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シュタイナーの修行

この動画をみていて「シュタイナーの修行」とはなんだろう?と気になった。
関連ありそうなもののまとめ。(備忘録)



神秘学概論

 アストラル体への働きかけとエーテル体への働きかけの違いを知るには、人間の成長過程に現れる特定の変化に、眼を向けなければならない。自我が魂に働きかけるとき、魂の特定の性質に、快と欲望、喜びと痛みに、どのような変化が生じるのか。幼年期のことを振り返ってみよう。

どのような時に喜びをもち、何が苦しみを呼び起こしたか。幼児期に体験した事柄に加えて、その後さらに何を学習したのか。こうした事柄のすべては、自我がアストラル体を支配することで獲得されるものである。アストラル体が快と苦、喜びと痛みの担い手なのだからである。

 これに較べると、気質や性格の特質は、時の経過の中での変化の度合いがはるかに少ない。子どものときに怒りっぽかった人は、しばしば年をとってもその怒りっぽさを保ち続ける。だから人間の基本性格は変わることなどありえない、と考える学者もいるくらいである。その人たちは、人間の基本性格は、一生を通じて持続しており、ただ事情に応じて特定の側面をあらわすだけだ、と考えている。しかしこう考えるのは、観察が不十分だからにすぎない。十分に観察力のある人なら、人間の性格や気質も、自我の在り方次第で変化することを知っている。もちろん、その変化は、前に述べた諸特性の変化に較べれば、ゆっくりしている。両者の変化は時計の短針と長針の動きに似た相違を示している。

 性格や気質の変化を生じさせる働きは、エーテル体の領域に属していて、生命の領域を支配している成長力、消化力、生殖力と同質のものである。これらの事柄については、あとでさらなら詳しく考察するつもりである。

 以上からも明らかなように、人間がもっぱら快と苦、喜びと痛みに左右されている限り、自我がアストラル体に働きかけている、とは言えない。魂の諸特性を変化させるときにのみ、そう言えるのである。そして自我の働きが、さらに性格や気質をも変化させようとするとき、その働きは、エーテル体にまで及んでいる。どんな人の自我も、それを意識しているかどうかに関わりなく、エーテル体を変化させようと働いている。

 通常の生活の中で、エーテル体を変化させるもっとも強力な衝動は、宗教衝動である。自我が宗教から流れ出る力を、繰り返して自分に作用させるとき、その力は自我を通してエーテル体にまで働きかけ、エーテル体を変化させる。そして、人生における学習、内省、感情の浄化といった、もっとも弱い力だけでも、アストラル体を変化させることができる。これらの力の場合は、人生の中で多様な仕方で交替するけれども、宗教は、思考、感情、意思のすべてに統一した性格を与え、魂のすべてのいとなみを同じ統一した光で照らし出す。人間は、今日はこれを、明日はありを考え、そして感じる。さまざまな機会が、そのためのきっかけを与えている。けれども、宗教体験を通して、変化の中に持続的な部分を感じとる人は、今日考えたり、感じたりした事柄を、昨日と同じように、自分の宗教体験に結びつける。そうすると、宗教、信条は、魂のいとなみに一貫した態度をとらせる。そのような態度から生じる影響力は、時の経過と共にますます強まっていく。なぜなら、繰り返し作用し続けるから。だからこそ、その力はエーテル体に働きかける能力を持っているのである。

 真の芸術の影響力も同じような仕方で人間に作用する。ある芸術作品の形、色、音が、人間の霊の地下層を形象と感情で貫き倒すとき、それによって自我が受けとる衝動は、エーテル体にまで作用する。このことを最後まで考えぬくなら、人間の進化にとって、芸術がどれほど大きな意味をもつか、理解できるであろう。

P077-079 人間性の本質


 人間は、視力を強化することができるように、認識力をも強化することができる。ただ認識力を強化するには、魂の次元の、内的な手段を用いなければならない。その手段は、本書においては、瞑想、集中として述べられている。
 通常の魂の働きは、身体という道具と結びついているが、強化された魂の働きは、肉体から自由になる。しかし現代人は、このような主張をまったく無意味な自己欺瞞に基づくと考え、「すべての魂の働き」が神経系に結びついていることを、容易に立証できると思っている。肉体に依存しない魂の働きがある、という主張は浅薄な人のすることだ、ただ「霊学という素人芸」だけが魂体験と神経活動との関連を見通せずにいる、と確信している。
 このように、本書の立場に、現代の思考習慣は厳然と対峙している。だから多くの点で、現在は理解を得る見通しがまったく立っていない。

P021 四版のまえがき

 著者は、「超感覚的世界観の概観」という本来のあるべき内容に、この新版もまだまだふさわしいとは言えない、と強く感じている。版を重ねたことを、不遜な気持ちで強調するつもりはない。それゆえ、もう一度、新版のために全体に手を加え、重要な箇所には多くの補足をつけ、意味がよく通るように努めた。しかし超感覚的研究によって明らかにされる事柄に比して、著者の表現手段がどれほどもろいのか、多くの箇所で痛感させられた。土星紀、太陽紀、月紀のために本書が提示した見方をもつことができるための道は、ほとんどひとつだけしか述べることができなかった。

P022

 最後に著者は、次の点にも言及しておきたい。本書を肯定的に受けとめてくれる読者にも、本書の内容そのものだけを受けとっていただきたいのである。今日はさまざまな仕方で、あれこれの思想方向に対して、あれこれの古い名前を与えようとする傾向が見られる。そうするときはじめて、ひとつの思想が多くの人にとって価値あるものに思われている。しかし、本書の記述を「薔薇十字会的」等々名づけることによって、本書から何を得たことになるのか、と問われねばならない。大切なのは、現代という魂の進化期のために、この進化期にふさわしい表現手段で、超感覚的世界への展望を与えることであり、そこから生死の境を超えた人間の運命と人間の生活との謎を考察することである。あれこれの古い名前を身にまとうことではなく、真理への努力が問題なのである。


1913年6月記す
ルドルフ・シュタイナー

P024


 隠されている現在の霊的なものを認めようとしない人にとってのみ、ここで扱われている進化について語ることが、すべて意味を失うのである。それを認める人にとっては、ちょうど五十歳の人の姿の中に、一歳の子どもの姿が観取できるように、現在の状態の中に、過去の状態が存在している。もちろん次のような言い方もできるであろう。「しかし、現在と過去の状態について言うなら、五十歳の人間と並んで一歳の幼児のみならず、ありとあらゆる年齢の人たちもいるではないか」

P151   宇宙の進化と人間


シュタイナー 超感覚世界の認識の獲得

■思考生活の意義を信じなくていい、それについて考え、自分自身の思考にしたまえ

■既存の先入観(偏見)を消去する方法とは
周囲の人に対して、どのような判断も下さぬことを試みる
「最上の修行は嫌悪を感じている人間について(判断を下さないこと)を行う場合である」


■準備のための3つの要素

1「植物の二様相」 
発生 生長 繁栄する様相/衰微 死滅する様相への注目せよ。正反対なものが対で提出されるべき。ふたつの経験は、心的世界の基本形象である。

事象の意味を穿さくし、思弁的知性の力で問題を処理・決済しないよう心がけよ(知的な人間への注意)「もっぱら生き生きと、健全な感覚と鋭敏な観察力を用いて、感覚世界に観入し、そして自分の感情に自己をゆだねればよい。事物が何を意味するかを思弁的な知性の力で決済しようとしてはならない。事物そのものに語らせねばならない」

「自己の内部に沈潜する静観態度とむすびついた芸術感覚は、霊的能力を発達させるための最上の前提である」


2「音」
音が自分の心の外にある何かを告知しているという点に注意力の全てを集中する。全自然がその響きを通して人間にささやいている秘密を聴き取ること。


3「人の言葉」 
直ちに反応するな。自分の内なるものを完全に沈黙させる習慣をつける。例えば自分とは正反対の思想に耳を傾けてみる。賛成や反対の心を沈黙させ、表面にはあらわれにくい意識の底の感情の微妙な動きに注意を集中する。


「傾聴」
自分の意見や感情を完全に排除して聴くこと。これは、こどもなど、何らかの意味で自分より劣ると思う人の発言に耳を傾けるとき、さまざまな種類の優越感や知ったかぶりを抑制する力として現れる

■開悟の段階 真剣に求め続けること
忍耐力を結集させて、この単純な修行を誠実にかつ持続的に遂行する人にだけに、内部に顕現する光を知覚する能力が与えられる。

「真実の修行のあり方は公開されなければならない」
「道徳的な力、内的誠実さ、観察能力を修行を通して高めなければならない」
「慎重な態度」

■私自身の感情と思考には最高の秘密が隠されている。もっとも身近で確実な働きを手がかりとして接近せよ。
眼前のものに、見えない営み(過去と未来の姿)があることを洞察せよ
霊的観点からみれば、誕生と死は存在のひとつの変化の相であるに過ぎない

■「楽に目標に達しようとして、ただ心に思い描き想像の中に保持するだけで済まそうとするなら大きな誤謬におちいる。そうして生じる直感は、多くの場合想像力が生み出す主観的な幻影でしかない」真理は、世界が主観による虚構の産物であることを承認しない
自分の修行を怠って、どこかの霊能者にみえるものをおしゃべりすることは不必要である。その人は超感覚世界と幻覚世界を区別できない
「修行者は常に自分自身を全く意識的に支配し、日常の事柄に対すると同じ確かさで、自分の体験に対して思考力を行使しなくてはならない。修行者がおちいる最大の誤りは、修行を通して均衡を失い、日常の事柄に対するまでそれまでの健全で明確な判断力を忘れることである」


■「自分自身の道徳的性格の純化に努力し、修行によって得た認識を自分の個人的な利益のために利用しようなどと考えることがあっては決してならない。その認識が周囲に対して権力になりうるとしても、決してそのような権力を乱用してはならない」


■修行者にはそうでない人より以上の道徳性が要求される
修行者は周囲の人について考えるとき、その人の尊厳や自由を妨げるような考え方をしてはならない。一切の人間的なものに対する畏れと恥じらいの感情が我々を充たしていなくてはならない。修行者は、他人の自己肯定意識を尊重せよ。思考でそう思うのみではなく、それを感情で生きよ。


「解説 新しい宇宙の創造へ  笠井 叡」

神秘学概論より以下引用

いずれにせよ、神秘学の真摯な読者は、いつかは文献主義的な立場を棄てざるを得ない。それは神秘学というものの本質が読者にそうさせるのである。神秘学の認識には三つの段階があると、ここでは述べられている。霊視ーーー霊聴ーーー霊的合一。そしてシュタイナーが繰り返して述べているように、人が霊視よりもさらに深く、人間の中に入って行こうとするならば、すべての霊視内容を棄てなければ''''''ならない。そして、一切の像を消し去って、そこに存在する霊の響きだけを聴き取らなければならない。どんな神秘学の著作といえども、それが言葉として語られている限り、それは霊視内容なのだ。だからシュタイナーの真の意図は宇宙進化や霊的行法の情報をもたらすことにあるのではなく、何度も改訂したうえで、それを読者の「霊聴」それ自身に委ねるのである。『神秘学概論』は読者の「霊聴」のための「種」である。

神秘学概論 ルドルフ・シュタイナー  高橋 巖 訳
解説 新しい宇宙の創造へ  笠井 叡

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