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『鬼滅の刃』を仏教的に解釈すると現代の法話が見えてくる

単行本の累計発行部数が1億部を突破し、異例の大ヒットを飛ばす『鬼滅の刃』。ざっと調べてみると、シリーズ累計2700万部の『ふたりエッチ』(既刊82巻)の3.7倍売れている。かつて『ONE PIECE』が史上最速で1億部を突破したのは36巻でのことだったので、どれだけ異様な人気なのかがわかる。

人気は聞いていたものの、品薄もあり、これまでどんな話なのかすら知らずにいた。(女の子が竹筒を咥えているのは、中に入った痛み止めのモルヒネをチューチュー吸うためだと思っていた)

が、最近になってようやく読んでみたところ、意外にも仏教的なテーマが非常に濃く感じられて面白かった。
なので、『鬼滅の刃』のどこが仏教的なのか、同作のポイントをまとめてみる。

※単行本22巻までのネタバレあり
※アニメ未見


壱ノ型 鬼と鬼殺隊の対立構造

『鬼滅の刃』では、人間を捕食する鬼と、その鬼から人間を守るために戦う鬼殺隊との対立が描かれる。

○鬼……鬼舞辻無惨を頂点とする血縁集団。無惨の血が濃い鬼ほど強く、明確な序列がある。
○鬼殺隊……情緒によってつながる武力集団。実力に応じて階級が別れるが、役割分担の側面が強く上下関係は薄い。

鬼殺隊は武力集団なので生産活動を行っていないことになる。また、政府非公認という点が作中で2回指摘されており、隊士の大半が鬼によって家族を奪われており、すなわち家を失っている。
つまり、鬼殺隊は出家者の集団である。出家とは単に家を出て宗教的コミュニティに入るだけでなく、修行のために一切の生産活動をやめて在家の施しで暮らしていくことである。
作中でも、鬼殺隊を支える藤の家紋の家が登場したが、彼らがその在家に相当する。(※釈尊は出家者に対して、生産活動に従事しないよう説いている。ただしこれは原始仏教においての話であり、在家信者が主な担い手となった大乗仏教では、勤勉が美徳とされるようになっていく)

なぜ政府非公認かといえば、政府に所属する武力集団――軍や警察であれば、鬼殺隊はまつりごと(神事)を司る司祭階級ということになる。仮にそうだとすれば彼らが鬼と戦うのは儀式であり、したがって炭治郎のような個人的な動機によるドラマは生まれにくいだろう。

では出家者が修行する目的はなにかといえば、宗派によって違いはあるものの、おおむね煩悩を滅して悟りを開くことであるといえる。

煩悩とは苦しみを生む元であり、仏教では、人間は際限のない欲望のせいで現実を直視できずに苦しみが生じるとされる。
人間は必ず年をとり、病気になり、いずれ死ぬ。生きている限りこれは100%直面する。だが「死にたくない、年をとりたくない」という煩悩によってその現実から目を背けると、思い通りにならない現実との齟齬によって苦しみはますます膨れ上がっていく。
仏教ではこの世の苦は主に、生・老・病・死の4つであるとして、これを四苦と呼ぶ。さらにもう4種類の苦を加えて八苦と呼び、四苦八苦という言葉はここから来る。

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無惨に4つの苦しみを与える珠世。生から死への変化は、人間が絶対に避けられない苦しみである。

仏教とは、この世界を思い通りにコントロールしようとする内面的な動きを抑えて、そこから生じる苦しみをなくそうとする教えである。

『鬼滅の刃』では、”人間は簡単に死ぬ”ことが何度も何度も繰り返し強調される。
鬼との戦いで手足を失えば二度と取り返しがつかないし、どれだけ強くても死ぬときは死ぬことが、嫌というほど描かれる。
怪我や死を思い通りに操る魔法は存在せず、常に変化し続ける。人間が死ぬのも生から死への変化であるため、まさに諸行無常である。

諸行無常とは、けっして情緒的な観念ではない。
物質は原子から構成されているが、その原子は常に運動をしている。温度は原子の熱振動によって規定されるため、古典力学において理想気体は絶対零度で静止するが、仮に-273.15℃を実現できても量子力学的には原子の運動が止まることはない。
すべての物質は常に動き続けている。この宇宙に永遠不変は存在しないのだ。

死から目を背けても決して思い通りにはならず、苦しみが膨れ上がってしまう。これを説く経典の1つに、九相図というものがある。
死体がうじが湧き、腐敗して肉が溶け、骨だけになり、やがて灰になるまでの様子を描いた絵であり、これを見ることで肉体は永遠不変のものではないことを認識するのである。

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これに対して鬼はといえば、煩悩のかたまりとして描かれる。
鬼舞辻無惨は病気を癒やし死から逃れるために鬼となり、永遠の命を求めている。

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永遠不変の主体があると考えて固執することを我執と呼ぶ。仏教では、病気や死(四苦)そのものが本当の苦しみなのではなく、避けようのない死を逃れようとする不可能な考えに執着する心こそが苦しみを生む源であるとする。
永遠の主体を求める無惨は、まさに我執にとらわれていると言えるだろう。

無惨以外の鬼は、死に際に人間であったころの記憶がよみがえる。不老不死の体を誇り、永遠の生を謳歌する彼らだが、実は人間の頃の出来事に無意識に影響を受けていることが分かる。
ここで自分が人間であった(=不変だと思っていた鬼の体が実は人間から変化したものである)ことを認めた鬼は、死によって救われたように描かれる。
一方で、戦いに負けたことを認めず、現実から目を背け続ける鬼は、見苦しく死んでいく。
鬼になる以前の人間だったころの彼らは、嫉妬や怒り、不満や愛への渇望など、人間関係の中で苦しみ、傷ついてきた。
人間と対立する別個の生物として振る舞う鬼たちだが、その実は彼らのパーソナリティは人間社会の中で相互に影響を与え合うことで成立するものであったことが示される。
人に仇なす鬼たちだが、彼らは生まれついての大悪党ではなく、周囲の様々なものや現象に影響を受けながら鬼となっていった。
影響を与えるものや現象のことを仏教では因縁という。そして、この世にあるものは全て――人の心でさえも因縁という関係性の中で形作られていくということを、縁起という。
縁起によって作られるということは、周囲の一切のものから独立した実体=我(が)は存在しない。これを無我といい、この世のすべてのものが無我であることを、諸法無我という。

どんなに技術が進んでもこれだけは変わらねえ。機械を作る奴、整備する奴、使う奴。人間の側が間違いを起こさなけりゃ機械も決して悪さはしねえもんだ。
『機動警察パトレイバー the Movie』の名台詞。純粋な悪のロボットは存在せず、意図して引き起こされた犯罪にせよ、偶発的な事故にせよ、どこかで人間が関与することで事件が発生する。

『鬼滅の刃』で描かれる各キャラクターのエピソードは、(死も含めて)この世界のものは常に変化し続けること=諸行無常や、他の一切から独立した実体は存在しない=諸法無我が根底にある。
鬼殺隊はこれを常に意識している一方、我執によってそれを忘れた者は、鬼になってしまう。

隊士の多くが家族を奪われたことがきっかけとなり、個人的な動機で鬼殺隊に加わっている。だが、彼らが戦う理由は、家族を奪われた”自分の”恨みを晴らすためではなく、死んだ家族の安寧のため、市井の人々の生活を守るために鬼と戦う。自分の命も捨ててまで、他の人に尽くそうとする。(那田蜘蛛山編で給料のために戦う隊士が出てきたが、10コマで死んだのが象徴的だ)

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鬼と鬼殺隊の戦いは、煩悩を捨てて悟りに至ろうとする修行僧を漫画的に図式化したものと見ることができる。

弐ノ型 利己と自利の違い

概して鬼は利己的である。我執にとらわれた彼らは、自らの欲望のために文字通り人を食い物にする。
戦いの中、上弦の鬼はしばしば柱たちを鬼になるよう誘う。その根底には、鍛え上げた技と肉体が老いとともに衰え、死によって失われることを防ごうとする意図がある。
黒死牟や猗窩座たちは鬼になって無限の時間をかけて自分の力を高めていったため、彼らは相対する柱も自分と同じように感じるに違いないと考え、鬼へと勧誘する。
例えば、漫画の好きな人が、親切心から「この漫画面白いから読んでよ!」と勧めるようなものだ。「こんなに面白い漫画を読まないなんて損だから、オススメすればきっと相手も喜ぶに違いない」と、漫画に興味のない人がいるかもしれないという発想がスッポリと抜け落ちてしまっている。(漫画が好きな人は、漫画の部分をサッカーやライブやクルマなど、自分が興味のない単語を代入してほしい)

だが、この発想の主体は、どこまでいっても”自分”である。自分は力を失いたくないから鬼になり、相手も「自分の力を失いたくない」と感じるだろう、と、人は誰しも自らの利益を守るものであるという考えに固執している。

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本質的には別に相手の将来を思って提案しているわけではないので、鬼化を拒否された反応は「”俺は”つらい」となる。つらいのはあくまでも猗窩座。この点からも、鬼の基本的な思考が自分本位であることがわかる。

一方、鬼殺隊も同じく時間をかけて特訓を重ねることで力をつけるが、その動機は鬼と大きく異る。
多くの隊士は、自分以外の誰かのために死力を尽くす。特に後半は顕著で、「役に立つ」「守る」「死なないでほしい」といった表現が頻出する。
鬼から人を守る、すなわち人々の役に立つために、鬼と渡り合えるほどの実力を身につける……というのが、鬼殺隊の基本理念である。

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大乗仏教では、基本的に自利と利他はセットになる。
悟りを目指して修行するのは、自分だけが救われるためではなく、衆生を導いて救済するためなので、自利は利他につながる。同時に、衆生を救うこと自体が功徳であり、自らの修行につながるため、利他は自利につながる。
貧困層を救うために大金持ちになることで、会社を経営して雇用を生んで多額の寄付をするようなイメージだろうか。会社を経営することはお金を稼ぐことに繋がり、さらに多くの人を救えるようになる。

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利己心のかたまりである鬼から見れば利他心に満ちた鬼殺隊の振る舞いは理解できないため、無惨は鬼殺隊を「異常者の集まり」と呼ぶ。
一方の鬼殺隊から見れば弱者を切り捨て食い物にする鬼は正反対の行いのため、煉獄は怪我人を狙う猗窩座に「君が嫌いだ」と言う。

だが、炭治郎は他の隊士とは違い、鬼ですら救うべき対象として扱う。柱をはじめ鬼殺隊の関係者が鬼を退治する相手としてのみ扱う中、炭治郎だけはスタンスが異なる。
炭治郎と他の隊士の違いは、どのようなものだろうか?

参ノ型 菩薩の炭治郎

結論から言うと、炭治郎は菩薩である。

菩薩とは釈尊が悟りを目指していた修行時代を指す言葉だったが、転じて将来悟りを得て仏になる人を意味するようになった。
来世で仏になることが確定した人、いわば仏リーチ状態なので、実質仏と同じと言っていい。換金前の当たり馬券がお金を同じように輝いて見えるようなものだ。さらに転じて、観音菩薩や地蔵菩薩のように、衆生を救うためにあえて菩薩としてこの世に生まれてくれた仏もいる。

炭治郎が鬼を切るのは、その鬼が人に害を与えるからであって、単に相手が鬼だから(人間ではない)という理由だけでは切ろうとしない。

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相手の生まれや人種といった、本人にはどうすることもできない要因ではなく、行為、ひいては行為に至った動機によって相手を判断する炭治郎。彼の態度はいわばカースト(身分)の否定であり、実はとても仏教的な姿勢である。

生れによってバラモンになるのではない。生れによって非バラモンになるのではない。行ないによってバラモンなのである。行ないによって非バラモンなのである。
行ないによって農夫なのである。行ないによって職人なのである。行ないによって商人なのである。行ないによって雇人なのである。
行ないによって盗賊でなり、行ないによって武人である。行ないによって祭官となり、行いによって王となる。
『スッタニパータ』

仏教では、カーストによる差別を明確に否定している。
農民は農家に生まれたから農民なのではなく、農作物を育てて収穫するから農民なのである。農家に生まれたとしても、料理を生業にする人は料理人になる。
職業選択の自由がある現代日本では当たり前に思えるが、厳格なカースト制度によって子々孫々、来世にわたって未来永劫ずっと同じ職業に就くことを定められているインド社会において、この思想はとてもドラスティックな教えだった。
さらに言えば、現代においても社会的地位や豊かな生家に恵まれたために尊大な態度になってしまう人はいないだろうか。他にも、性別や人種、皮膚の色や国籍など、仏教の発想はあらゆる差別に当てはまるだろう。

炭治郎は、平気で人を踏みつける鬼に敢然と立ち向かうのと同じように、立場にふさわしくない振る舞いをする者には、たとえ柱だろうと噛み付く勇気を持つ。

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だが同時に、相手が鬼でも敬意を払い、時には救う対象として扱う。ここから、炭治郎が鬼も人間も平等に見ていることが分かる。
これまでふわっと使ってきたが、衆生とは人間だけではなく、犬猫や鳥や魚、虫や植物など、この世界のありとあらゆるものである。仏教はこの世のすべてのものが救う対象としている。
鬼殺隊が人間のみを助けるのは、人間と鬼の間に優劣をつけており、愛による行為であると言える。だが人間も鬼も等しく扱う炭治郎は、その根底に衆生に対する慈悲の心を持っている。

慈悲とは”慈”と”悲”の2つの言葉をあわせた単語である。”慈”とはサンスクリット語の"マイトリー”(友愛の意)に由来し、「同朋に利益と安楽を与えたいとのぞむこと」の意味で、”悲”はサンスクリット語の”カルナー”(呻きの意)に由来し、「同朋から不利益と苦を除去したいと欲すること」という意味である。
すべての人に友情を抱くのが”慈”であり、他人の悲しみを一緒に悲しむのが”悲”である。すなわち、他人に共感し、理解をすることが慈悲心なのである。
人は誰もが孤独だが、その苦しみに理解を示してそっと手を差し伸べる相手がいれば、どれだけ救われるだろうか。その理解者こそが仏の慈悲である。

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炭治郎もまた、鬼の抱く苦しみや悲しみに理解を示し、手を差し伸べ、その上で鬼の犯した罪を咎める。非常に菩薩的である。

仏教では、利己心のある”愛”と、利己心のない”慈悲”を厳密に区別している。愛は執着をもたらすため、必ずしも良いものではないとしている。慈悲を強調するのが、仏教の特徴といえる。
この慈悲の概念について、浄土真宗の開祖である親鸞は、(超おおざっぱに)次のように言う。「我々が今この場で慈悲心を持って他人を思いのままに助けてあげようなどと思っても、とてもムリである。そこで、まず修行をして自分が仏になり、その仏の大慈悲心をもって衆生を助けるのだ」と、自利利他の精神を解説する。

炭治郎の行動は、この考えに当てはめることができるだろう。

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炭治郎は目の前で煉獄を失ったことで、自身の力不足を痛感する。より強くなることで多くの人を救おうという強烈な動機を得るが、そこで救う対象には鬼も含まれており、すなわち衆生を救おうとする慈悲心にほかならない。

ここで問題になるのが、妹の禰豆子である。
炭治郎は鬼の脅威から人々を救おうとするが、同時にもう一つ、鬼になった妹を人間に戻そうという強い動機を持つ。『鬼滅の刃』がそもそも妹が鬼になったことがことの発端となっており、炭治郎の行動原理は妹を救うことが極めて大きな比率を占めている。
炭治郎の禰豆子に対する態度は、明らかに愛によるものである。禰豆子への執着が強いため、「妹が人間を襲ったらどうする」と聞かれた炭治郎は、とっさに返答ができなくなってしまう。ここから、炭治郎が煩悩を捨てきれていないことが分かる。

だが、半天狗との戦いで禰豆子を失ったことが大きな転機となる。
半天狗から人間を守ろうとすれば、禰豆子を見殺しにすることになる。禰豆子を助ければ、無関係な人が半天狗に殺されてしまう……という状況に追い込まれた炭治郎は、どちらを見捨てるか選択をせまられて、行動できなくなる。

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ここで禰豆子の我が身を捨てる決断を受けて、炭治郎も禰豆子への執着心を捨てる。これ以降、炭治郎はいつも背負っていた禰豆子の箱を降ろし、炭治郎と禰豆子は別行動をとることが増えるようになる。
禰豆子への執着(愛)を失うとは、言い換えれば禰豆子を救うのと同じくらい衆生を救おうとしているとも言える。これは禰豆子が太陽を克服したため箱に仕舞う必要がなくなったというストーリー上の要請だけではなく、心情的にも禰豆子を案じるセリフが減っていくことからも分かる。
衆生とはこの世のありとあらゆるものを指すため、当然その中には禰豆子も含まれている。あまねく衆生を救おうとする慈悲心は、まさに菩薩の所業である。

初期の炭治郎は性別や血縁にこだわる描写があり、「俺は長男だから耐えられた」「そんなものは男ではない」といったセリフが出てくる(男云々は炭治郎が言ったわけではないが、当該場面では肯定的な文脈で使われている)。無惨を追うのも、家族の仇という側面が強い。
だが、後半ではそういったセリフはほぼ出てこなくなり、(ドラマ的には最も盛り上がるはずの)禰豆子が人間に戻る場面でも、炭治郎は立ち会わない。
禰豆子への愛着にとらわれて刹那の幸福にひたるのではなく、無惨を倒して犠牲者を救うことを至上命題としているためである。

そんな菩薩行にはげむ炭治郎は、ついに"透き通る世界”にたどり着く。透き通る世界に到達した者は、相手の筋肉や骨格が透けて見えるようになり、戦闘時の反応が飛躍的に向上するという。

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これはまさに、悟りの境地と言えるだろう。この世の物事、森羅万象をあるがままに見る、すなわち如実知見である。
われわれ凡夫は、欲望によってものごとをあるがままに知見することができない。例えば四苦の中の「老」とは、ただ単に時間が過ぎることである。ただ単に時間の流れとともに、一日、一時間、一秒ごとに年を取っていくだけの現象でしかないが、われわれは欲望によってそれが知見ができない。子供に対しては「早く大きくなってほしい」、大人であれば「年を取りたくない」といったように、欲望によって「老」が「苦」になってしまう。
時間が過ぎていくという自然現象はどうにもならないことなのに、どうにか思い通りにしたいという欲望によって苦しみが生じる。そのため、釈尊は如実知見、すなわち「思い通りにならないことはどうしようもないのだから、思い通りにしようと思わなければいいのである」と正確に認識する。それによって苦しみが生まれなくなると説いた。
あるがままに認識するという”如実知見”を漫画的に表現したものが、”透き通る世界”だろう。

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この透き通る世界に到達した剣士は、戦いの中にあっても殺気を出さず、感情を揺らがせずに戦えるようになる。これはおそらく、涅槃寂静を指しているのではないか。
涅槃寂静とは、諸行無常・諸法無我と合わせて、仏教の根幹とも言える非常に重要な概念である。欲望にとらわれて快楽を求めるのではなく、諸行無常を知ることでニヒリズムに陥るのでもなく、一切の苦しみから解放された安らぎの境地であるという。なんだかよくわからない概念だが、まあ、言葉であれこれ説明して理解するようなものではないらしい。
ただやはり、作中での透き通る世界に関する説明を見ていると、涅槃の漫画的表現と思えてならない。

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涅槃寂静は「煩悩の火が消えた穏やかな境地」などと表現されるが、炭治郎に透き通る世界を教えた父・炭十郎は感情の起伏の少なかったとされる。炭十郎が語る透き通る世界に至る方法も、釈尊が快楽と苦行の両極端から離れることで、偏った考えにとらわれない中道を歩むことて悟りを開いたことを思わせる。

また、炭治郎はヒノカミ神楽や透き通る世界を単独で習得したわけではなく、周囲の仲間との何気ないやり取りや先祖から受け継いだ記憶の遺伝によって習得していくのも、縁起を想起させる。
炭治郎はしばしば周囲の人へ感謝の言葉を述べ、周囲の人たちとの関係性の中で今の自分が生かされているという主旨の発言をする。そういった縁起の中から技につながるヒントを得たり、逆に相手へ気づきを与えたりする。
自分の周りの人々と等しく接する炭治郎の姿が我を貫く無惨との対比となり、”みんなの力をあわせる”王道展開に仏教的なニュアンスが加わる。
記憶の遺伝というと『エイリアン4』のオリジナルがエイリアンと遭遇した時の記憶を共有するクローンのリプリーや、『漂流教室』のテレパシーで死んだ個体の記憶を引き継ぐ能力を持つ未来人類を思い出すが、単なる設定上の継承にとどまらず、そこに感情的な盛り上がりが加わるのが特徴的だ。

参ノ型・改 境界線上の炭治郎

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そんな炭治郎だが、21巻の無惨との戦いで死に、22巻では鬼のような姿で復活する。死と復活というとむしろイエス・キリストを彷彿とさせるが、菩薩が来世で仏として生まれたとも言える。「鬼かわからない姿」というのも、鬼と人間の対立に属しない中道の姿と解釈できるかもしれない。

が、しかし、ホトケ様というにはどうしても恐ろしい姿である。
むしろ、よりプリミティブな神話的に解釈して、半神半人、あるいは生と死の境界線を超えた姿と見たほうが自然だろう。

神話類型の1つに、神と人が結ばれることで両者の間に子供が生まれる「神婚説話」がある。必ずしも正式な婚姻関係とは限らず、不貞であったり、同意を得ない強姦の場合もあるが、神の血を引く子供は多くの場合英雄的な働きを見せたり、一族の始祖とされることがある。
有名どころで言えば、ギリシャ神話のゼウスだろうか。ゼウスは多くの子供を持つが、英雄ヘラクレスをはじめとして母を人間とするものが大勢いる。その中には、白鳥に化けたゼウスの子供である双子座の弟・ポリュデウケスや、牡牛に化けたゼウスの子供のミノスなど、人間以外のものと交わったことで生まれたもの――異類婚姻譚も含まれる。
無惨が血を与える行為は繁殖を想起させるし、鬼のような姿になった炭治郎はまさに人と鬼の子といえる。

生と死を超えるといえば、これも神話類型でいえば冥界訪問譚を思わせる。
ギリシャ神話のオルフェウスや、日本神話のイザナギのように、神や英雄が生きたまま死の世界へ行って戻ってくる話は多くある。
多くの場合は生死の境界を超えることで大きな問題が起こるのだが、これは死者を隔離することで伝染病などを防ごうとする本能的な働きによって、境界線を超えるもの自体を恐れるためであるという説がある。いわゆる穢れ、あるいは不浄である。
例えばイスラム教では豚を不浄として食べないが、これはユダヤ教の禁忌に由来する。ユダヤ教では、四本脚で反芻をして蹄が割れたものを食べていいと定めている。しかし、蹄が割れているが反芻をしない豚は、食べていい動物の定義の境界線を侵しているため不浄とみなされる。(キリスト教もユダヤ教から派生したため初期は豚肉を食べなかったが、キリストの死後に禁忌を外された)
日本でも、神社は鳥居によって神様の領域と人間の世界を分けているが、これも境界線の一例だ。
”生ける死者”ゾンビが、他のモンスターや猛獣に感じる恐怖とはまったく別種の嫌悪感を催させるのも、境界を超えるものの穢れといえる。家の外と中をつなぐ玄関なども、より身近で宗教的な意味合いを持たない境界の例だろう。

鬼の血によって死に、そして鬼の血によって蘇った炭治郎。その姿は、神的なパワーを得た英雄ともいえるし、不浄を背負った穢れた鬼にも見える。
人か魔か、竈門炭治郎。獣か、それ以下か。鬼か、それ以上か。
はてさて、復活した炭治郎がどのような結末を迎えるのか、最終巻が楽しみである。

肆ノ型 黒死牟=提婆達多説

さて、透き通る世界が涅槃だとすると、なぜ鬼である黒死牟も同じ境地にいるのか……と考えていたところ、面白い動画を見た。

YouTuberで「鬼滅の刃 仏教」と検索すると何件もヒットするが、大半が鬼滅の刃をフックにして漫画と無関係な仏教用語の説明をするだけ、いわば釣りタイトルのつまらない動画である。
が、この人の動画はどれも漫画をキッチリ読み込んだうえで、僧侶の立場から漫画の内容に対して仏教的な解説を加えており非常に面白い。

縁壱を釈尊であると見る発想は目からウロコだった。言われてみればなるほど、実に辻褄が合う。
では、縁壱が釈尊であれば、その兄の巌勝は誰に相当するのか?
おそらく、釈尊の従兄弟にあたる提婆達多(デーヴァダッタ)ではないだろうか。

伝説によると、提婆達多は出家前の釈尊とヤソーダラーという美女を巡って対立したが、争いに負ける。これによって釈尊に恨みを抱いた提婆達多は、釈尊の出家後にヤソーダラーを犯す。のちに自身も出家して釈尊の教団に入ると、非常に優秀な人物であったため教団のNo.2にまで上り詰めるが、憎しみゆえに釈尊を殺して教団を乗っ取ろうとした人物である。
ただ、実際は彼を祖とする教団が後の世まで残っており、大罪人のイメージがどこまで史実であったのかに関しては説が分かれる。

史実はともかく、伝説上の提婆達多は釈尊を殺して教団を乗っ取ろうと叛逆した仏敵として有名であり、釈尊の血縁者である点、殺そうとするほど釈尊を憎んでいた点、しかし非常に優秀な人物であったなどの点が黒死牟と一致するように思える。
黒死牟もまた、鬼殺隊の祖となる呼吸の型を使う剣士の一員でありながら、鬼となって離反。妬みから弟の縁壱を激しく憎み、上弦の壱として無惨に次ぐ実力を見せつけた。

手塚治虫の『ブッダ』に登場する、提婆達多を元にしたダイバダッタというキャラクターが、黒死牟に似ている気がするのだ。

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ブッダを毒殺しようとするが失敗し、逆に自分に毒が回って死ぬダイバダッタ。「私はあんたになりたくてなれなかった。だからあんたが憎かった」という台詞が、黒死牟を彷彿とさせる。

余談だが、手塚ブッダは手塚治虫が創作したエピソードや解釈が含まれているため、仏教的に正しいかというと必ずしもそうではない。
ただ、晩年の手塚治虫が自身の半生を振り返りつつ、渾身の力を込めて描いた大傑作であることは間違いなく、非常に面白い漫画である。

例えば、ブッダの最後の台詞がこちら。

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死後、宇宙の真理に向かって問いかけるブッダ。
執着を離れたはずのブッダが、誰よりも自分の説いた教えに執着する姿が描かれる。
仏教的にはどうなの?という台詞だが、しかしこれは手塚治虫の作品であるという視点で見ると、別の見方ができる。

手塚治虫は60年代後半から人気が低迷し、『ブラック・ジャック』で再ヒットするまで過去の漫画家と見られていた。
『ブラック・ジャック』の連載開始が73年で、『ブッダ』の連載開始が72年なので、”終わった漫画家”がいわば終活のような漫画として『ブッダ』を描き始めたのではないか。
そしてブッダの連載終了が83年、手塚治虫が89年に亡くなっているので、上記のブッダの台詞はこう見えてくる。

私が去ったあと…私の一生かけて描いた漫画は…どうなるのですか!!
百年たち千年たったあと忘れられてしまうのですか!!

「自分こそが漫画家の第一人者である」という誰よりも強い自負を持っていた手塚治虫の、魂の叫びに思えてならない。

だが、手塚漫画は半世紀以上の時を経てなお、未だに新作が連載され、数多くキャラクターグッズが作られ、映画やアニメ、ゲーム化などのメディアミックスが行われ、そして何よりも、娯楽が氾濫する今の時代に読んでもまったく見劣りしない抜群の面白さがある。
きっとこれからも、手塚治虫の漫画は読まれ続けるだろう。

伍ノ型 17巻・しのぶと善逸の対比

蟲柱・胡蝶しのぶは、姉の仇である上弦の弐・童磨との戦いで死ぬが、自身の命と引き換えにして童磨を道連れにする。
時同じく、我妻善逸は師匠の仇である上弦の陸・獪岳と戦い、重症を負いながらもこれを撃破。
17巻では両者の復讐が並行して描かれるが、この対比が面白かった。

まず、仏教では復讐について、恨みを無くすように説く。

およそこの世において、怨は怨によりてしずまることなし。怨をすててこそしずまるなれ。これ不変の真理なり。
『法句経(ダンマパダ)』

仏教は煩悩を鎮めることを至上命題とするため、実にもっともな教えである。

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では、しのぶの言動を振り返ると、普段はにこやかに振る舞う彼女だが、内心では常に怒りに燃えていることを炭治郎に指摘されている。
童磨との戦いでは、姉をはじめ家族を鬼に殺された恨みを語り、鬼への復讐心を燃やしたまま死んでいった。

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さらに死後も暗闇の中で童磨と2人、非常に不穏な雰囲気になっている。しのぶは「やっと成仏できる」と言っているものの、童磨は「一緒に地獄へ行かない?」と言っており、果たしてしのぶがどちらへ行くのか曖昧に描かれている。むしろ、キリスト教における煉獄(炎柱ではなく)のような場所にいるようにも感じる。

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一方の善逸は、獪岳へ激しい敵意を向けるものの、心の中では彼を兄貴と呼び、「肩を並べて戦いたかった」とつぶやく。

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意識を失った善逸は夢か現か死んだ師匠と邂逅し、兄弟子を救えなかった後悔、死なせてしまった師匠への懺悔を叫ぶ。師匠とは三途の川を挟んだ彼岸と此岸に立っており、しのぶが童磨と2人きりで話した暗闇の不穏さと対照的だ。
ここで善逸は、復讐心ではなく、兄弟子と師匠の2人が抱える苦しみを晴らそうという意図、すなわち慈悲心によって戦っていたことが分かる。

しのぶと善逸の戦績を比べると、対戦相手の戦闘能力や技の相性などといったバトル的な解釈だけでなく、仏教的な視点から見ても正反対の描かれ方をしていることが分かる。

この最終決戦のタイミングで復讐にフォーカスしたのは、ラスボスである鬼舞辻無惨との戦いを前に今一度、鬼殺隊、ひいては炭治郎の戦う動機を整理するためだろう。
殺された家族の仇を討つため復讐に我を忘れるのか、はたまた牙なき人の明日を守るために立ち上がるのか。そして悪鬼・鬼舞辻無惨を倒すことはできるのか。

陸ノ型 アリの王・鬼舞辻無惨

鬼舞辻無惨が我欲に満ちた煩悩の権化であることは上述の通りである。
ここで、趣向を変えて仏教ではなく生物として無惨を解釈をしてみたい。

鬼は、鬼舞辻無惨を頂点とする血縁集団である。無惨の血が濃い鬼ほど強く、明確な序列がある。戦闘や探索、城の維持など、各個体に応じて役割が割り振られていることから、鬼の集団が社会性を持っていることが分かる。

生物にも、集団(群れ)をつくる種類は数多くいる。複数の個体が集まることで、協力して狩りをしたり、逆に捕食者から襲われるリスクを減らしたり、様々なメリットがある。その中でも、単なる集まり以上の複雑な構造を持ち、個体間での相互作用を持つものを社会と呼んだりする。(もっとも、厳密な社会の定義は難しいが)
さらに、特に分業が徹底し、繁殖を専門とする個体と労働を専門にする不妊個体が分かれてコロニーを形成するものを、真社会性生物と呼ぶ(他にも定義あり)。アリやハチといった社会性昆虫が有名だが、他にもハダカデバネズミや、カビ類(粘菌)の一種も不妊階級がいる真社会性生物である。
また、特殊な例ではアブラムシがいる。通常アブラムシは単性生殖によって遺伝的にまったく同一の個体――つまりクローンを産んで卵を経ずに爆発的に増殖する(正確には卵胎生)。しかし冬が近づくとオスが生まれて有性生殖を行い、卵を産む。そして春になり、越冬した卵が孵化すると、再びクローンを産んで増えていく。
防御力の低いアブラムシは多くの天敵がいるが、一部個体が外敵からの防御に特化した兵隊になることがある。兵隊アブラムシは成長せずに幼虫のまま死ぬため、アブラムシも真社会性生物の一種といえる。
さて、アブラムシは体内の余剰糖分を排出してアリに与えることで保護してもらう共生関係を持つ場合があることで有名だが、そのお尻から出す甘いネバネバの液体を甘露という。

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閑話休題。

鬼の社会を見ると、真社会性生物といくつか共通点がある。

・繁殖能力を持つ無惨と、無惨以外の繁殖能力を持たない労働個体に分かれる
・すべての個体が無惨から血を与えられて鬼になっているという意味で、集団内の血縁度が高い
・分業体制によってコロニー(城)を維持する

もちろん、単純に鬼はアリと同じだと言いたいわけではなく、似た構造のものと比較することで両者の違いや特徴が分かることがある。
何と言っても、両者が社会を形成する目的が異なる。

生物は原則的に、自分の遺伝子を多く残すために行動する。真社会性生物は自身の繁殖よりも他個体の繁殖を優先させる、いわば利他行動をとる個体の存在が特徴だが、それは自分の子孫を残すよりも繁殖個体と協同するほうが結果としてより多くの遺伝子を残せるからである。
自分で子孫を産むよりも、自分の兄弟姉妹にあたる個体を育てたほうが、自分の遺伝子をより多く次世代に残せるような仕組みを持っているのである。

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しかし鬼はといえば、無惨が「増やしたくもない同類を増やし」たと語るように、そもそも繁殖を目的としていない。
社会性昆虫の女王はコロニーの統率者ではなくいわば”産む機械”だが、無惨は紛れもない鬼の支配者である。
無惨が鬼を増やす理由は、鬼殺隊との戦闘や、青い彼岸花を探すなど、つまるところ自身の生存のためである。呪いによって他の鬼の思考を読み取り、生殺与奪の権すら握って無惨の手足として使うことで、頭脳たる無惨の生存のために行動する姿は、鬼社会そのものが超個体のようにも思える。
鬼の社会を1つの単位として見ると、鬼は人間社会に巣食う寄生生物のようである。鬼は人間を直接捕食するが、同時に人間の築いた社会システムの中で暮らしている。鬼は一方的に人間社会の恩恵を享受すが、鬼が何らかの生産活動を行って人間側へ還元する描写は見られないため、(広く解釈すれば)労働寄生の側面も持つ。

人間社会を人体に例えるなら、鬼はガン細胞である。変異を起こして正常なコントロールから離れたガン細胞は、周囲の正常な器官を浸潤的に増殖し、転移をしていく。周囲の栄養を奪い取りながら増殖を繰り返し、侵され、あるいは圧迫された正常な臓器は機能不全に陥り、最悪の場合は消耗した生体を死に至らしめる。
鬼に変異した無惨は、周囲の人間を捕食しながら同胞を増やしていく。全身に転移するガン細胞のように全国に散らばった鬼は、各所で人間を殺しつつ無惨の命令を実行する。鬼は人間から奪うのみで、何も与えない。
社会は、構成員の相互作用によって成立する。鬼殺隊のメンバーは「おかげで勝てた」「役に立つ」など、周囲との関係性を強調する台詞がよく使う。炭治郎に至っては助け合いを「自然の摂理だ」と言い切る。鬼殺隊はこの相互扶助の精神が徹底していることが繰り返し描かれる。鬼殺隊は政府非公認の組織であるため、公助ではないのが印象的だ。各個体が双方向に影響を与え合っている。

日本人の国民性として、私(プライベート)よりも公(パブリック)を優先する傾向がある。

義理と人情を 秤にかけりゃ義理が重たい 男の世界
『唐獅子牡丹』作詞:水城一狼/矢野亮 作曲:水城一狼 歌:高倉健

男の世界(=世間)では、義理(=パブリック)が人情(=プライベート)よりも優先される。
個人の考えはともかくとして、これが日本の一般的な感覚だろう。そうでなければ、「みんなに迷惑がかかる」という理由で会社のために長時間労働をする人は現れないはずだ。「自分さえ我慢すれば上手く回る」という発想は、義理が重たい男の世界の考え方である。

だが『鬼滅の刃』では、決して「自分を犠牲にして他人に尽くせ」と滅私奉公を上から強制するのではなく、他人の痛みを自分ごとして捉えることで自発的に行動している点が強調される。

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個々人の内面ではプライベートの問題として捉えているが、その延長線上に「人々を守る」というパブリックがある。顔の見える相手の集合で社会が形成されるため、公私は対立するものではなく、連続的なものであることが描かれる。

『鬼滅の刃』はこのバランスが絶妙で、引いた視点では鬼殺隊が異常者の集団にギリギリ見えず、無惨が対話不能な悪役に見えるラインにしつつ、寄った視点では各キャラクターの心情にのめり込むように惹きつけられる塩梅になっている。

漆ノ型 「鬼滅の刃は絵が下手」は本当か?

漫画を読む前、「鬼滅の刃は絵が下手」という話を方方で聞いていた。主に、アニメで入ってから原作を読んだところ、絵の落差に驚いたという理由らしい。
アニメ版は見ていないので比較はできないが、漫画を読んだ感想としては、「鬼滅の刃は絵が上手いが、初期においてはテクニック面で拙いことがある」といったところだろうか。

まず前提として、鬼滅の刃の作者、吾峠呼世晴は絵が上手い。ガロ系の書き込みの多い絵柄で、ホラーテイストの描線である。人物の顔はきちんと立体的な整合性が取れた絵だし、身体もキチンと骨格を踏まえたポージングをしている。
作者が絵が上手いため、『鬼滅の刃』では絵で見せる演出が非常に多い。

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みんな大好きしのぶさん。
肩をすくめたポーズと取ることで可愛らしさを強調しつつ、上げた肩が非常に細いため、彼女が小柄で華奢な体格であることが、(羽織で体型を隠しているにもかかわらず!)絵を見ただけで伝わる。
同時に、羽織の模様を抜きにすることで刀を目立たせ、彼女の鬼への敵意と、ちょっとサイコパスっぽい雰囲気を見せる。
しのぶが持つ可愛さと怖さの両面性を、名乗りのコマでキッチリと見せている。

しのぶつながりでもう1つ。

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伊之助が母親の面影を見出すなど、しのぶは母性的なキャラクターとして描かれるため、小柄なキャラクターにもかかわらず下から見上げる構図か、目線の高さで描かれることが多い。
例えるなら、子供が母親を見上げるようなイメージだろうか。

が、彼女の持つ怖さが発現するときには、上から見下ろす構図に変わる。

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自分よりも背の高い相手を見上げながらにらみつけるかたちになるため、内に秘めた激情が強く伝わってくる。
こういった切り替えによって読者に与える印象を操作するのも、この漫画の上手い点だと思う。

また、感情的に盛り上がるシーンでは人物の顔をアップにし、表情のみで心情を伝える演出が多い。

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ページをめくった時にこういった胸に迫るような表情のアップが来ると、読む側はぎょっとして一瞬時間が止まったような印象を受ける。
週刊連載に慣れていないであろう初期であっても、こういった表現を多用しているため、絵にこだわるタイプの漫画家なのだろう。

例えば、1話目の禰豆子を見ると、炭治郎の喪失と動機づけが分かるようになっている。

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最初、人間だったころの禰豆子は笑顔である。(髪を上げているので、ぶっちゃけ誰だかわからない)

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次に、鬼に変貌した禰豆子の顔。
非常に激しい敵意と、瞳孔が収縮して非人間的な印象を受ける。妹が人間性を喪失したことと、炭治郎が家族との日常生活を失ったことがパラレルになっている。

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ボロボロと涙を流す禰豆子。鬼の本能と兄への愛の間で葛藤する様子を、上のコマとほぼ同じ構図で見せることで対比させている。
禰豆子から人間性が失われていないことを表情だけで見せ、炭治郎は「失った家族を取り戻せるかもしれない」という希望を持つことになる。この直後に義勇が登場することで、「妹を助ける炭治郎」VS「鬼を討つ義勇」で対立に移行する。

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炭治郎を守る禰豆子。鬼の形相のまま全身を使って兄を守る姿を見せることで、『鬼滅の刃』の基本的な方向性が固まる。
ところで、ここで太ももをあらわにしてホラーテイストの中に色っぽさを入れるのも、この漫画の特徴である。
余談だが、「吾峠呼世晴が女性だと判明して炎上!」みたいな話を聞いて意外だった。この太ももの雰囲気から吾峠呼世晴は女性作家だと思っていたので、むしろ男性作家だと思っていた人がいたことに驚いた。

また、下手と言われる理由の中に、ギャグ顔が多いというのも見かけた。
確かに比較的シリアスな場面でもギャグ顔になることがままあるが、それでも極力デザインを崩さずにデフォルメしている。

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例えば伊之助の顔のシルエットは明確に設定されているが、このラインが崩されたのは、ざっと確認した限りでは1~22巻の中で1コマだけだった。

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このコマ以外では、どれだけデフォルメされてもイノシシの鼻のラインは変えられていない。

などなど、やはり絵にこだわるタイプの作家なのだろうと思われる。

とはいえ、特に序盤においてはテクニック面で拙いと感じる面があるのも事実である。

例えばこちら。

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顔の真ん中を走る「ガーン」の線、点になった瞳、「ビクッ」のショック、身体が固まった二重線など、なんというか……表現が古いというか、クドいというか……。
ギャグなら漫符も有効ではあるが、シリアスなシーンでこれはちょっと、と言わざるを得ない。
特に「ガーン」の線は序盤で多用されるが、作者の意図しないギャグ的なニュアンスが多分に入ってしまい、ムードが崩れているように感じた。

アクション面でも、これはどうなんだろう?と思うことがしばしば。

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炭治郎が鬼の腕を斬ったことは分かるのだが、手前のウニョウニョが何かわからない。実在感が強すぎるため、剣の軌跡ではなく天女の羽衣がひらめいているように見えてしまう。

修行時には全集中の呼吸しか説明がなかったため、突然水の呼吸という新概念が登場したときにはどこかで読み飛ばしてしまったのかと思った。おそらく打ち切りを避けるために早くバトル(最終選別)に入ろうとして説明不足になってしまったのかと思う。
炎や雷のような記号的な表現が確立している現象ならともかく、水を浮世絵風に描く表現は類似例が少なく、初見時には脳内でうまく処理できなかった。

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のちに(おそらく)アニメのフィードバックを受けて格段に水に見えるようになったが、とはいえこのエフェクト表現自体はユニークだ。特に引いたアングルでのアクションで生かされているように思う。
攻撃の軌跡をエフェクトでコマいっぱいに広げ、大きく強調したオノマトペを複数配置することで、1コマ(=漫画における最小単位時間)内での連続攻撃を表現。これによって、強敵と超高速戦闘を繰り広げていることが伝わる

人物の表情のアップや、中盤以降は筋肉がよく描かれることから、作者は人間への興味は強いのだろう。型の描写も凝っているため、武術なども好きなのだと思う。が、なんとなくの印象だが、アクション自体にはそこまで興味が無いのではないだろうか?
そのため、引いたアングルのアクションが多く、攻防は軌跡のエフェクトとオノマトペでおおまかに表現。あとは表情や負傷部分のアップ、そして内面の独白で進行していく。
アニメを見ていないので憶測になってしまうが、アニメではきちんと動きでアクションを見せていたのだろうと思うので、キレイな動きを見てから漫画を読んだ時のギャップによって、「絵が下手だ」と感じてしまった……のではないだろうか?

やはり映画も見に行きたいので、予習のためにも近々アニメ版を見ようと思っている。漫画をどのように映像に昇華しているのか、そのあたりが楽しみである。

捌ノ型 疑問点

『鬼滅の刃』を読んで、疑問点が2つある。

まず1つ目、この作品は海外でどのくらい売れるのだろうか?

軽くググってみると、”Demon Slayer: Kimetsu no Yaiba”というタイトルで海外でも展開しているし、(ヒロアカには及ばないとはいえ)健闘しているらしい。
ただ、思想的には仏教をベースにかなり日本的な展開になっているように思うので、テーマ的な部分で、日本以外の文化圏でどの程度受け入れられるのか、理解されるのか、という点が気になる。

例えばこちら、『スパイダーマン2』の場面。
スパイダーマンことピーター・パーカーが暴走する列車を止めるが、意識を失って倒れる。すると乗客が彼の体を支えて、大勢の手によって運ばれていく。
イエス・キリストが十字架に磔にされ、その死後に弟子の手によって降ろされた様子になぞらえることで、スパイダーマンが人々を救うヒーローであることを示す、非常に感動的な場面である。
このシーンは別に宗教的な意味合いを持った場面ではないが、観客がキリスト教の教養を共有していることが前提とされている。言い換えれば、アメリカにおいてキリスト教が文化的に広く根付いていることを示すシーンだ。

逆の例を挙げれば、一部の日本人にとっては「死んだら中世ヨーロッパ風(範囲の広い表現)の異世界に特定のスキルに特化した状態で生まれ変わる」ことは当たり前の前提として共有しているため、そういった作品を見てもごく自然に受け入れられる。
だが、そういったストーリーの類型を共有していない人間にとってはとっさに理解が難しい、極めてハイコンテクストな作品に見えるだろう。

これまでも日本的な要素を持った漫画やアニメはいくつもあった。しかし、例えば『犬夜叉』は戦国時代の日本を舞台にした妖怪モノだが、内容は恋愛のドロドロという世界共通のテーマをメインにしているため、文化的背景を共有していなくてもキャラクターの心情を理解しやすいだろう。ここで古典的な日本の風景はプラスに働く。オリエンタルな風景と、現代でも共感できる愛憎劇として理解される。
ところが『鬼滅の刃』は情緒的な面でも日本的な背景を持つため、日本的なメンタリティを共有しない海外の観客が見た時にどのような感想を持つのか、それが受け入れられるのか、という点が気になる。

もう1つの疑問は、作中設定について。

鬼は藤の花の毒が弱点である。花の香りだけで鬼は近寄れず、摂取すれば死に至る。上級の鬼であっても量によっては致命傷に至るため、鬼との戦いにおいては極めて有効な手段である。
にもかかわらず、なぜしのぶ以外の剣士は毒を使わないのだろう?
そのしのぶですら、剣にちまちま毒を塗って刺すという非常に手間がかかる割に効果が限定的な、非効率的なことをしている。

鬼殺隊に麻酔銃を持たせて、鬼の手が届かない範囲から毒を撃ち込む戦法を取らない理由がわからない。茶々丸が柱に薬剤を投与するために使っていたので、技術的には可能なはず。
物陰から麻酔銃を撃つのが漫画的に地味なら、スプラトゥーンのような水鉄砲で毒液を噴射すれば弱鬼なら一掃できそうだと思う。
鬼と遭遇する前の悲鳴嶼が香を焚いていたので、藤の花は鬼殺隊以外でも入手できるほど流通しているし、稀血の被害者に渡せるほど潤沢に製造しているのだから、貴重すぎて戦闘で使えないということもない。
しのぶが1年以上摂取していたことから、「実は藤の花の毒は取り扱いを間違えればただちに人体に影響がある劇薬」というわけでもない。

もちろん、メタ的なレベルでは「技の継承=人の想いの継承」がテーマなので、鬼殺隊に剣を持たせるのは理解できる。
が、作中世界の内部から見たときに、犠牲を減らすための手段があるにもかかわらず使わないのは、無駄な人死を増やしている気がして違和感がある。

22巻までの間に、藤の毒を戦闘に使えるだろうと予想できる描写は数多いのに、戦闘に使わない(使えない)理由が説明されていないので、この点が非常に疑問。
こういった「便利アイテムを使えない理由付け」は序盤で行うべきなので、今さら23巻でこの点が説明されることはないだろう。
些細な設定のアヤならともかく、こういった根幹に関わる部分を見逃してしまうのは、編集側のミスではないのかな……と思う。

血鬼術 所感

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ゴージャス宝田『キャノン先生トバしすぎ』

僕は”オタバレすると殺された世代”ではないが、それでも自分がお天道様の下を歩いていいような人間ではない自覚はある。
いい年をして毎週毎週飽きもせずに仮面ライダーだのウルトラマンだのを見て、本棚には漫画、押入れにはロボットのオモチャと、まあ、胸を張って生きていい人種ではない。

が、この卑屈さというのは、選民意識の裏返しでもある。
「俺はアッチ側の連中にはわからない良さを理解できる人間なんだ」と。

そのため、10年ほど前まで、僕は流行りの作品を鼻で笑うような、斜に構えたオールドタイプのオタクだった。いや、今でも流行の作品に対して身構えてしまい、飛び付けない性分になってしまった。
これは感覚的な要素が大きいので、イマドキのアニメファンの人にどこまで共感してもらえるか分からないが……。

しかし、ちょっと考えればわかることなのだが、一部のファン層が騒いでいるだけならともかく、これ程幅広い年代、特に漫画に馴染みのない子供層にまで支持される作品は、当然面白い確率が高い。

面白い作品というのはいくらでもあるが、記憶に残るようなムーブメントを起こした作品となると、数は少なくなる。
そういった”アツい作品”は、その時代の空気感を多分に含んでいるので、リアルタイムで読むのが楽しさの値を最大化する最も簡単で確実な方法だ。

漫画・アニメの流行はこれまでも多々あったが、それらと比しても『鬼滅の刃』は他の類を見ないほどの規模ではないかと思う。
分割形式でアニメは続いていくだろうから、当分は人気も継続するだろう。これからますます激しさを増す展開が待っていることを鑑みれば、人気と興奮は下がるどころかさらに上がっていく可能性すらある。少なくとも、原作のストックをすべてアニメ化するまでの3~5年は人気を維持できるかと思う。
劇場公開で収益をあげられることが実証されたので、TVアニメ2期で遊郭編、3期で刀鍛冶の里編、最終決戦に突入する無限城編から決着までを映画3部作といった感じだろうか?2期と3期の間に、オリジナルエピソードの映画を挟んでもいいかもしれない。
ただ、『鬼滅の刃』自体がストーリー性の高い話なので、原作を消化し終わったあとは、煉獄の過去編のようなスピンオフ作品が何本か作られて、徐々にシュリンクしていくだろう。少なくとも、『名探偵コナン』『ポケットモンスター』『ONE PIECE』『プリキュアシリーズ』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』のような、「毎年新作映画が公開されて安定的な収益をあげる」作品になるかというと……ちょっと疑問だ。
そういった時代の流れというか、空気も含めて、「今はこういうのが好まれるのか」という周辺の情報も含めて、コンテンツの楽しみ方と言えるだろう。

個人的な感想でいえば、『鬼滅の刃』はそこまで好みではなかったが、それでもとても面白い漫画だった。
個人の好みという主観的な評価と世間の流行が一致するとは限らないが、面白さという客観的な指標でいえば、一致する可能性は高いだろう。なぜなら、面白ければ流行るとは限らないが、流行っているものは(最大公約数的な)面白いものだからである。
そんな当たり前のことに気づかず、15年以上ブックオフめぐりを繰り返し、なんともまあ惨めで、滑稽で、つまらない話だ。

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