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嬉しくって、ちょっと苦い。

書くことは救いになるのだろうか。

たぶんそれは無理。
ただ、少なくとも救われるための
試みにはなっている。
頭の中で考えるだけでは、まとまらない。
手を動かして文章にしていくうちに、
少しずつ糸がほどけていくことはあるだろう。

noteを始める前
他の場所でエッセイを書いていた。
それは《人生の辛い時代ランキング》で
堂々の上位入賞の頃。
息をするのがやっとだった。
なぜ息をしているのだろうとすら思っていた。

ある朝、
起きようとしたら
疲労が溜まり過ぎて体が全く動かせなかった。
ドクターストップを無視するしかなかった。
人間の怖さと狡さを思い知った。
信じていたものは幻だった。
信じられるものなど何ひとつなくなった。

そのエッセイに
辛い日々のことそのものを書いたことは
ほとんどない。
大抵の内容は
日常感じたことや、過去の記憶、
好きなものや、現在地での想い、
立ち直るためにしていたこと、など。
けれども読み返していると
行間から心が流した血が滲みだしてきて
苦しくなるのだった。
その頃の記憶が呼び覚まされるからだろう。
ああ辛かったね、と
過去の自分を不憫に思ったりする。

それにもかかわらず
この夏
そのエッセイのすべてを
思いきって《本》のかたちにした。
スマホの画面の中に
閉じ込めておくのではなく、
紙の本にまとめてみることにしたのだった。
思い出すのが辛い気持ちはもちろんある。
読み返して、もう一度傷つくのは怖い。
それでも
読んでいくにつれて、
少しずつ少しずつ
明るい方へ歩いていくのが見えたから。
私なりの道のりが
間違っていなかったと教えてくれたから。

エッセイを読んだ
沢山の人がくれたコメントに
心が温かくなったこと。
ある部門ランキングで1位になった時
今は亡きあの人が褒めてくれたこと。
書くことで気持ちが整理されて、
そこから先の道が
ほのかに明るく光って見えてきたのだった。
結果的にそれは予言のように
今日に繋がっている。
あの頃には知り得なかった未来。
それが『今』で、
私はこうして
なんとか前へ歩いてこられたのだと
読み返して気づく。

人に見せる見せないは別として
とにかく文章にきもちを書いてみることは、
『療養前の聴き取り』的な
作用があるように思う。
療養、まではいかないかもしれない。
私の手は
一筆書きのようにずるずると出てくる言葉を
引っ張りだしてひたすら書き、
私の目は
それを読む。
自分が書いたモノの
一番最初の読者は自分自身で、
ちゃんと読者になってみつめることで
自分の心の良いところ弱いところ
全てにとりあえず
うなづいてあげる。


情けなくたっていいじゃないか。
辛い中、今日も朝に目を開けただけで
充分エライ。
他人と私とでは、受け取り方が違う。
執着を捨てることが一番のクスリ。
もうこれ以上、頑張らなくていいんだよ。

自分が自分の味方でいてあげることは、
大切なこと。
それが最後の砦だから。
今、読み返す本のページは
拙くて独りよがりで、愛おしい。

noteで今の私が書いている文章は
面白みがないと思う人もいるだろう。
けれど、
穏やかな気持ちで文章を
書けるようになったのは、
私自身にとっては、ある意味
『進歩』のひとつなのだ。
だから
この場所で書いているという事実は
過去の私から見たら奇跡。

届いた本を胸に抱き、
あの頃の自分を労わりたいと思った。
言霊に乗せた想いの通りに進んできたんだよ、と。
本というかたちにして、
気持ちを弔ってあげられた実感がある。
もっともっと先の未来に
この本を再び読み、
もがいていたなあ、なんて
微笑みすら浮かべられたなら。
それは未来の私が
安心して生きている、
という証かもしれない。


それにしても
紙の本は、やっぱり好きだな。
手にしたときの
心の喜びの震え方が違う。
簡単にまとめただけだけれど、
装丁も凝ったものには出来なかったけれど、
大切な記録になったことはたしか。

そしていつか
前向きな本を作れたらいいなと思う。
読み返して楽しくなるものを!
ね。





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文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。