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「故郷の更新」鈴木鹿(58枚)

〈文芸同人誌『突き抜け6』(2013年11月発行)収録〉

   月

 ひきだしをぜんぶ引っこ抜いて逆さにしても、重ねた古雑誌のあいだをバサバサと広げても、一本も鉛筆が出てこない。生ぬるい風が部屋に押し入ってくる。ああ、またやってしまった、頭が重い。遠くで痛みが鈍い。買ったばかりの長い鉛筆の丸くコーティングされた尻で、首の奥のほうをぐりぐりと押されているようだ。その鉛筆、くれ。ベッドの下に脱ぎ捨ててある短パンのポッケをまさぐる。裏返しても、軽い小銭が数枚とラーメン屋でもらったガムとタバコのカスしか出てこない。
 紙、紙は、紙ならある、と、ガムを口に放り込んでその包み紙は今必要なメモをとるには充分な面積で、いや鉛筆がないのに紙があったってどうしようもない。韮井は鉛筆を買いに部屋を出なければならない。鉛筆なら、部屋を引っかき回して紙幣を探さなくてもポッケから掘り起こした数枚の小銭で釣りがくる。金額の問題ではなく、なぜこういつも鉛筆をなくしてしまうのかと韮井は自分にいらつくのだ。それがまるで自分の中に書くべきことがないかのようでそれが許せない。許しきれないから何度なくしても何度も買い直してポッケに放り込み持ち歩くのである。何度なくしても。高くないし。
 鼻先にランチタイムの排気が届く。日は高くしかし暑さはそれほどでもなく、空は雲ひとつなく青く澄みわたっていて、巻かれたカーテンを風が揺らしながら部屋の中へ吹き込んでくる。この部屋は風通しがいいことがなによりも韮井の気に入っている点で、それだけは譲れなかった住まいの条件で、だから、隣のビルの排気口が窓の近くにあることなんてたいした問題ではないのである。油と脂の創造物が脳裏に浮かぶ。食べるものはないからガムを出しタバコに火をつける。口の中が乾いてニチャニチャしているので、水道をひねって、この国で一番うまい冷たい水を飲む。
 その足で風呂場へ行ってシャワーを浴びて、しばらく浴びて、飽きてきた頃にやめて出てきて新しいパンツをはく。新しい短パン、新しいTシャツ。ようやくすこし落ち着いて、さっぱりとした頭に思考が行き渡り始める。韮井はまず何をしなければならないか。窓の前に立ち、大きく息を吸い込む。唐揚げ定食のにおいがする。大きく吐き出して、ガラス屋に電話をかける。
「韮井だけど」
「おう」
「うちの窓ガラス、たのめる」
「どんな感じ」
「枠しかない感じ」
「あいよ」
 机の大皿に盛ってある紙幣と小銭と部屋の鍵を引っつかみ、紙幣を几帳面に折り畳んで短パンのポッケにしまう。韮井の足の形にくぼんだサンダルをつっかけて、鍵かけて、鍵を消火器の陰に飛び出たボルトに引っかけて、鉄の階段をカンカンと降りる。

 月曜の商店街には昼食を求めてオフィス街から流れてきた小集団がごった返している。平日の昼間だけ営業するおにぎり屋の前には財布と携帯電話だけを片手に制服女性たちが列を成す。カウンターの向こうではパートのおばちゃんたちが、オフィス街全員のお母さんのような顔をして、注文を受けてから一つひとつ丁寧に、手早く握っては海苔を巻く。十字に交差する商店街の中心、ロータリーになっている中心の噴水のまわりに、おにぎりやサンドイッチと水筒をかたわらに置いて制服女性たちが脚を組む。天気がよいことはよいことだ。暖簾の隙間から食堂の中をのぞきこむとカウンターはもちろんテーブル席までおそらく相席だろう、背広男性たちが身を寄せ合って茶碗の飯をかきこんでいる。彼らはみな、黙々と咀嚼を繰り返しながら昼のテレビを眺めている。しあわせそうだ。
 タバコ屋の角を左に折れてすぐ、文具店の引き戸をカラカラと開ける。「いらっしゃい」とくぐもった店主の声は明らかに昼食中である。カウンターの向こうでたぶんコッペパンを頬張っている。韮井のほかに客はだれもおらず、引き戸をぴしゃんと閉めた途端に商店街の喧噪が遠ざかり、空気が止まる。「おう」「おう(もぐもぐ)」大人の男がすれ違うことが難しいくらいの通路をぶらぶらと歩くのが、韮井はけっこう好きである。天井に届きそうな高さの陳列棚に、うずたかく積み上げられた文房具は書く消す切る貼る留める等々、用途により区分けされいつ見ても整然としていて異様な光景をつくっている。時折入れ替わる新商品コーナーを除けば顔ぶれは変わらないはずだが、この店内を歩く度に発見があるという確信が韮井にはある。
 まあ、買うものは決まっているのだ。天井まで届く鉛筆の壁の前で、すう、と鼻から息を吸い込むと木と芯のにおいが目の奥まで入ってきそうなほど。すいと鉛筆を一本つまみあげる。銘柄はそのときの気分に合った色の軸を選ぶ。葉巻を嗅ぐように鼻先ですいすいスライドさせながらレジカウンターへと向かう。韮井は上機嫌だ。店主はコッペパンを牛乳で流し込む。
「おまえ、またなくしたのか」
「悪いか」
「まさか使い切ったわけじゃないよな」
「いいだろ売れるんだから」
「いいけど安いだろ」
「安いから買うんだろ」
「安いからなくすんじゃないのかい」
「高かったら買わないよ」
「鉛筆なしで生きていけるのか」
 ぐう、と韮井は言葉につまる。
「そのときはパソコン買うよ」
 カウンターの裏側にまわり、居住スペースに上がる手前の土間のような作業場に腰を下ろす。パンチングボードから何本も突き出た木ねじにハンマー、スパナ、ヤスリ、ドライバーなどが引っかけられてさながら「見せる工具箱」状態なのは、店主が工場勤務だった頃におぼえたノウハウだそうだ。ノコギリを手に取り、買ったばかりの鉛筆を半分に切断する。断面の側を、今度はカッターナイフで丁寧に削る。段ボールの切れ端を小さく切り取り、鉛筆の先に巻き付けてつくった筒の片方をつぶしながらガムテープで留めて、キャップにする。その一連を店主は、プチあんドーナツを食べながら眺めている。四個入った袋を韮井は受け取り一個食べる。
 二本になった鉛筆を短パンのポッケに放り込んで店を出る。

 銀行と証券会社と地下直結の巨大なオフィスビル群がガラスの壁面で午後の日射しをキラキラと照り返すのを目を細めながら歩く。ここは歩道がすこし広い。街路樹もある。街路樹は青くて深い。ときどき入る木陰が急に涼しい。右手だけポッケにつっこんで、ポッケの中の二本の鉛筆をかちゃかちゃクルミのようにもてあそびながら、すれ違うスーツにパンプスとパンティストッキングの脚にときどき振り返る。学生らしき男女がちらほら、ファッションビルが立ち並ぶ大通の方面へと向かうのが見える。観光客は一人もいない。風が吹き、潮の香りがして、カモメがビルの上を舞う。
 ガラスの壁面と壁面の間の小路を入り、突き当たりのコンクリート壁のビルに入ると急に涼しい。古ぼけたエレベーターに乗って七階まで昇り、ドアが開け放たれた一室へと入る。中には机のパソコンに向かってキーボードとマウスをカタカタカチカチと繰り返す男女が一組、そしてソファに寝そべる社長が一人。窓からはドアに向かって風が抜けているが、左右のビルのガラスが照り返す光が、ソファに寝そべる社長を執拗に熱している。社長は汗だくである。
 台所の冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して、ローテーブルを挟んだ社長の向かい側に座る。ぷしっ、という音に社長は眼を開け体を起こす。「おう」「おう」韮井は一気に半分くらい喉に流し込み、社長にプチあんドーナツを差し出す。
「社長いいですか」
 男社員のほうに呼ばれて社長はパソコンの画面をのぞきこみ、しばらく黙って顎髭をじゃりじゃりねじった後、その指先で画面の何点かを指さし確認するように指し示し、口の中でぶつぶつ何かつぶやいた後に
「いんじゃない」
 と言ってその指でプチあんドーナツをつまんで食べる。韮井は二本目の缶ビールを取りに行く。社長も続く。
「韮井、カニ釣りしたことあるか」
 ぷしっ
「カニ釣り」
 ぷしっ
「海でさ、岩場の海、波打ち際とかで」
「針金の先にエサつけて」
「そうそう」
「こんな、ちっこいやつ」
「そうそう、ちっこいやつ」
「あのカニ、なんていう名前ですか」
「知らないけど。やったことあるか」
「ありますよ、最近やってないけど」
「そりゃ最近はやってないだろ」
「まあそうですけど」
「エサなにつけてた」
「なんでしたっけ」
「なんだっけな」
「…イカ。たしか。さきいか」
「あ、さきいかあるぞ食うか」
「あ、どうも」
「すごいあるぞ」
「すごいありますね」
 がさがさ
 もぐもぐ
「イカじゃなかったな俺は。なんだったかなあ」
「イカでしたね俺は」
「やりたいんだよ、カニ釣り」
「やればいいじゃないですか」
「やらないか」
「え」
「やらないか」
「カニ釣って、釣ったカニはどうすんです」
「食べるよ」
「え」
「食べなかったか」
「食べなかったですね」
「あれな、火を通すと赤くなるんだよ」
「知りませんよ」
「じゃあ、どうしてたの」
「飼ってました」
「うっそ」
「たぶん」

 大量のさきいかが投下されたことによって缶ビールの速度に拍車がかかり、しまいにはパソコンに向かっていた女社員、続いて男社員が加わって酒盛りとなる。そのまま食べてもうまいさきいかを男社員がフライパンでバター炒めなどにアレンジしたものだから、四人は笑いが止まらない。「俺さあ、事務所の冷蔵庫を開けたらいつだって缶ビールがズラーッてきれいに並んでる、そういう事務所を持つのが夢だったんだよね」と社長が泣き出す。夢を叶えた者としての涙を流す。女社員と男社員がこの前までつきあってたけど別れたということを告白し、社長はひどく狼狽する。韮井は知っていたので狼狽する社長の姿に驚く。窓の外はすっかりオレンジ色に包まれている。カラスの家族が鳴いて帰っている。原稿用紙を十枚わけてもらい、二つ折りにして手持ちで事務所を後にする。
 紫色に変わりつつある清らかなオフィス街は疲労と昂揚が入り乱れた浮ついた空気に変化しつつあって、携帯電話の画面とにらめっこしたり耳にあてたりしながら、男や女が駅の方向や盛り場の方向へ散り散りに歩いているので昼間より歩きにくくなっている。風も、昼間よりやや強い。Tシャツと短パンでも寒くはないが、長袖長ズボンでも心地よいかもしれない。首からIDカードを下げたままでコンビニエンスストアのレジに並ぶ人々は、再びオフィスへと帰ってもうひとがんばりするのだろうか。彼ら彼女らは家に帰って食事があるのか、ないのかそれはわからない。
 商店街は昼に勝るとも劣らない賑わいを見せていて、昼と違うのは子どもたちが多いことである。子ども、といっても幼児から小中高大学生まで、韮井にとってはもうひっくるめて子どもなので、その総人口たるやなかなかのものだ。学校帰り、部活帰り、塾帰り、街帰り、みな思い思いの格好で小集団を形成してざわざわしている。一人で歩く子どもは一人もいない。あちこちで笑い声とともに女子の尻は揺れ男子の首は引き締まる。酔っているので声をかけそうになるが、呑み込んでうつむいて歩く。雨が降ってきたので、原稿用紙を濡らさないように気をつけながら小走りに角を曲がって鉄の階段をカンカンと昇る。
 消化器の陰から鍵を回収して部屋に入り、机の上の大皿に鍵と原稿用紙と紙幣と小銭と鉛筆二本を転がして、真新しい窓ガラスがしっかり入っているのを見届けて、カーテンを引き、窓際のベッドにごろりと寝転がる。外から雨が降る静かな音がする。窓ガラスがあってよかった。
 今日はこれで終わる。

   火

 朝一番で食堂の仕込みを手伝い、唐揚げ定食で腹を満たす。多くが開店前の商店街、閑散とする噴水のほとりで、太陽が真上にのぼる前には退散しようとぼうっとして過ごす。タバコに火をつけて息を吸い込み、吐き出しながらカニ釣りに必要な道具を考える。金物屋に行き、針金を買って、裏に転がっていた古いバケツをもらう。
 午前のオフィス街はビルの中に活力が充満しているような雰囲気がある。小集団はなく、人はみな一人で歩いている。観光客は一人もいない。コンクリートビルの七階に上がり込むと社長は出社前で男女がとてもリラックスした会話をしていて、その輪にすこし加わり、昨夕のさきいかの残りをわけてもらって社長が来る前にビルを出る。
 駅の手前で海側に折れて、そのまま真っ直ぐな道をぺたぺたと進み、真っ直ぐに大学の正門へと吸い込まれる。鬱蒼と生い茂る木々と古い建物と新しい建物と、古い学生と新しい学生とが、ゆるやかにつながりあってキャンパスができている。川が流れ、池があって、その周囲にはベンチといくつものランチタイムがある。講義がある者もない者もいて、一概に早弁とはいえないのが大学のいいところだ。近所の幼稚園だろうか保育園だろうか、幼い男女の小集団を幼い女が引率している。幼い男女たちはみなお洒落な服装に身を包み、上下で違うジャージを着ている者はおろか、ジャージを着ている者すら一人もいないのだ。韮井は立ち止まり深呼吸して、針金の先がだれかを傷つけないように気をつけながら、ううんと伸び一つ。ここにいるだけで知的なムードを身にまとえると錯覚させてくれる、麻薬のような空間である。
 裏門を抜けるとすぐに海が見えてくる。ゆるやかな下り坂を進みながら、帰りの上りを想像して韮井はすこしだけ苦い気持ちになる。潮風はいよいよ存在感を増して、細い道の両端には空き地と、ときどきやけに真新しいアパートや病院、介護施設が建っている。海に向かったベランダでたくさんの安楽椅子が揺れている。その表情は穏やかで、怒りなどだいぶ後ろに置き去りにしてきたかのようだ。そのことを韮井はすこしだけ羨ましく思う。海の向こうには山が見える。
 車通りの少ない国道を横切り、車通りの少ない高速道路をくぐり抜け、開きっぱなしの踏切を渡ると海に着く。砂浜はなく、ごつごつとした石や岩の浜である。売店が一軒だけ、飲み物と味噌おでんを売っている。茶髪の男女の小集団が一組、しどけない時間を楽しんでいる。波打ち際にほどよく足場となりそうな岩がある場所に狙いを定め、さらにその辺りで尻を置いても痛くなりにくそうな平らな場所を探す。妥協して座る。タバコに火をつけてぼんやりする。海の向こうには山が見える。雨上がりの今日は特に鮮明に見える。
 巻いてあった針金を真っ直ぐに伸ばし、先をくいくいと曲げる。その先端にさきいかを突き刺して、岩と岩の間の陰に差し込むように垂らす。波が岩の間に寄せてきて、また返す。その都度、韮井の想定より針金が細かったからか、びよんびよんと大きくしなるが、これはこれでナチュラルな雰囲気でカニを騙すにはよいのかもしれない。韮井はカニ釣りをしたことはあるが魚釣りをしたことがないのでそのへんの機微はよくわかっていないし、カニ釣りをしたという記憶だって実のところ曖昧で、像を結ぶには遙かに遠い。岩と岩の間は暗く、海の中はよく見えない。

 同級生のフルネーム、顔と、兄弟姉妹の有無、親の仕事。一年生で習う範囲と六年生で習う範囲。子どもの頃は、子どもの頃の記憶を忘れてしまうことなんて考えもしなかった。いまにしてみれば、くっきりとおぼえていることなんて一つもない。ときに近しい、ときに遠いもの同士、関連し合う事柄がひとつなぎになって立ち上がる「何らかの意味」などきれいさっぱり洗い流されて痕跡すら疑わしい。韮井の脳裏に浮かぶのは、ただの断片的なシーンであったり、ただの断片的な事実である。ブランコから落ちて背中を打って息が吸えなくなったことや、テレビで相撲を観ながらカレーを食べたことや、嘘つきがいたことや、嘘を信じていたことや、童貞だったことや、そういった記憶がただ浮かんでは消えるのみで、それも、自ら何かを思い出そうとして思い出せるものではなく、たとえば不意の誰かの問い掛けや、不意に出会う文章に、針とエサがついていて突然引っ張り上げられたりするので、自らコントロールして呼び出すことはできない。カニ釣りのことは、その事実だけでシーンを思い出すことができない。韮井のふるさとには今、海がない。これは事実である。ふるさとは絶えず上から塗り重ねられて、韮井の中に古い版が残っていない。

「釣れますか」
 振り返ると女の水着と白い体がしゃがんでいる。
「わからない」
 海の向こうの山ばかりを見て手元を見ていなかったので正直に答える。針金を引き上げると、さきいかはなくなり、針金だけになっていた。
「あー」
「うん」
「何を釣ってるんですか」
「カニ」
「あー。カニかー」
「うん」
 針金の先にさきいかを突き刺して、再び岩陰へと差し込む。水着女は韮井の隣に来て座る。
「天気いいですね」
「うん」
「こんな日は海ですよ。絶対海。学校じゃなくて」
「そうだね」
「ですよね」
 針金に手応えを感じ、そうっと引き抜くと小銭くらいの大きさの甲羅を持ったカニが一匹、さきいかをハサミでとらえていた。そうっと引き上げて、バケツの中に入れる。
「すごい」
「すごいかな」
「懐かしいです」
「懐かしいか」
「現役なんですか」
「え」
「いや、カニ釣りの現役だから、別に懐かしくはないのかなって」
「ああ、うん、いや、うれしいよ」
「は」
「うれしいもんなんだなあと思って。今でも。釣れると」
「うれしいですよね」
「やってみる」
「いいんですか」
「いいよ」

 白い体の水着女はカニ釣りに没頭し、浅黒い体の水着男女たちは先に帰ってしまう。韮井は売店で缶ビールを二本と、味噌おでんを二本買ってきて、二人の間に置く。バケツの中にはカニが十匹を超えて、急な崖を登ろうとしては水の中に滑り落ちてを繰り返す。針金がたわみ、引き上げられ、差し込まれる。太陽が傾いてきて、風が強くなって、波しぶきがときどき韮井の短パンの裾や、女の水着を濡らす。味噌おでんがなくなり、缶ビールがなくなり、どちらからともなくカニ釣りが終わる。
 風で飛んでしまわぬように石を乗せてあった服に着替えて、水着だった女と韮井は二人並んで踏切を渡り高速道路をくぐり国道を横切って、海を背に坂を上る。バケツの中には海水と小銭くらいの甲羅を持った灰色のカニが十二匹。左手、右手、バケツを持つ手を持ち替えながら、上り坂は思っていたよりもゆるやかで、喋っても呼吸が乱れるほどではない。
 裏門から大学構内に入り、木々の間を歩く。駅に向かう学生、アルバイトに向かう学生、サークルに向かう学生、居酒屋に向かう学生たちが徒歩や自転車やスケートボードで入り乱れる中を、水着だった女とカニを持った韮井は進む。キャンパスで最も古い建物の前で女は立ち止まり「じゃあ、学生が待ってるから。また」と言って、手をひらひらさせてにっこり笑って、颯爽と去る。しばらくぼうっと立っていると、四階あたりの窓の蛍光灯がついて、白衣の女がこちらに向かって手をひらひらさせてにっこり笑って、韮井はバケツが急に軽くなり、そしてすぐに重くなる。

 台所のシンクにバケツを置いて中をのぞきこむと十二匹のカニたちは元気そうにハサミをかしゃかしゃと動かし上になり下になるので、ポッケの中に残っていたさきいかをちょっとつまんで放り込んでみるとカニたちは勢い余ってひっくり返るほどで、それを台所の蛍光灯の下でしばらくながめる。
 机に原稿用紙を広げ、ポッケの中から鉛筆を取り出す。七枚書いたところで握力がほぼなくなっていることに気づいて、立ち上がると太ももにも疲労がたまっていて、今日はここまでにして、眠る。

   水

 床にあぐらをかいて、タバコに火をつけ、背筋をしゃんと伸ばそうと意識しながら一本ゆっくりと吸う。背中を丸めてタバコを吸うのは貧しい者の仕草の記号であると、かつて教わったことがあるので、それ以来妙に気にしてしまう。貧しい者。富める者。葉巻でもない限り、戦後でもない限り、どちらもだいたい同じタバコを吸っているだろうけれど。机に向かい、鉛筆を手に、原稿用紙の続きに取り組み、一枚とちょっと書いたところでその二枚を丸めて捨ててしまう。鉛筆にキャップを装着して、短パンのポッケに転がす。バケツの中はきのうと特に変わりなく、残っていたさきいかすべてを入れてやると十二匹は再び上へ下へと動き出す。両腕で力こぶをつくり、うんしょ、うんしょとカニの真似をすると案の定、肩のつけ根と背中とが疲労と痛みで悲鳴を上げる。ストレッチと脱力を繰り返しながら床を転がる。
 窓の外は明るかったが、カンカンと鉄の階段を降りてみると空気がひどく湿っていて、肺の裏側に露がつくかのようで、商店街の人通りの少なさ、通る人々の年齢層の高さ生活感の色濃さに、ランチタイムはとうに終わってしまったと韮井は気づき、シャツの裾で何度も手の汗を拭く。噴水の飛沫を浴びに風下に位置取りをして、おばちゃんの握ったおにぎりをゆっくりよく噛んで茶抜きで飲み込む。コロッケ屋で買ったメンチカツとおまけしてもらったミニカボチャコロッケに、弁当屋でもらった小袋のソースをかけて食べる。いつもよりも喉が詰まる。胸を反って見上げると、オフィス街の方面の高い高いビル群が視界の隅をかすめるが、それ以外は至って普通の、雑な電線越しの広い青空がひろがっている。襟足と顎髭が風を感じ取り、眠くなってくる。
 商店街の端まで歩き、そのまま山の方へと歩き、交差点の信号を渡るとすぐさま閑静な住宅街に切り替わる。交差点の信号機の発する二種のBGM以外にはほぼ無音の一帯を、ぺたぺたとサンダルの音を響かせながらいつもの角をいつものように折れ曲がりながら進む。何度見ても見慣れることのないたぶん一生見慣れない、ついつい口の端から笑いが漏れてしまうような大きさとデザインと素材の一軒家ばかりが等間隔で並ぶ街並みを冷やかしながら、わざとらしいほど三角形の山がどんどん近づいてくる。小さなワゴン車が車道にはみ出ている駐車場めがけて韮井は歩くが、ワゴン車は外出中のようでそのスペースがぽっかりとあいている。花屋の入口にたどり着く。
 花の名前を知らない韮井にやさしいこの店は、花にいちいち名札がついていないのがいいところだ。美術館で作品を観ずにキャプションばかりを読んでいる人間がいるだろう。そのことがどういうことかをまずはじっくり考えてみるといい。別に個人の自由だけれど。あくまで、たとえばの話である。奥でパソコンをいじっていた妹が、メモ片手に店頭に姿を現す。
「いらっしゃいませ。ああ」
「おう」
 色数の多い店内には、モスグリーンベースのエプロンを身ぎれいに着こなす妹と、サンダル、短パン、襟付きのオフホワイトのシャツを着た兄との二人きりである。
「忙しいか」
「そうでもない」
「そうか」
「うん、そう」
 陳列された花々に目を配りながら、ときに手で触れ、花弁や葉の様子を時間をかけて観察し、触診するかのように目を閉じるのが妹の商売の仕方である。兄は黙ってそれを見ているが、やがて勝手に店の片隅の踏み台に腰を下ろす。そう広くない店内をぐるりと回って花々に挨拶を終えた妹は、手元のメモをちらりと見やり、ひょい、ひょいとテンポよく花を選んでいく。「どいて」といわれて踏み台から立ち上がり、傍らに身をかわして妹の仕事ぶりを眺め続ける。けっこうな数の花を手に妹はレジの向こうの作業台に移って、輪ゴムとハサミと薄い紙の音を響かせる。ぱちん、しゃきん、がさがさごそごそ、がさっ。よしっ。
「忙しいの」
「そうでもないよ」
「また行くの」
「そうだよ」
「いつ行くの」
「今日」
「あ、そう」
「うん」
 妹はレジを開け、紙幣を封筒に滑り込ませて兄へと渡す。
「私の三日分」
「うん」
「ちゃんとしてから行きなさいよ」
「ちゃんとしてないかな」
「ぼさぼさじゃない」
「そうか」
 車の音がして、音がやむ。妹がつくりたての花束を持って外に出て、メモと一緒に夫に渡す。ばたんと車のドアが閉まり、音が遠ざかる。韮井は花屋を出てまわりを見る。午後なのに、朝靄がかかったような白けた空気に顔をしかめる。浅いピアノが聞こえる。三角の山の青さだけが深い。

 仰向けに座らされ、顔面にたっぷり塗られたクリームの上から、熱々の蒸しタオルを押しつけられる。久しぶりの感覚に一瞬うろたえながらも、すぐさまその気持ちよさに呑まれてしまい、ざわつきかけた感情が凪ぐ。隣の席では餅屋の主人と、床屋の主人が野球の話をしている。野球の話はいい。毒がない。冷房のよくきいた室内で、顔面だけが熱く蒸し上げられていく。床屋の主人の若い嫁がタオルを外し、韮井の顎と頬をぐっと拭った後に、再び温かいクリームをたっぷりと刷毛で塗りたくり、細くて冷たい指を滑らせ、あてがい、剃刀の刃をあてがい、滑らす。そりそりと剃られる。薄目を開けてみると若い嫁の胸元が近すぎてピントが合わないのでやはり眼を閉じる。椅子を起こされ、耳の裏や首筋に剃刀があてられる。そりそり。
 若い嫁と入れ替わりに主人が後ろに立ち、櫛とハサミを器用に使い始める。しゃきしゃきと快活な音を立てながら韮井の前後左右に髪の毛が落ちていく。白いのがだいぶ混じっているのが見える。ぎらりと光る銀色もあれば、色を失ってぱさぱさになったような白もある。大部分を占めるのは黒だが、その黒にもツヤのあるのと、ないのとが混在しているように見える。「多いよねえ」と主人がうなる。
「増えたかな」
「増えはしないでしょ、元々多いんだよ」
「そうかな」
「多いでしょ元々、髪の毛」
「あ。ああ、うん」
「硬いしさ。倍払ってもらわないと」
「そりゃ、ハゲのほうがラクだろうけどさ」
「なに言ってんの、逆、逆。ハゲのほうが大変なんだよ」
「そうなの」
「ハゲかたが一人ひとり違うからさ、あるはずのところになかったりさ、それでちゃんと仕上げようとすると、けっこう頭使うんだ。失敗も許されないし、気も遣うし」
「そういうもんか」
「このくらい多いと、多少失敗してもなんとかなるから、まあ、適当にざっくざく切れてこれはこれで」
「ちゃんとしてくれよ」
「してるだろ」
 もっさりとした黒と白の毛の山を払いのけ、前屈みになり頭を洗われ流され、スースーする液を頭皮にもみこまれる。立ち上がりしな、餅屋の主人の頭がふさふさしているのを見て、ふさふさしているのを確認せずにいた自分に気づき、背筋が凍る思いをする。封筒から紙幣を取り出し、若い嫁に支払う。釣銭といっしょに細くて冷たい指が韮井の手に触れる。顔を上げると若い嫁はにっこりと微笑みこちらの顔をじっとのぞきこんでいる。冷房に後ろ髪を引かれながら、坊主に近い頭をしゃりしゃりと撫でて床屋を出る。外は蒸篭のような空気で、しかし、やわらかくなる髭はもうない。

 学生はまだ学校や部活や塾にいて、大人はまだオフィスにいるだろう。夕方と呼ぶにはまだ早い午後、商店街を歩いているのは老人だけである。しゃんしゃんと腕を大きく振って歩く老婆も、亀の速度で前進することしかできない老爺も、その眼は今日の厚い雲の下で鼠色に濁って見える。顔に、手に、深く刻み込まれた皺の一本一本が彼ら彼女らの何を物語るものなのか、一瞥するだけではわからない。「深い」と言っておけばいいんだろうというくらいの、曖昧な態度を取ることしか韮井にはできない。気がつくと同じ往来を何度もいったりきたりしている。
 餅屋に入るとお嬢ちゃんが一人で店番をしている。餅屋の主人はまだ帰ってきていないということは、きっと床屋で話し込んでいるのだろう。毒にも薬にもならなくて、健康的に興奮できる野球の話。ガラスケースの中に並べられた、見るからにやわらかくて美味しそうな餅を四つ、包んでもらう。一つだけ別に包んで、と頼むとお嬢ちゃんはほんの一瞬だけふくふくとした愛らしい顔を強ばらせ、すぐさま納得したように返事する。その一瞬が実にとうといと思う。ビニール袋にまとめてもらう。
 餅屋を出ると、目の前の通りは老人が増量している。速度も顔の高さもばらばらな老人に衝突しないよう気をつけながら進む。老人は見る見るうちにますます増え、その激しい流れの中を押し合いへし合い、くるくる回りながら進む。買ったばかりのやわらかくて美味しそうな餅がつぶされてしまわぬように腕でがっちりガードして空間を確保しながら、かといってその腕で、肘で、老人を傷つけてしまわぬように、老いの激流をできるだけやわらかな手つきでかきわけかきわけ、ときに潜り、ときにその上に乗りながら、ほうほうの体で商店街を抜け、体を引きずって駅にたどり着く。
 土産物屋と飲食店が並ぶ駅の地下は、修学旅行生しかいない。学生服に、大きなボストンバッグを肩から掛け、両手に紙袋がぱんぱんに膨れている。男子も女子も、美しい髪が揺れる。全員がずっと何かをわめき続けているが意味のあることはなにも言っていない。脚は肉づき、胸はふくらんでいる。ベンチに座り、さっき別に包んでもらった餅を一つ、ゆっくりよく噛んで食べる。やわらかくて美味しくて満足しながら、いつまでやわらかいだろうかと不安になる。急いで立ち上がり、封筒から紙幣を取り出し切符を買い、地下鉄に乗って端っこの車両の端っこの席を確保する。空港行きに乗る客は誰もいない。脚を組み、すね毛を毟り、餅を抱いて眠る。

   土

 きらりと光る伸びかけの髭はじゃりじゃりと気持ちいいけど触りすぎてしまうので肌が荒れる。さっぱりとした気持ちの持続力はせいぜい数日、もって一週間、場合によってはすぐに消えてなくなってしまうこともある。たとえば髭を撫でることに心を奪われている自分に気がついた、そのとき。ああ、澱んでるな、と思う。喫茶店の窓際のテーブル席で低すぎるソファに身を沈めて、薄いアイスカフェラテをすすりながら薄暗いガラス越しに閑散としたオフィス街をぼんやり見ている。ときどき人がこちらを見て目が合うが、向こうからこちらが見えているのかどうかはわからない。
 時差ボケ的な眠気が韮井を襲う。的な、であって、時差ボケではないはずなのだが、それでも体の中のリズムが狂っているのは確かなようで、疲れてはいないのに倦怠感があり、血色はよくなっているはずなのに、手足の指先が冷えているのでさすってばかりいる。軽く痺れているようにも感じる。体がどんどん重くなり、低すぎるソファにずぶずぶと沈んでいく。グラスの氷はもうとけてしまっている。マスターが水を注ぎにくる。注がれるままに韮井は窓の外に顔を向けたまま。
 緊張していた気持ちがほどけてはじめて、自分が張りつめていたのだと気づくことがある。道理でいつもより集中力が持続していたし、いつもより多く喋ることができたものである。そして、糸がぷつんと切れた途端、まるで脳みそがつるつるの球体になってしまったように思考がすべてのとっかかりを失い、じんじんとする頭を持て余してただ呼吸するだけの人になる。

 オレンジ色の街灯がついて、マスターがレジをしめようとする音がする。ポッケの小銭で勘定を済ませて鈴を響かせながら外、爽やかな日和で太陽はいままさに沈もうとしているオフィス街。韮井は、豊かな自然に抱かれたくてたまらなく、いたたまれなくなり、すぐに海側へと折れて真っ直ぐ大学の正門へと向かう。直線道路をぺたぺたと正門へ吸い込まれ、その途端、鬱蒼と茂る木々から酸素をもぎとるように深い呼吸に酔う。歩みはゆっくり、牛歩になり、時間をかけて池のほとりのベンチに座った頃には日が暮れている。ポッケに茎わかめが入っていたので、じゃくじゃくと囓ってみる。白い街灯が照らす水面は静寂で、茎わかめを咀嚼する音だけが響いている、ように韮井には聞こえる。妹に電話をかけてみるが、留守番電話に切り替わってしまうので、ちょっと黙って、何も吹き込まずに切ってしまう。
 構内のメインストリートにじっと目をこらしてみると、ほぼ真っ暗な木立の中に灯りがついている棟がときどき見える。棟の中でもある特定の階の、ある一角の窓だけが白い光を放っていて、夏の虫のように韮井は吸い寄せられてしまう。そこは広大なこの大学のキャンパスの中でも一際味のある古い建物で、建物というよりあえて建造物と呼びたくなるようなたたずまいである。見上げると四階あたりの一角の蛍光灯がちょうど消えるところで、ああ、消えた、と韮井は思う。非常口の緑色の陰から出てきた女はすれ違いざまに不躾に大胆に顔をのぞき込んできて「あ」と声を上げて立ち止まる。
「ばっさりいきましたね」
「えっ」
「似合ってる似合ってる」
 女はひらひらさせた手を、韮井の頭に這わせてしゃりしゃりと撫でる。
「ああ、どうも」
「今日も海ですか」
「海。あっ」
「天気よかったし」
「いや、今日は。さっき帰ってきたところで」
「そうなんだ。忙しいんですね」
「そんなことないよ」
「暇なんですか」
「ひま、ではないと思うけど」
「思うって何」
 女はからからと笑い歩きだす。自ずと横に並んで歩きだすことになる。特に用事がなくとも、話が途中なのだから。

 造りから察するに昔はただの民家だったのだろう店の一階の奥の小上がりで、ふたりは自家製のコーヒー焼酎を酌み交わしている。店の中はふたりの他に数組の客がいて、テレビが小さめの音量でかかっていて、やかましくもなく静かでもなく、自分がもしこの店の主だったら働く手を止めないまでも心の中で「理想的…」と思うだろうな、という空気と音量。女は韮井に詳しく問わない。韮井も女に詳しく問わない。それでもふたりは押し黙っているわけではない。会話というのはそういうものかもしれない、酒を飲みながらであればなおさら。枝付きの枝豆を歯でしごいて、皮の塩味と毛の感触を味わう。いかの一夜干しの焼いたのにマヨネーズをつけて噛みしめる。
 女は、つまみにはほとんど手を伸ばさずに、コーヒー焼酎をただただくぴくぴと飲み続ける。猛スピードとはいわないが、ゆっくりというわけでもない。まあまあいいペースで、淡々と飲み続けているので結果的に注文することになる、というような。さほど酒豪のオーラもまとわない、本物の酒豪というのはこういうものかもしれないね、本物の剣豪が物静かに見えるように。
「なんですかそれ」
「あるじゃない、こう、いかにも俺は強いぞ、というのじゃなくて」
「本当に強い人は強そうに見せない」
「そうそう」
「会ったことあるんですか、剣豪」
「それは、ない」
「ですよね。昔かっつーの」
「昔でも会わないよ」
「そっか」
「マンガ。マンガで読んだの」
「マンガ好きですよ。好きですか」
「好きというか、読むけど」
「読みますよね」
「読むんだ」
「読みますよ」
「小説は」
「小説は、読まない」
「読まないんだ」
「読まないですね」
 くい、と飲み干したグラスを掲げてコーヒー焼酎をおかわりして、指についたのをぺろりと舐めて正面を見る。店の黄色い灯りの下でも女の肩は白い。韮井はタバコに火をつけて、ポッケに手をつっこみ鉛筆をもてあそんで、壁のメニューを端からもう一度読み直す。二日間、いやというほど食べてきたので、あっさりしたものが少しだけあればいいのだが、ちょうどいい品が見当たらない。女のコーヒー焼酎が届き、韮井は日本酒とポテトサラダを注文して、女はカレーライスを注文する。ここでカレーライスなのか。なのである。女のコーヒー焼酎がグラスの半分まで一気に減る。
「読むのが遅いから」
「いいじゃない、ゆっくり読めば」
「そうなんですけどね」
「うん」
「でも、やっぱり、なかなか」
「そっか」
 ポテトサラダもカレーライスもあらかじめ作ってあったのを基本的には盛りつけるだけの品であるから、すぐ届く。韮井は箸を、女はスプーンを持つ。
「ノーベル賞を獲るのが夢なんです」
「うん」
「でも、あと十年で研究はやめる」
「どうして」
「たぶん、もう、いいやってなる」
「ふうん」
「研究をやめて、大学には来なくなって」
「うん」
「毎日を暮らして、おばちゃんになって」
「うん」
「おばあちゃんになった頃にようやく、世の中がちょっとよくなって」
「うん」
「なんでかって話になって、それって昔の私の研究がすごかったぞっていうことになって、それでノーベル賞」
「それが夢」
「そう。素敵でしょ」
「素敵だね」
「あと十年なの」
 銀色のスプーンがポテトサラダをすくう。えぐれた断面の茶色を、箸がそっとつまみあげる。
「あと十年」
「そう」
「いいね」
「いいでしょ」
 カレーをすくったスプーンが韮井の口へ乱暴に入る。

 ウイスキーの瓶のせいで、ビニール袋が指に食い込んで痛い。カンカン、カンカンと鉄の階段の、一歩一歩が太ももにこたえる。つまづいてバランスを崩しかけたところを、背中の手にひらひらと支えられて進む。
「意外」
「なにが」
「部屋がきれい」
「物がないだけ」
「それがいいの」
 三日間も閉め切られた部屋の中は生ぬるく、湿気が高く、ほのかに海のにおいがする。女はビニール袋からさきいかを出して、台所のバケツをのぞき込む。
「これ」
「そうだよ」
「ほんとに」
「うん」
「いないよ」
「うそ」
 韮井も女の横に立つ。肩と肩がくっつく。冷たい。バケツの中の海水は薄汚れて、中にはたしかになにもいない。
「逃げちゃったか」
「逃げるの」
「そう。前もそうだった。子どものとき」
「どこ行っちゃったんだろ」
「わかんないなあ」
「海かな」
「まさか。だいぶ遠い」
「でも、海以外にどこに行くの」
「そうだなあ」
「そうでしょ」
「海かもな」
 薄暗い部屋の台所でふたりは、買ってきたさきいかを囓りながら、ぼんやり薄汚れたバケツの海水の、ゆらゆら揺れるのを眺めている。どこに行っちゃったんだろうなあ。でも、行くよな。行かなきゃいけなかったんだもんな。韮井は、その行動に深く共感する。十二匹が力を合わせて脱出したその光景に思いを馳せて涙しそうになる。女は窓際に歩く。薄暗い部屋の中でも、女の横顔と肩は白い。カーテンを引く。白は消える。

   日

 雷の音で目が覚める。窓の外から重苦しい光が漏れてくる。全身がだるくて起き上がれないので、できるだけそのまま落ち着いていようと決めるが小便が我慢できなくて、結局起きる。体を起こすと痛い。台所にグラスと、空っぽのバケツが洗って伏せられている。この国で一番うまい水道水を飲む。
 風呂場に入るとほのあたたかく、ほのかに海のにおいがする。頭からシャワーを浴びて、浴びて、浴びまくる。考えがよくまとまらないが、そもそもなにを考えているのかも、考える必要があったのかもわからない、というところまでなんとか辿り着いて、シャワーをやめる。髪の毛はタオルでごしごし拭いただけでほぼ乾き、新しいパンツをはいて、新しい短パンと、新しいTシャツを着る。鉄の階段をカンカンと降りる。
 商店街を歩く人間は韮井を除いて誰もいない。メインの通りの右も左もシャッター、あるいは暖簾のかかっていない、あるいは中の灯りがついていないガラス戸が並ぶ。においがない。雲が厚くて低い。噴水のほとりに座り、誰もいないのでタバコに火をつける。飛沫が冷たくなってきて、すぐに消す。
 車通りのまばらな通りに出て、不安な色の街路樹の下の広すぎる歩道を歩く。ガラスのオフィスビルは灰色にしか見えない。通行人はスーツケースを転がす観光客しかいない。道を聞かれないように早足になる。ガラスの壁とガラスの壁の間の小路にようやく逃げ込んで、突き当たりのコンクリートのビルの七階にエレベーターで昇る。事務所の扉は鍵がかかっていて、小窓から見える中は暗い。郵便受けに、丁寧に折り畳んだ原稿用紙を差し込んで立ち去る。
 海に向かう道を行こうとして立ち止まる。カモメの鳴き声も聞こえないし、潮のにおいもしない。来た道を足早に引き返す。
 商店街を抜け、山の方へ向かう。Tシャツの下に浮かぶ汗が体を冷やす。笑えるほどデザインされた家の駐車スペースからはほとんど車の姿が消えていて、見えないけれどおそらくは人の姿も消えている。ピアノの音が聞こえない。打楽器の音も聞こえない。花屋はシャッターが下りていて、車もない。低い雲に隠れて、山頂の姿が見えない。歩いても歩いても、山は近づかない。住宅街は途切れ、突然視界が開けて河川敷になる。誰もいない野球のグラウンドの、きれいに整えられた内野の土に引きずるような足跡をつけて、韮井はマウンドに立つ。ホームベースのほうを見て、その後に一塁、二塁、三塁、外野までを順番に見回す。かぶってもいない野球帽のつばをつまんでかぶり直したふりをして、キャッチャーのサインに首を振り、首を振り、振りかぶって速球を投げ込む。ずばーん、と口で言ってみる。三球目を投げようと振りかぶった瞬間にに雷が光り、投げた途端に音が響いたので、魔球かと思う。誰も見ていなかったので帰る。ぱらぱらと雨が降ってきたので帰る。

 部屋の中は暗いが、まだ午前中である。雨に濡れたTシャツと短パンを脱ぎ捨て、パンツと一緒に洗濯機に放り込む。風呂場に入ってシャワーを浴びて、新しいパンツをはいて、新しい短パンとTシャツを着る。洗濯が終わり、洗濯物を室内に干す。時計を見る。正午を回ったばかりである。
 妹に電話をかける。今度は出てくれる。
「どしたの」
「行ってきたよ」
「うん」
「おう」
「どうだった」
「変わらず、いつも通り」
「そうか、よかった」
「おう」
「なんかあった」
「いや、別に」
「そうか、よかった」
「おう」
 電話の向こうの向こうで、幼い子どもが、わめき散らす声が聞こえる。
「大丈夫だった、今」
「んん、まあ」
「悪い」
「いいけど」
「あのさ、こんなこと、いまさらなんだけどさ」
「なに」
「すこし縮んでた」
「いまさらだね」
「そうなんだけどさ」
「私たち、いくつになったと思ってんの」
「そうなんだけどさ」
「そうでしょ」
「野々乃原のほうには顔出してるのか」
「出してるよ。今いるよ」
「あ、ああ、そうか、悪い」
「いいって」
「おう」
「じゃあ」
「おう。あ」
「なに」
「カニ釣り行ったの、おぼえてるか」
「どしたのいきなり」
「悪い」
「おぼえてるよ。針金で釣るやつでしょ」
「そうそう」
「おぼえてる。細かいところまではおぼえてないけど」
「釣ったカニ、飼ってただろ」
「ああ、飼ってたね」
「あいつら、どこに行ったんだろうな」
「どこにって」
「何日かして、見たら、もう一匹もいなくて」
「どこにって、海でしょ」
「海まで自力で帰ったのかな」
「海に帰したんだよ」
「えっ」
「私と父さんで」
「えっ、そっ、そうだっけ」
「カニ釣りに行った次の日から、私と父さんで、毎日、バケツ持って、海に歩いて行って、海水をくんできて、カニの水をかえて。で、何日かして、これは厳しいね、って。重たいね、って」
「そうだっけ」
「飼えないねって。それで」
「そうか」
「どしたのいきなり」
「いや、ありがとう」
「いいけど。じゃあね」
「おう」
 電話を切って、ベッドに放り投げる。ベッドに寝転がって窓の外を見る。強い雨が降っている。部屋の中が暗い。台所からウイスキーとグラスを持ってきて、ベッドに座って飲む。タバコに火をつける。煙を深く吸って吐き出す。煙を深く吸って吐き出す。呼吸が見える。口の中が乾いてニチャニチャする。ウイスキーで口の中をぐちゅぐちゅとしてから飲み込む。タバコに火をつける。煙を深く吸って吐き出す。まずくて火を消し、ウイスキーを飲む。タバコに火をつける。まずくて火を消す。窓を開けるが、部屋の中の煙は動かない。窓を閉める。時計を見る。昼である。
 部屋を出る。歩く。商店街を抜けオフィス街を抜け駅前の角を海の方に曲がりまっすぐな道を抜けて大学の正門へと滑り込み、誰もいない木々と川と池とを見もせずに歩く。明るい窓は一つもない。あの窓も明るくない。裏門を抜けてゆるやかで細い下り坂を進む。安楽椅子は見えない。国道を横切り高速道路をくぐり踏切を渡って、目の前に灰色の凪いだ海が広がり、韮井はようやく立ち止まる。すっかり息が上がっている。タバコに火をつける。なんとかつく。煙は韮井にまとわりついて流れていかない。けむい。石に座り尻を濡らす。全身が濡れている。雨の海には誰もいない。誰も話しかけてこない。帰る。

 服を脱ぎ捨て風呂場に入りシャワーを浴びる。頭からシャワーを浴びながら深呼吸しようとして鼻に湯が入ってむせる。新しいパンツと短パンとTシャツを着て、ベッドに寝転がる。布団は湿っている。
 昨晩のことを思い出す。繰り返し繰り返し、同じようで全て異なる波のように何度も繰り返す、その動きを反芻する。海のことを思い出す。この前の海のこと、もっと前の海のことを思い出す。この部屋に住み始めた頃のことを思い出す。しばらく本当に物がなかったときのこの部屋のことを懸命に思い出す。いろんな人と、初めて会ったときのことを思い出す。思い出そうとするが、すればするほど濃い霧がかかって進むことができない。ときどき、ぱっと晴れる瞬間があって、鮮明にシーンが浮かぶのだけれど、でも、それはやはり前後と切り離されたシーンの断片でしかなく、だから何、というだけで終わる。この街に来る前のことを思い出す。まだ黒々とした髪がふさふさとしていた頃の。いや、それは写真で見ただけだったのだろうか。わからない。何度も巡ったはずの季節を逆回転で回して、やがて無回転となり、不規則に揺れて落ちる。
 腹が減ってくる。目を開けているのか閉じているのかわからないので、そのままでいようと思うがこらえきれずに手探りで台所に立つ。わかってはいたが、さきいかしかない。さきいかとウイスキーとグラスを机に置いて、囓り、飲む。タバコに火をつける。
 机の上に原稿用紙が一枚残っている。鉛筆も転がっている。原稿用紙を真っ直ぐに広げて、鉛筆を握り、姿勢を正す。Tシャツの下で汗が胸を流れ落ちる。息を吸って吐く。鉛筆は進まない。息を吸って吐く。動かない。二酸化炭素が部屋の底に沈殿して、床が抜けそうになる。
 韮井は立ち上がり、椅子を窓に投げつける。ぐしゃぐしゃの音がして、カーテンが翻り、部屋に風が吹き込んでくる。「馬鹿野郎」という野太い罵声と、夕餉のにおいがいっしょに入ってくる。飛んでいきそうな原稿用紙をつかまえて、必死で押さえつけて、たった四百字の小説を立ったまま書く。ウイスキーの瓶から残りを直接ぐびりと飲み干して、ベッドに寝転がり、おなかが冷えないようにタオルケットをおなかにかけて、静かに目を閉じ、思い切り息を吸い込んで、肺の中に転がして、ほっとする。雨が顔にばらばらと降りかかる。顔中ぐしゃぐしゃになる。やがて疲れて眠りに落ちる。
 今日はこれで終わる。

〈了〉

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