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命題

「命の題」と書くと何やら胸を打つ熱い題のように感じるかもしれまんせが、数学で命題(めいだい)というのは、何かを記述する、あるいは言明するのに最も基本的なものです。高校の教科書では、例えば数研出版では「正しいか正しくないかがはっきり定まる文や式を命題という」となっています。

例えば、文「1+1=2である。」は正しい。文「1+2=0である」は正しくない。これらは命題である。

一方、「彼は背が高い」、「カレーは辛い」というのは正しいか正しくないかは明確な判断基準がなく、したがって正しいか正しくないかが定まらない。よって命題ではない。

議論の土俵に上がってきた文が、正しいまたは正しくないと判断できるのであれば、その文は「命題」と昇格される。

「正しい」、または「正しくない」を、、またはと呼ぶこともあります。この用語を使いながら少し広げて、「真偽のいずれかが定まる、または定まるべき文」を命題と呼ぶ、ということでひとまず定義したい。
(※注意:「定まる」というと真偽の判断手続きがあるように思われるかもしれないが、そうでなくてもよいことがある。「定まるべき」というのは、その手続きが不在でもどちらかであることが分かるという気持ちを含めたかった。)

例えば「円周率πのπ乗(π^π)は無理数である」というのは文であって、実数は無理数か無理数でない(つまり有理数)かのどちらかでしかないから、正しいか正しくないかが決まっている。よってこの文は命題である。

ただ、実際にこれは本当に正しいのか、正しくないのかは証明されないと何とも言えない。だからどちらに倒れるのかは我々はまだ知らない。

(※注意:πのπ乗は有理数か無理数か、あるいは超越数か代数的数かというのは現時点で未解決であるようです。)

命題とは何かをきっちり定義しようと考えるのはそれだけで深い内容になってくるのでこの辺で止めよう。(注意:真偽は何によって定まるかを定義すらしていないし、文というのは何か、あるいはどの範囲で言うのかというのも設定していないですね。)

さて、いくつかの命題から新しい命題を作ることができます。

まず命題P,Qに対して、
PかつQ,PまたはQ,PならばQ,Pでない
という新しい命題ができます。これらを記号ではそれぞれ、
P∧Q,P∨Q,P⇒Q,¬P
と書かれます。(ただ著者によっては多少の記号の変化はありますが、この記号を使うのが一般的かと思います。)また、「¬」は他の演算と比べて記法の上で結合が一番強く、「⇒」はその次に強いのが通常の慣例です。

これらは命題の上の2項ないし1項演算ということになります。そしてその演算方法の詳細は、真偽表というものを使って表現されます。詳しくは論理学などの教科書を見てください。

なお、「P⇒Q」はPが偽の場合、真偽値は「真」に割り当てられるので注意しよう。

例えば、命題「xが空集合Φの元ならばxは神である」というのは「xが空集合の元である」というのが命題Pに相当していて、この命題Pは偽である(空集合とは一つも元を持たない集合のことである)ので、元の命題は「真」となります。

また、命題「P⇒Q∧Q⇒P」を「P⇔Q」と略記して書く。

この2項演算「⇔」というのを、命題の集合の上の2項関係と考えれば、これは反射律、対称律、推移律を満たすので、同値関係となる。(注意:「関係」の項参照。)P⇔Qを「PとQは同値である」としばしば呼ばれるのも確かに同値関係となっていることから整合性があります。

また、矛盾というのは、ある命題Pについて、命題Pと命題¬Pがともに成立しているときにいう。従ってP∧¬Pという命題が真になり、一般にP∧¬Pは偽ですから、真=偽ということになります。真=偽ということは、その体系内ではどんな命題も真であって偽である状況です。つまりその体系では真偽の区別のつかない破たんした世界ということです。

証明の論法に背理法と呼ばれるものは、命題「P⇒Q」を証明するときに、命題「P∧¬Q」を証明すると矛盾が導かれることを示すことによって、もとの命題「P⇒Q」が真であることを示す方法です。

これでなぜうまくいっているかというと、命題「P∧¬Q」が矛盾を導くので、「P∧¬Q⇒偽」は真。よってその対偶をとっても真偽値は変わらないから「真⇒¬(P∧¬Q)」は真となります。よって「¬(P∧¬Q)」は真。ところでこの命題は「¬P∨¬¬Q」という命題と同値で、さらに二重否定¬¬という演算はもとに戻ることから「¬P∨Q」と同値です。さらにこの命題は「P⇒Q」と同値です。こうして、元の証明したかった命題「P⇒Q」が真であることが示されるという訳です。

命題の一般の話に戻って、「任意の○○について」、とか「ある○○が存在して」というのもあります。

例えば、「任意の実数xについて、x×0=0である」、「ある実数xが存在してx+1=0である」という風に用いられています。

「任意の○○について」というのは英語では「for all ○○」になり、つまり「すべての○○について」という意味です。それでAllのAをひっくり返した”∀”という記号(全称記号という)を使って、
∀xP(x)
という形式で書かれ、「任意のxについてP(x)である」という命題を表す。

「ある○○が存在して」というのは英語で「exist ○○ (such that~)」だから同じように”∃”という記号(存在記号という)を使って、
∃xP(x)
という形式で書かれ、「あるxが存在してP(x)である」という命題を表す。

全称記号と存在記号を総称して量化記号と呼ばれます。

こうして、数学の命題は上記のような記号を組み合わせることで、形式的に表現できるものとなり、逆に命題とはそのような式として再定義したい。つまり、命題とは上記の記号を適切なルールの上で記述できるような記号列(論理式という)のことである。命題を論理式に形式化することの長所は、言葉によるあいまいさが回避されて明確に伝わる場面がある、という点があります。

複雑な論理があったときに一つ一つを論理式でとらえて記述し、そして誤った論理の変形をしていないか、などがチェックできます。そういう意味では論法の正しさを検証するのにも十分価値があります。

余談ですが、一時期私はこのことを知ってからは、数学は結局のところ「記号列の変形に過ぎない」という認識に支配されていました。考え得るすべて命題について、一つ一つ「真」か「偽」というスタンプを押していく作業に尽きると。そしてチューリングマシンという画期的な機械が発明されて、すべての命題で真偽の振り分けもが自動化されると、数学者の仕事はなくなるではないか。(注意:それでも決定できない命題が存在する。)

しかし、どうやらそれだと心の中で何も生まれて来ない。発展しているわけでもない。絵も描けない。「数学する」のは人間で、人間の脳の処理に乗るようなものは、絵や言葉などの方が記号よりも先に来ると思うのです。記号がいらないという意味ではないですよ。記号に慣れてくると言葉よりも便利でシンプルで理解が早いこともありますから、そのバランスをうまくとって付き合っていきたい。

命題から始まって、何やら少しロマンの話が入って来ましたので、このあたりで。


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