の、敏感な部分が過剰に反応して震えを起こす。寒気を感じ、歩みがのろくなる。過剰供給された大量の笑顔と笑い声が五里矢を避けて流れる。
 肉屋、魚屋、八百屋、米屋、餅屋、パン屋、ケーキ屋。耳を澄ませばあちらこちらの商店の前で「あの街を見た」と声がする。
「あの街を見た」
「あの街を見た」
「あの街を見た」
 判で押したように客は店員に告げ、店員は忙しそうに対応している。
 あの街とはいったい何なのか。どんな街なのか。さも共通認識であるかのように客も店員も自然な顔でやりとりをしているが、五里矢にはとんと見当がつかない。強い疎外感と同時に五里矢は自分も「あの街を見た」と言ってみたい衝動に駆られる。けれど、五里矢はあの街を見ていない。だから言うことはどうしてもできない。
 途中のコンビニに避難するかのように立ち寄る。ここだけは人の体温が少しだけ薄らいで生き返った心地がするが、何も買わずに出るのは気が咎める程度には湿っぽい。惰性でツナマヨのおにぎりを買う。
 ビニール袋をぶら下げて再び商店街を歩く。ごった返す人の波と「あの街を見た」を分け入り分け入り、這々の体でようやく商店街の終端と、小さな山が見えてくる。商店街を抜け、深呼吸。古い民家と新聞販売所の間の小径を抜けて、小さな山の竹藪に入る。
 想像よりも斜面は急で、そのうえ土は軟らかく、すこぶる歩きづらい。真っ直ぐ太く立派に生える竹に手をかけながら、つかまりながら、分け入り分け入り奥へと進む。植物のざわめきと足音だけで、あとは狭い空が青くあるだけである。足を取られて転びそうになる。なんとか踏ん張って、もちこたえて進む。振り返ると既に商店街の賑わいは遠く、老若男女の体温も声も届かない。前に進めば進むほど、遠ざかることができる気がしてくる。汗をかいて口のまわりがしょっぱい。ぺろりと舐めて進む。二度と振り返るものかと進む。目の前の土、足を出すべき場所だけを見てごりごりと進む。頭の中が前景をスキャンして、身のこなしが自動的に決定され、あとは従うのみ。崩しそうになるバランスはその都度微調整を繰り返し事なきを得る。
 道があるようで、道がないようでもある。歩けないこともないが歩きにくい、かといって道なき道を切りひらいているのかといえばそれはさすがに言い過ぎだ。かつて誰かが通ったかもしれないような曖昧な道を行く。それが誰でも構わない。両脚に疲労がたまってきているのがわかる。無視しようと思えば無視できる程度のものなので無視してみる。
 踏みしめる土が硬く、歩きやすくなってきて、ふと目を上げるとそこは竹藪ではなくシラカバの林である。木の皮は白く、ところどころ剥がれ落ちて独特の模様を作っている。頭上で生い茂った葉が太陽を効果的に遮り、薄暗い間接照明の部屋のような雰囲気を生み出している。落ち着いた心持ちになった瞬間、下半身の力が抜けて五里矢はぺたりと座り込んでしまう。
 水の流れる音が聞こえる。音を聞いた途端に喉が渇いていることを思い出す。音のする方へ這うように進み湧き水を見つける。手で掬い、飲む。手で掬い、飲む。唇を突き出して直接飲む。冷たい水が食道を落下して胃袋にしみわたるのがありありとわかる。胃袋の存在を確認して、空腹が首をもたげてくる。手にしていたコンビニのビニール袋からツナマヨおにぎりを取り出して、パッケージに印刷された段取りに従いおにぎりに海苔を装着、ぱりぱりと音を立ててかぶりつく。目を閉じて咀嚼する。海苔と米粒とツナマヨが混じり合いながら胃袋に落ちていく。最後まで食べ終えてから、もう一回水を飲む。最初は口の中をすすぐように、その後はがぶがぶ、ごくごくと音を立てて飲む。手で掬い、顔を洗う。
 満ちた体と四肢を投げ出し仰向けに寝転がる。端的に動けないと思ったからである。動く必要がないと思う。空の青さが遠く、しかし、明るいのだけはわかる。
 首を吊るにはちょうどいい高さに丈夫そうな木の枝が何本もある。そのつもりは最初からないし、もちろんロープの用意もない。ただ、そのような木の枝の下に酒抜き地蔵はいたはずである。五里矢はがばりと上体を起こし、あたりをきょろきょろと見回してみる。薄暗い間接照明空間に目を凝らす。しかし、地蔵も、そのようなものも見当たらない。
 周囲を探索してみようかと立ち上がってみるが、すぐに思い直してまた座る。そりゃそうである。そりゃそうだ。そりゃそうでしょう。だって、あてがないにもほどがある。馬鹿馬鹿しさがこみ上げてきて、五里矢は久しぶりに、思い出せないぐらい久しぶりに、屈託なく笑う。声を出して笑う。何を笑っているんだかわからなくなりながら笑う。笑いすぎて震える体にちゃぽちゃぽの胃袋が呼応する。ひい、ひい、腹が痛い。しょっぱい涙を流して笑う。
 ああ、帰ろう、帰らなくちゃ。重たい体を引きずるように持ち上げて立ち上がると、木陰に人影のようなものが見える。にわかに全身が粟立つ。まさか、信じない、信じないって、かといって、無視するわけにもいかずおそるおそる近寄ると、そこには小さな男児が立っている。どうしてこんなところに、という気持ちが今の五里矢には起きない。そこに小さな男児がいる、その事実だけを受け入れている。
 それを地蔵だとは思わない。石じゃないし、灰色じゃないし、ていうか明らかに人だし。気をつけの姿勢、しかしながらリラックスしたたたずまいの男児は、あたかもずっとそこにいたかのようである。その男児を見て五里矢は安心した気持ちになる。このまえの公園で性別不詳の児童を見たときのような心配とは真逆の、むしろ五里矢の方が包み込まれてしまうような雰囲気をその男児はたたえている。無表情であるが冷たい感じはしない。かといって、温かすぎてつらくもない。五里矢は声をかけずに男児を見つめ続ける。およそ二十メートルの距離を少しずつ、少しずつ縮めて、目の前まで。男児の前にしゃがんで膝をつく。吸いつくような頬に触れようと、両の手のひらを差し出す。
「地球儀がほしい」男児が口を開く。聞き覚えのあるようなないような、微かに不快になる甲高い声が五里矢の耳にはっきりと届く。五里矢は動きを止める。両手を差し出したままで固まって、そこから動けなくなる。頭の中がぐるぐると回る。からから軽い音がする。
「地球儀がほしいの」と、こちらはさらに聞き覚えのある女性の声がする。男児の後ろに目を凝らすと、そこには大人の女性らしき人影が立っている。人影はゆっくりとこちらに近づいてくる。男児が再び口を開く。
「お母さん、地球儀がほしい」
「そう、地球儀がほしいの」
「うん、地球儀がほしい」
「どんな地球儀がほしいの」
「世界中の山がわかって、世界中の川がわかって、世界中の平野がわかって、世界中の国がわかる地球儀がほしい」
「そう、そう。じゃあ、ほら」
 お母さんは男児の前にしゃがむ。お母さんの顔は地球儀になっていて、地軸の傾きで微笑みかける。
「やった、地球儀だ、ほしかった地球儀だ」大地の凹凸に小さな指をかけ、ぐるぐるぐるぐる地球儀を回す。お母さんの微笑みが三六〇度に拡散する。ああ、お母さん、ありがとう。でもね、やさしくて大好きなお母さんにとっても言いにくいんだけれど、もうソ連という国はないんだ。
 そこはいつまでも明るくて、太陽がいつまでも沈まなくて、夕方なのか朝なのかわからなくなる。偽物の地球だけが高速で自転を続けている。

〈了〉

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