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【私の生き方⑤】人のせいにしないということ

私のことをよく知らない方からは
「何の苦労も知らない、幸せな人」「人をだまして人生を狂わせる人」
と思われることが多々ある、とみています。

なぜ、そう思うのか、といえば「そう言われる」ことが
直接も、ありますし、他者から耳に入ることもあります。

昔はそういう風にいわれたら「そんなことはない!」と
一生懸命、反論や説明をしていたのですが
最近はそうすることも、なくなりました。

その理由が今回のテーマ「人のせいにしないということ」なのです。

「何の苦労も知らない幸せな人」といわれることについては
これも実は「他者から見える私」であって、本当の私ではない。
最近は特にそう思います。

実際の自分は、両方思います。
「そんなに私は、苦労を知らないわけじゃない」
「確かに私は恵まれていて、苦労は知らないかもしれない」

どちらも本当の私です。

「人をだまして人生を狂わせる人」といわれることについても
「他者から見える私」であって、本当の私でなはい。

実際の自分は思います。
「人をだまして、人生を狂わせたことなんてない」
「もしかすると気付かないうちにそういうことをしているのかもしれない」

どちらも本当の私です。

ただ、この中からたった一つ、見える真実はあります。
わたしが「そういう人に見えることがある」ということです。

そして大切なのはそれを「自分がどう受け止め(捉え)るか」ということ。

さらに大切なのは「どう見えたとしても、最後は自分がどう動くか」です。

人にそう思われるということは、2つの条件が重なって起こります。

①自分がそう思わせる振る舞いとをしているということ。
相手に、そう捉えるような「価値観」が存在しているということ。

「幸せで苦労知らず」そう思われたとしたら
私が意識的にも無意識にも
「そう見える振る舞いをしている」ということ。
相手が意識的にも無意識にも
「私のような振る舞いをしていることを「幸せで苦労がない」と思う価値観がある」ということ。

「人をだまして人生を狂わせる」そう思われたとしたら
私が意識的にも無意識にも
「そう見える振る舞いをしている」ということ。
相手が意識的にも無意識にも
「自分が「人から騙される」「人生を狂わされる」と捉える価値観がある」ということ。

そして私がそれを「受け入れて改善する」のか「拒絶して反論する」のか
「それとも気にしない」のか。
たったそれだけのことだなと、思うのです。

そしてその判断基準は
「自分がする行動一つ」が「何を意図して、そう思って行動したのか」
出来る限り自分でそれを把握して
しっかり意志をもって行動した結果どうなのか。

自分の行動に「自覚」が持てるようになればなるほど
「受け入れて改善」も「反論して肯定」もしなくなりました。

何故なら「自分の意図」と「相手の想い」が、なにをどうやっても
すれ違うことの方がこれまでの人生たくさんあったからです。

結局「真実は人の数だけある」ということに気づいてから。

他者のせいにすることが本当に無意味なことだと感じるようになりました。
おかげでより一層「幸せで苦労知らず」といわれるようになったことは
いうまでもありません。笑

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