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帰り道、住宅街を歩いていると白茶色のまだら模様が目に入った。それは道に落ちた大豆だった。黒いアスファルトに白茶色の大豆が映えていた。近所に住む人々が、節分ということで豆まきをしているようだった。

それからほどなくして家に着いた。いつものように「ただいまー」と言いながら戸を開ける。すると玄関に同居人Aくんが立っていた(僕はシェアハウスに住んでいる)。

A「あ、おかえりなさい。ジェロさん、豆まきやりますか?」

例に漏れず、僕の家でも豆まきが開催されるようだった。僕は帰り道に見た大豆たちのサブリミナル効果のせいか、いつにも増して豆まき欲が高まっていた。

僕「豆まき? もちろんやるよー。」

欲の盛りを悟られまいと、僕はいたって冷静に返した。

A「じゃあ、代わりに鬼やってもらっていいですか? これ持って玄関で待っていてください!」

Aくんはそう告げると、僕に鬼のお面を渡してリビングに消えてしまった。僕はひとり、玄関で鬼のお面と向かい合った。どうやらリビングでは同居人たちが時間いっぱい待ったなしで、豆まきのファンファーレを今か今かと待ち望んでいるようだった。

僕は知らぬ間に、Aくんから鬼の役目を請け負っていた。しかし僕は子どもの頃から、豆はまくものであって受けるものではないと思っていた。そのため鬼の役目を請け負ったはいいものの、どうしようかと心を決めかねていた。

「鬼は外~!」

リビングからは同居人たち改め豆まき進軍の声が聞こえてくる。僕は心を鬼にできぬまま、とりあえず鬼のお面を装着した。

心を鬼に

お面をかぶると、視界が暗くなった。すると幼少期からの節分にまつわる思い出が、走馬灯のように思い出された。

僕は公務員家庭なので、家族の誰かが鬼の仮装をするなどというウィットに富んだ節分は過ごして来なかった。だから毎年、目には見えない概念としての「鬼」に向かって、ひたすら豆を投げていた。

ふと、鬼のお面を着けた今の自分を省みる。するとある一つの仮説が僕の脳裏に顔をのぞかせた。

僕が子どもの頃に豆を投げつけていた「鬼」とは、もしかすると今の僕なのかもしれない。

公務員家庭を抜け出した僕は、お笑い芸人として東京で生活している。しかしその実態は「生活」とは到底言い難い。薄給に甘んじて隙あらば他人の金で飯を食おうとハイエナよろしく目を光らせる、おおよそ褒めるべきところのない社会の底辺である。

健康で文化的な最低限度の生活を送る上で必要不可欠な経済的安定とは対極にいる僕の存在は、たとえ政府に国民としてカウントされなかったとしても何も文句は言えない。そのような人物は、公務員家庭からすれば一番の「鬼」である。

幼少期は概念に留まっていた「鬼」の存在は、大人になった僕の体を借りて実体化したのだ。

僕はそのことに気づき、空恐ろしくなった。今すぐに鬼のお面を外したいと思った。しかし外そうとしてもお面が外れない。鬼のお面はペルソナのように顔にへばりつき、僕はまさしく鬼そのものになっていたのだ。

「鬼は外~!」

豆まき進軍の声は目と鼻の先まで近づいて来ている。いっそのこと粉骨砕身の覚悟で豆を受け止め、この身もろとも鬼退治をしてほしいと僕は願った。心を鬼にする必要などなかった。だって僕は、鬼そのものなのだから。

鬼の目にも

「あ、鬼だ!」

僕を見つけた豆まき進軍は、まごうことなき真実を口にした。そして僕の願いを叶えるかのように、力強く豆をまいた。

「鬼は外~!」

僕は豆まき進軍の中に、幼い自分の影を見た。幼い僕が今の僕に向かって豆をまいている。

「鬼は外~!」

僕は鬼であることを恥じた。そして次の節分までに、公務員家庭の「鬼」でなくむしろ「福」になろうと強く思った。

僕は降り注ぐ豆を受け続けた。それは水圧の強いシャワーのように、僕に巣食った「鬼」を洗い流してくれると信じた。そして僕は心の中で、決まり文句を念仏のように繰り返し唱えた。

「鬼は外~!」

僕はお面をしていたため、豆まき進軍改め同居人たちに表情の変化を見せることはなかった。しかし豆まきを終えて掃除をした同居人は、玄関の鬼の跡地に数滴のしずくを見たという。感情が表に出ることは少ない僕であるが、豆を受けながら心と体に痛みを感じていたのかもしれない。

未来のことを言えば鬼が

気が付くと、節分から一日が経っていた。僕は自室の布団で眠っていた。顔に鬼のお面はなかった。枕元には豆があった。

目が覚めたとき、僕の気持ちは晴れやかだった。昨日まであった口内炎が治っていた。僕の体を借りて実体化した鬼は言葉の通り、豆を受けて外へ出ていったのかもしれない。

薄給生活者らしく白昼堂々散歩をしてみたが、外へ外へと追い出されたはずの鬼たちを街で見かけることはなかった。鬼たちは、今どこで何をしているのだろうか。

昨日の決意を忘れないように、僕は自ら掲げた目標を頭の中で反芻した。そしてゆくゆくはテレビに出て、有名になって、お金を稼いで云々と、明るい未来予想図ばかりをイメージした。

昨日までの「鬼」は、もう僕の中にはいない。僕はそのことを再確認するように、幼少期と同じく声高らかに宣誓した。

「鬼は外~!」

どこからか、笑い声が聞こえた。外出していた鬼が笑ったのかもしれない。未来のことを言えば鬼が笑う。

それでも良い。だって僕は、お笑い芸人なのだから。

大きくて安い水