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ボカロレビュー:フェザーミーム『Kurderia』押韻が歌詞に与える説得力

みなさん、歌を聞きながら歌詞を追うほうですか?

ぼくはね、あんまりです。だって無理ですよ。難しい。音楽って、たくさんの音が鳴ってて、それがこっちの理解と関係なくものすごい速度で流れていきます。ボーカルを聞き取り、意味や響きを判断して「いい詞だなあ」みたいに考える余裕はないのです。ぼくはたいていの音楽で固有の時間の流れについていけていない。これはぼくの能力的な問題です。リズムに乗ってごちゃごちゃ言ってるのを聞き取るのは難しい。リズムに乗ってなくても難しい。そういうわけで、ぼくの歌詞に対する基本姿勢は「わあ、なんか言ってる♡」くらいの感じになります。歌詞が日本語でも英語でも、だいたいこれです。

しかし最近、細馬宏通さんの書いた『うたのしくみ』という本を読んだことで、このスタンスに多少の変化がありました。歌と歌詞の関係について大変おもしろいことがいろいろと書いてあったんですね。とくにポール・サイモンの『50 Ways to Leave Your Lover』を題材にした押韻のもたらす効果についての章にはもろに影響を受けました。こんなおもしろいものを無視してはもったいない。みなさん、知ってましたか? 歌詞って大事なんですよ?

いい本を読んで「よかったな」で終わってもいいんですが、せっかくなので本に書いてある内容を自分なりに咀嚼して「うた」を考えるのに使ってみたいと思います。フェザーミームの『Kurderia』という曲を聞いてください。基本的にニコニコ動画でボカロを聞いている人の耳にしか入らない曲なので、あなたはこの曲を知らないでしょう。

聞きましたね。この曲については『うたのしくみ』を読む前から「歌詞がいいな」と思っていました。歌詞を聞く文化を持たない蛮族にも響く歌詞があるんですね。びっくりです。今回は特に歌の一番のヴァースーコーラスの流れを追いながら、どうよかったのか考えてみましょう。

躁かな? 機械かな?
自分では嫌いかな
遅い、暗い、古い、苦い
似合うのを選んだら
ミラーの絵、私だけ
ミラーの絵、私誰?

ヴァースの出だしでいきなり「躁」が歌詞に出てきます。つらい。ボーカルの音程は半音の間をフラフラするばかりでメロディ感がとぼしい。コードも落ち着かない。歌詞は「機械」「嫌い」「遅い」「暗い」「古い」「苦い」と「ai」の音で韻を踏みながら暗い方向に転がっていく。歌いだしの「躁」が導く印象のまま安心させてくれません。

アイスは溶かしたら
黒い服汚すよ
ファイルに落とした手
落とした目
開いたら頭クラクラ
眩暈の中で選んだ
ここ午後三時頃
細かい計算は苦手
とりあえずの気持ちで
とりあえずの気持ちで

「アイス」「ファイル」「開い」「眩暈」とやはり「ai」の音で韻を踏みながら進んでいきます。「頭クラクラ」「眩暈」は、そのままこのヴァースの不安定な印象に重なります。「ここ午後三時頃(ここごごさんじごろ)」の音は面白いですね。くぐもった「o」の響きをやたら強調して「細かい」「とりあえず」の頭の「o」を準備する。「三時(さんじ)」の音は「計算(けいさん)」を導く。ここまでがヴァースです。

きっと
昨日と違う日が朝にはあったのに
今日のお昼は虚ろなメンテ
あっ
今日と違う日が明日にはあるはず
そう遠くないよ答えはスクーデリア

コーラスに入ると、メロディとコードの両面で宙づりの不安定感がかなり解消されます。しかし完全にではない。ピッチの不安定なメロトロン風の音色が登場するからです。この音がコーラスにただ安らかなだけでない、どこか壊れた印象を与えます。

歌詞にも変化があります。ヴァースの歌詞はナンセンスでとらえどころのない感じがしましたが、コーラスではかなり明快です。

「きっと昨日と違う日が朝にはあったのに」……「のに」は逆説の表現ですから、もうこの時点で昨日と今日が「違う日」にならなかったことがわかります。今日はどんな日だったのか? それが「今日のお昼は虚ろなメンテ」です。「メンテ」=メンテナンスという言葉から心身の不調がうかがえます。不調の原因はもちろん、この曲の最初の単語「躁」でしょう。きっと朝には違う日があったと感じられるということは、朝にはそこまで調子が悪くなかったのかもしれなません。しかし、ヴァースの歌詞のようななんやかんやがあって、お昼には「メンテ」が必要なほど参ってしまった。「昨日」「朝」「今日(のお昼)」と時間が流れていきます。次に来る言葉もだいたい予想できますね。この「予想できる」というのは重要で、予想できない言葉が歌詞に登場すると聞き取りはだいぶん困難になります。

「今日と違う日が明日にはあるはず」「そう遠くないよ答えはスクーデリア」……当然「明日」が来ます。ここでの「明日」は具体的な日付を超えて、未来を広く表していると見た方がいいでしょう。「明日にはあるはず」という言い回しは確信めいたところがぜんぜんなくて、弱弱しい。この「はず」に根拠はありません。昨日も今日も具合悪くて、明日よくなるかどうかなんてわかんないですね。でも実は、ぼくはその言葉をすっと受け入れることができます。なぜか? 次の「そう遠くない」というのも、特に根拠がなさそうですね。そんなことはわからんですよ。では、ここで歌われることが単なる気休めに聞こえるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。そこには単にそうであってほしいという以上の希望が見えます。なぜか?

これが今回まさに言いたかったところで、その理由の一つが韻にあります。「明日」の韻とアクセントが「はず」という言い回しを導く。「今日と違う日」から「そう遠くない」を導く。どちらも韻から見て自然なのです。だからこそ、ぼくはその言葉を受け入れることができる。

「そう遠くない」を突然に感じない理由をもう一つ挙げることができます。ぼくたちは「そう」の音をすでに聞いています。この「そう」は予告されたていた。どこで? この曲の歌いだしの「躁」です。しかし音は同じでも、意味が逆転しています。明らかに不穏な響きを伴っていた「躁」とくらべて「そう遠くない」の響きは包み込むように安らかです。

コーラスの歌詞は音の響きの面から見ても周到です。「きっと」「きのう」「きょう」と歌いだしの「k」の音を強調しながら「そう遠くないよ」で「s」の音をやさしく鳴らしてから「答えは」で「k」に戻り、最後の単語は「スクーデリア」……「s」と「k」の音の連続で終わるのです。

「スクーデリア」というのは聞きなれない単語です。おそらくこの単語に明確な意味はありません。「オブラディ・オブラダ」「ケセラセラ」と同じです。なんとなく「大丈夫」な感じがする、やさしいことば。面白いのは、この曲のタイトルは『Kurderia』=「カーデリア」なのに、ここで歌われる言葉は「スクーデリア」だということです。この「スクーデリア」という言葉は、再度登場した時の「教えてスクーロ」を経て、最後にタイトルの「答えてカーデリア」にたどり着きます。全部タイトルの「カーデリア」にしてもよさそうなものを、なんでそんな回り道ををしたんでしょう?

これはもう完全に想像で言うしかないところなんですが、思いつくのは「スクーデリア」の「s」の音が必要だったのかなということです。「答えはカーデリア」ではダメで「答えはスクーデリア」でないといけないなら、重要なのは「s」の音でしょう。「そう遠くない」の安らかな「s」の音を引き継ぐ形で「s」の音が必要だった。というか自然と「s」の音がくっついてしまった。そんな風に想像します。

というわけで、フェザーミーム『Kurderia』の一番の歌詞を考えてきました。芥川龍之介は「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」と書いていましたが、歌詞についても同じだと思います。いい歌詞というのは、歌詞カードや動画の中でより、音楽の流れの中にあるときに美しさをたたえているものです。『Kurderia』もそういう歌詞を携えた音楽のひとつです。引用した歌詞を読むだけではそのすばらしさはなかなか伝わらない思うので、ぜひ実際にその耳で聞いてみてください。おわります。

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