『生き物を殺して食べる』

友人が貸してくれた本『生き物を殺して食べる』(ルイーズ・グレイ/著)。皆さんは、自分が生き物を殺して食べていると初めて認識した日の体験を覚えていますか?この本は、工場式畜産が地球に与える影響について記事に書いたりしている環境ジャーナリストの著者が1年間、自分で屠った生き物だけを食べた記録です。そんな突飛なこと、相当な離島で自給自足でもしようと考える人くらいしか日本で考える人はいないのかもしれません。それでも小さなころ、魚釣りをして、釣った魚が口をパクパクさせていたのが、いつの間にか焼き魚やフライになり食べた記憶くらいは持っている方がいるのではないかと思います。
魚やお肉は、それが生きていたことを分かったうえで口にしているでしょう。でも、牛乳、卵も・・・雌の牛は永遠に牛乳を生産し続けることはできず、仔牛を産んで初めてお乳はでます。無事に何産か産んだ後は、お肉になり生涯を終えます。卵を産んでくれる雌鶏も2年くらい産卵しお肉になります。牛乳や卵も、牛や鶏のいのちなのだと思います。
私が初めて自分の手で鶏やブタのいのちをいただいたのは、農業短期大学での実習でした。手の中で最期の力を絞ってあがいていた鶏がくッと息絶え、(羽根を抜きやすくするため)お湯に浸けてから羽根をむしり、関節の間に包丁を入れて、部位ごとに分けていくと、スーパーでパックに入れて並んでいるお肉のようになります。鶏を怖がらせないように、痛くないように!と願っても、捕まえて逆さにして頸の血管を切る。鶏も必死なので、屠る私もエネルギーを使うし、食べるためにいのちをいただくことや、自分のいのち・生き方についても問われ続ける人生のはじまりです。
短大を卒業して西アフリカのセネガルに青年海外協力隊員として派遣され、牛やヤギ、ヒツジ、ブタ、鶏が自ら餌を探して街のなかや草原を歩いている姿が体になじむまで、お肉を食べる・生き物のいのちをいただくことに抵抗がありました。
一生懸命、今を生きているセネガルの家畜たち、野菜もあまり作れない国で人間が食べない草や落花生の葉・芋のツル、人間が食べ残した食料を食べて、人間がいのちをつなぐためのお肉を作ってくれる家畜たち。そこに生きる人々が、暮らしの中で家畜を屠り、頭から足の先まで残さず食べきる姿に触れ、ようやく私もお肉を素直に感謝して食べられるようになり、自分で鶏を買ってきて潰してお料理を作ったり、塊の牛肉やヤギ肉をいただいたり買ったりしたときは、柔らかくて脂も適度についているところは、そぎ切りにしてサッと焼いて食べるように。スジや脂が多いところは角切りにして煮込み料理に・・・とお肉をおいしく生かし切るスタイルが身に付きました。そして、家畜のいのちをいただいているのだと感じるたびに、せっかくいただいたいのちで生きている私の体も大切にしっかり使って生きなければと思います。
短大生のときは、将来、自分がブタを飼って、小さな肉屋をするとは想像もできなかったのですが、セネガルの暮らしでお肉の扱いにも慣れたことが、今、役立っています。
そして、私の代わりに、鶏や牛を育ててくれる農家の方たち、エネルギーと手間もかかる屠畜から骨抜きなどの加工をしてくださっている屠畜場の方に感謝!
2019年12月