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続続・なんちゃって文学部卒の読書日記

ピーマンのナムルが美味しい。

ピーマンを細切りにして耐熱容器に広げて並べる。ラップをかけて電子レンジで1分半加熱。加熱している間にタレを作る。ごま油、塩、胡椒、砂糖、香味ペーストをいい感じに混ぜる。加熱が終わったピーマンにタレをよく和える。冷蔵庫で冷やす。完成。

食べる。美味しい。白ごまを振ってもいい。超簡単。ピーマン嫌いの子どもはきっと面食らうだろう。ピーマンの肉詰め以来の衝撃。いや、ピーマンの肉詰めよりピーマンのナムルの方が勝っている。ピーマンの肉詰めを食べているときは「ピーマンいらないなあ」と思ってしまうからだ。ナムルはそういった雑念を生まない。これはナムルにされるべく誕生した果実だと、ピーマンをポリポリ噛むたびに確信している。

ピーマンのナムルにハマって以来、近所のスーパーでピーマンばかり買い込んでいる。おそらく、店員たちの間で僕は「ピーマン」というあだ名で呼ばれているのだろう。もう緑の服は着ていけない。赤を着れば「赤ピーマン」、黄色を着れば「黄ピーマン」になるから、赤と黄色も着られない。寝巻きとして連日稼働しているグレーのスウェットで行かざるを得ない。いや、グレーを着たら「グレーピーマン」と呼ばるかもしれない。グレーピーマン、何だか「葡萄っぽい人」とも聞き取れる。となると、むらさき色も着られない。嗚呼一体何を着ていけばいいのか。

黒があった。僕は黒の上下スウェットを着て、白いマスクで鼻口を隠し、荒れた森のような寝癖を携えてスーパーへ向かった。店内でピーマンを物色中、母の手を引く少年に「不審者?」と言われた。母親は少年の目をそっと覆った。少年の感性は正しく、街は愛に溢れていた。

以上はさておくための前置き。著者敬称略で読書感想文を書き置く。

又吉直樹『劇場』

主人公の「永田」は劇団の脚本家。女優を目指して上京した「沙希」と出会い、夢を追いながら現実と向き合っていく。「永田」は創作活動に没頭すればするほど、人間存在という現実的な本質に立ち返る。

演劇の脚本を書くこと、つまりフィクションを創作することは現実や人間からの逃避ではなく、むしろより人間に近づき内側を追求する行為であると、「永田」目線の物語を読み進めていくうちに僕は感じた。想像の世界を拡張すればするほど、それは自らの内省に行き着く。相反して見える二つの事象が、別々の道ではなく、必ず誰もが歩む一本の道に通じている。フィクションを語ることはリアルを語ることと同義であり、その二つは同時に行われている。野暮なことを言えばこの『劇場』という物語自体がフィクションではあるが、そこで交わされる会話は境界を飛び越え、現実の僕たちの心に届く。それに、泣いた。物語のラストで、ちゃんと泣いた。映画版を観る前に文庫版を読んでおいてよかった。これはどこまでも上質なフィクションであると同時に、どこまでもどうしようもない現実の物語である。

今日はここまで。万が一そして億が一、誰かの今日から明日への途中に僕のnoteがあったらそれはこの上なく幸せだし、そんなことがまるでなくても僕は勝手に書いている。これは誰にも頼まれていない、僕の呼吸である。両手を広げ大きく深呼吸をしては、暗くて低い天井を仰いでいる。ピーマンもいいが、そろそろ天ぷらそばが食べたい。そこに大きな海老がなくてもいい。

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