いつの時代も腕の立つものが求められる~「キングダム」の冒頭だけ見て思う~

 大ヒットマンガを原作とする2019年の話題の映画「キングダム」が、今年5月に金曜ロードショーで放送されたときの話。

 最初に言っておくと、私はこの作品に興味はあまり無い。名前はもちろん知っている。豪華キャスト共演などなどで話題になっていたことも知っている。しかし、そういったもろもろのことよりも、私の関心は、秦の時代がどのように映像化されているのか、という歴史的観点(と言って良いのかどうかも微妙だが)にあった。

 加えて私は、今回この作品の冒頭30分くらいしか見ていないので、作品そのものを云々言える立場にないため、この場での批評は控えておこう。なので、映画批評を期待されている方はこれより先は読まなくてもよいかもしれない。

 私が面白いと思った部分は、冒頭、奴隷の境遇にあった2人の少年が出会い、奴隷として青年期を迎えるその時期にある(作品の冒頭しか見ていないのだから当たり前だ)。ドラクエ5の物語冒頭を連想させるこのくだりはともかくも、2人の少年が奴隷生活から脱出する手段として、剣の練習に打ち込むところが面白い。

 どうしたらこの奴隷の生活から抜け出せるのか、という問いに対し、もう一人の少年が「それは剣だ」と答える。なぜ「剣」だと思ったのか、はたまた気づいたのか、その理由はこの場面だけでははっきりわからないが、まずはその結論に至っただけでも素晴らしいと思う。なぜなら、奴隷の境遇から抜け出すことのできない多くの人間は、このこと(あるいはこれに近いこと)に気づかないからである。

 2人の少年はひたすら剣の練習に打ち込む。剣の稽古に励む。やがてそのまま成長し、ある日のこと、身分の高いある人物に見いだされる。

 2人のうち1人だけが「ヘッドハント」されるのは必ずしも剣の技術だけではなかったようだが、もしその剣の技術が備わっていなかったとしたら、結果は違っていたかもしれない。そういう意味では、彼らが小さいころから剣の練習に打ち込んでいたのは、正しかったのだ。

 一方、「ヘッドハント」する側にしてみれば、逸材はどこにいるかわからない。ダイヤの原石が、ダイヤの採掘場で見つかるとは限らない。過度の期待は禁物だが、常にあらゆるところにアンテナを張っている必要がある。道端でたまたま出会った青年が、意外な可能性を秘めていることがあるのだ。

 話はやや飛躍するが、「ヒュミント」の大切さに通じるものがある。重要な可能性はどこからもたらされるかわからないのだ。こちらが知りたいことを、その男は知らないかもしれない。しかし、こちらが知りたいと思っていることを知っている人間を知っている可能性は、いつでもあるのだ。

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