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"子どもの日"ってなぁに?

こどもの日

「5月5日はこどもの日」
わが家の子どもたちは男の子だったこともあり、この季節は鯉のぼりを揚げ、兜を飾ってきた。
そして、なんとなく柏餅を食べてみたりも。

そんな令和4年のこどもの日にふと、疑問が浮かんだ。
「こどもの日ってなんだろう?」

「起こりや由来はなんだろう?」

そんなことからサクッと調べてみることにしました。
ところが、案の定サクッとで収まらず、なぜか皆神山ピラミッドにつながって、だいぶ長くなってしまった。

・もともとは端午の節句

5月5日のこどもの日は、もともと五節句の1つである「端午(たんご)の節句」の日です。五節句とは、江戸幕府が定めた5つの式日で、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七日、9月9日の重陽の節句を指します。五節句は、制度としては明治時代に廃止されましたが、現在でも親しまれています。
・国民の祝日の一つに

「こどもの日」は国民の祝日の1つで、1948年に制定されました。子どもの成長や健康を願う日と認識されていますが、実はそれだけではありません。祝日法では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日となってます。

こどもの日は日本だけでなく世界各国でも祝われています。中国・韓国・トルコ・メキシコ・ブラジル・インド・タイなど多くの国で祝う風習があります。1954年に国際連合が11月20日を「世界子どもの日」として制定し、加盟国に対してこどもの日を設けるように勧めたことがきっかけです。日付は各国がそれぞれの事情を考慮して決定しました。

「足並みそろえましょう感」が感じられて気になってしまった。

こどもの日は中国の「端午節(たんごせつ)」に由来します。古来、奇数は陽数とされ、陽数が重なる日は大変おめでたい反面「陰」に転じやすいとされたため、祝いとともに災厄を避けるための行事が行われるようになりました。

この風習が奈良時代に伝わると、「端午の節会」という宮中行事になりました。邪気を払うと考えられた「菖蒲(しょうぶ)」を身に着けたり、屋根を葺いたり、菖蒲を編んだ薬玉を飾ったりして、無病息災を祈願していました。
・江戸時代以降に立身出世を願う祭りに

端午の節句は、菖蒲を用いて行事をするので、別名「菖蒲の節句」といいます。
鎌倉以降、武士の力が強くなると、「菖蒲」が「尚武」に通じることや、菖蒲の葉が剣に似ていることから、武家の間で端午の節句が重んじられるようになりました。一族の後継ぎとなる男の子が生まれると、健康や成長・出世を願い盛大にお祝いするようになりました。

江戸時代には五節供のひとつになり、武家だけではなく庶民の間にも広まっていきました。武者人形や吹き流しなどを販売する店もでき、一大行事に発展しました。

「鯉(こい)のぼり」が誕生したのも江戸時代です。もともと武家では、家紋付きの旗「のぼり」を立てる習慣があり、男の子が生れるとのぼりを立てて祝う習わしがありました。この習わしを取り入れようとした庶民が鯉のぼりを考案し、現在に至っています。

【メモ①】
5月5日
・古来、奇数は陽数とされた
・陽数が重なる日は大変おめでたい反面「陰」に転じやすいとされた
・祝いとともに災厄を避けるための行事が行われる


【メモ②】
・五節句とは、江戸幕府が定めた5つの式日
・1月7日の人日じんじつ
・3月3日の上巳節会じょうしせちえ
・5月5日の端午節会
・7月7日の七日
・9月9日の重陽節会
・五節句は、制度としては明治時代に廃止

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【メモ③】
「正月一日為鶏、二日為狗、三日為羊、四日為猪、五日為牛、六日為馬、七日為人。」
正月一日を鶏の日とし、以降、いぬ・猪・羊・牛・馬の日として、それぞれの日にはその動物を殺さない。
七日目が「人日」に当たり、その日は死刑執行をしないことになっていた。

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【メモ④】
現代では「雛祭り」とされている女の子の節供というイメージだが、本来は心身の穢れを洗い流す儀式の日だった。
紙で人形ひとがたを作り、息を吹きかけて流す。

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【メモ⑤】
陽数の「三」が三つ重なる「九」は最高に良い数で、9月9日は日付として最高の日
重陽節会は季節的に菊の花を賞美することことが多く「菊花宴」とも呼ばれていた。

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児童の権利に関する条約

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署名場所がニューヨークなのにアメリカだけ紫色なのに思わず笑ってしまった。
よく見るとぽつっとタヒチ島あたりにオレンジ色も。

"未批准"という言葉を初めて知った。

「主権者が承認し、許す」ということから、「批准」は内容が確定している条約を国家が最終的に確認して同意するという意味で使う言葉です。
通常は、条約を国会でよく話し合って認め、元首などが認証、公布などを行うことで国内において成立します。
国際的な条約の場合は、国際機関などに批准書を委託する、締約国間で批准書を交換するなどにより、国際的に宣言して確定となります。


こんなのを見つけた。

基本情報シリーズ 14
わが国が未批准の国際条約一覧 (2013年 月現在)


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国連・子どもの権利委員が見た子どもの権利

まずこれまでの経緯を簡単に説明しておくと、子どもの権利条約が国連で採択されたのが1989年11月20日で、現在アメリカ合衆国(以下、アメリカ)とソマリア以外の192カ国が批准しています。ソマリアについては現在中央政府が機能していないため国際条約に加盟できる状況ではありませんが、既に条約への署名を済ませていて、国内情勢が落ち着けば批准される可能性は高いです。
  一方他国の人権状況に口うるさいアメリカが批准していない理由としては、アメリカが孤立主義的な立場をとる傾向がある国であることや、市民権には積極的であっても社会権には非常に否定的であることなどが上げられます
子どもの権利条約の中に表現や宗教の自由などがアメリカの強い働きかけによって盛り込まれましたが、教育や健康に関する権利はそれぞれ個人の責任によるものだとするのがアメリカ政府の基本的な立場です。
従ってそれら社会権に関する条項が条約に多く盛り込まれていることが、アメリカの批准しない大きな理由の1つになっています。また子どもが権利行使の主体であるとする条約の子ども観に反対する人も多く、そういった人々が現共和党政権を支えていることも大きな理由になっているのではないでしょうか。

 今後もアメリカが条約を批准することは当面ないと思われますが、この2国以外の全てが批准していることから考えても、この条約が子どもの権利のグローバルスタンダードだといえます。

ジャイアンルールみたいでおもしろくなってしまった。


世界と日本における子どもの権利をめぐる動き(注) 

弁護士・国連「子どもの権利委員会」委員 大谷 美紀子

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最初に条約なんですが、ちょっと条約の講義みたいな話から入って大変恐縮なんですが、これは国連がつくった条約です。
そもそも国連がこうした人権という分野に取り組むようになった背景ですが、条約というのは国際法の一種でして、国際法には条約という、こういう文書で合意してつくったものと、あと、慣習法と言われる、長い時間をかけて、こういうことを守らなければいけないというふうに、国がお互いにそれに拘束されるという意識を持ってでき上がってきたルールと二つあります。

いずれの場合も国際法というのはもともと国と国との関係を規律する、そういう法というふうに理解をされてきました。
その分野は、例えば領土の問題であるとか、あるいは海をどこは自由に通ってもいいとか、ここを通るには沿岸国の許可が必要であるとか、最近でいえば宇宙の利用の仕方とか、昔でいえば、武力紛争というのが戦争という一つの外交手段で許されていた時代には、戦争を宣戦布告して始めなくてはいけないとか、中立国が負う義務であるとか、要するに、国と国との行動規範を決めているのが国際法です。

そのなかにあって、もともと個人というのは国際法のテーマでは全くありませんでした。それが出てくるのは非常に限られた分野でして、どの個人もどこかの国に所属して、どこかの国によって守られる、というのが国際法の基本的な考え方なんですけれども、難民に関しましては、自分の本国から迫害を受ける。ですから、国際法が考えている、どこかの国によって必ず守られるという関係が崩れているために、国際社会として、その人たちを受け入れ、どこかで保護しなくてはいけない。難民というのが、一種、国際法の国と国との関係で個人のことは扱わないというところからすると例外的な分野です。もちろん、それ以外にも、今お話ししましたように、戦争のときに捕虜の扱いですとかそういう幾つかの分野はありますけれども、いずれも非常に例外的な場合でした。
それに対しまして人権問題というのは、言い方を変えれば、国がその国のなかにいる個人をどう扱うか。この問題は、国際法の伝統的な考え方では、国際法のテーマではない。それは、各国の憲法なり法律あるいは政策、裁量にゆだねられたことであって、各国が自由に決めてよい。ですから、国によっては人権を守るということで憲法でうたったりするところもありますけれども、国によっては独裁的な、人権をむしろ抑圧する、そういう国があっても、お互い、干渉しない。

ですから、国のなかにいる個人をどう扱うかということについて、ほかの国が何か口出しをしたり、国際法で規律しようというのは、昔の国際法では内政干渉に当たるという考え方が伝統的でした。

それが変わった転換は、第二次世界大戦です。


4.日本に対する国連の勧告
そういうなかで、日本は1994年にこの条約を批准しました。今、この条約は世界でアメリカ以外のす べての国が批准しています。

ほかにも国連がつくった人権条約はたくさんあるんですけれども、こういう委員会という仕組みを持っている条約は、今、九つあります。

そのなかでも子どもの権利条約は一番 多くの国が参加している条約です。ただ、日本は1994年に批准したわけで、158番目の批准国なんですね。非常に遅いです。 遅かった理由は、一般的に理解されているのは、一つは、これは武力紛争があるような国とか、乳幼 児死亡率が高いとか、要するに、紛争国や途上国ですね。それから、ストリート・チルドレンがいるよ うな、そういう問題のある国のためのものであるから、日本の場合にはこういうことは必要ないという ような感覚。もう一つは、当時の荒れる学校の現場からの不安で、子どもはただでさえ言うことを聞か ない、学校で先生に対して歯向かっているし、教室のなかを歩き回っているという風潮のなかで、さら に子どもに権利なんて教えたらどんなことになるんだ、そういう現場の、とくに先生方からの不安の声 等々が背景にあったというふうに理解をされています。

それで、世界のなかで遅れること158番目で、1994年に批准をしました。発効して、2年以内に報告書を出し、その審査が1998年にあったんです。それから5年ごとというのがあって、今年、4回目の審 査というのを受けました。その前が2010年だったんですね。ですから、5年ごとの報告書というんです けれども、実際には出すのが遅れたし、報告書が出された後も、実際の審査までに事前質問を送って、 政府から書面回答をもらうといった準備がありますので、報告書を出してすぐに審査にならないという こともありまして、日本の場合は前回審査から9年、間があいてしまったわけです。 委員会には、これはほかの条約の委員会も同じですが、出身国の委員は審査にかかわらないというルールがあります。
 というのは、国連も、今、非常に予算が枯渇していて、今年は国連事務総長が10月に、このままでは 11月に給与が払えないと言って、分担金をまだ払っていない国はとにかく払ってくださいというような 緊急アピールをしましたけれども、国連の慢性的な予算不足も関係しまして、委員会では、この総括所 見という文書をつくるときに、1万700語以内という制限があるんですね。そのために、本当はほかに もいろいろあると思いながらも、すべて書けるわけではありませんので、委員会に対して、いわゆるロ ビーといいますか、NGOの方たちは、こういう問題を取り上げてほしいといって、情報提供されるの ですが、そういうなかで総括所見に載らなかったものがあることについて、どうしてなんだとよく言わ れるんですけれども、それはどうしても取捨選択が出てくるので、総括所見に書かれていることだけが 必ずしも日本における問題のすべてではないというのが一つあります。 それで、委員会は、最近、このたくさんある勧告のなかでも、緊急の措置が必要だという分野を最大 六つ程度選ぶということにしています


五節句

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皆神山

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1965年から1971年にかけての松代群発地震が皆神山の直下で起り、この地震活動に伴い約1m隆起している。
この地震は地下水脈の影響による岩盤の破壊と見られる。松代群発地震に伴い1967年に付近の重力分布調査が行われ、皆神山付近には低重力域があり[2]地下には、短径800m、長径1500m、深度200ないし400mの楕円形陥没構造の存在が推定される。ボーリング調査により、皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されており、その下に湖水堆積物が見つかっている[3]。また、山頂部には河床礫が見られる[4]。

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【メモ⑥】
・皆神山の直下で群発地震
・低重力域がある
・皆神山と周辺の山に地下壕
→第二次世界大戦末期に大本営・政府・皇室の移転予定地として掘削作業をしていた
・5月5日にはピラミッド祭り
・中腹には岩戸神社


さて、この駐車場には、あの有名な看板があるわけで、その内容は、以下のようなものである。

『世界最大最古の皆神山ピラミッド
◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東、南信の氷解水よる)となっており、その岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ、空間移動させるというダイナミックな方法でした。(従って現在でも皆神山塊だけが非常に軽く負の重力異常となっております)
◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生 といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じ磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる《天の羅魔舟(アマノカガミブネ)》等がこの飛翔体です。

謎の皆神山ピラミッド物語

◎皆神山は、古い古墳時代や弥生時代更に遡って縄文時代やエジプト・インダス・黄河・シュメール各文明よりずっと古い、今から約2~3万年前(浅間山・焼岳ができたころ。飯縄・妙高・富士は約九万年前。)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。
(人工造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャの語源の三角形のパンの意)
◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(スサノオノミコト)(自然主義的な科学技術者の集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力を持った人類でした。(旧人ネアンデルタール系)
◎では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。

皆神山ピラミッドの祭神は知力・体力の神
◎超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関する次の四神です。
○熊野出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)
 宇宙船《天の羅摩船》等の航行の技術・管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神
○少名昆古那神(スクナヒコナノカミ)
 宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命(オオクニヌシノミコト)の参謀集団
○泉津事解男神(ヨモツコトサカオノカミ)
 皆神山航行基地をはじめ…全宇宙基地を管理した集団
○速玉男神(ハヤタマオノカミ)
 地球周回軌道の人工衛生(宇宙航行の中継基地)の技術者の集団
◎このように皆神山は、神々が活躍した基地であり、宇宙船で現われたり姿を消したりしたので自然人たちは神聖な山=高天ガ原(タカマガハラ)として崇め、後世に伝えたものです。
山田久延彦氏の「新説・古事記」に基づく記述のようであるが、一般の参拝者に対して堂々と言い切っているところが痛快である。

その横には、皆神山に伝わる民話を紹介する看板があった。こちらには、皆神山は昔から神の宿る山として信仰されており、たくさんの不思議な話が語り伝えられていると書かれている。


境内社の侍従神社に鎮まる侍従大神(ジジュウオオカミ)は、佐久の内山城主内山美濃守満久の三男下野守三郎満顕であり、十三歳にして鞍馬山に入り密教を厳修、その後各霊山を巡り、内山氏滅亡のとき皆神山に入山、大日寺和合院宥賢と称した、後に侍従天狗坊と名乗り、皆神山の修験を完成させた。
弘治2年(1556)7月14日入定、在りし御影を木像に写して侍従坊大天狗明王と祀 った。正親町天皇永録・元亀の間(約四百四十年前)と伝わる。

北は戸隠、南は皆神山と修験道で長いあいだ栄え先達和合院は皆神山八合目からうえ を領し、聖護院(京都・本山派山伏の本山)より川中島四郡(埴科・更級・水内・高井)の年行事職を命ぜられ、更にはほぼ信濃全域の本山派山伏の支配権を得ていた。
明治初期の神仏分離令・廃藩置県により山伏は全部が還俗、一切を上知し和合院も廃するにいたり、出速雄命と熊野の神を熊野出速雄神社、侍従坊は侍従大神と奉斎した。
 
主祭神である出速雄命は、当地方開拓の祖神として天下の泰平と五穀豊穣をもたらす神 として崇敬される。現在の御社殿は康応元年(1389)の再建と伝えられ旧埴科郡中最古 の建造物といわれる。撞木造とする古い修験道の建築に認められる特徴が残っている。
HARRY山科氏が行った宮司インタビューによると、侍従神社は、熊野出速雄神社の後ろにあったが善光寺地震で崩壊し、今の位置に立て替えられたらしい。
また、「熊野出速雄神社」という社名も、「出速雄神社」とするべきものを、神仏判然令で神仏が分離されたときに「熊野」が残ってしまったらしい。出速雄命は、諏訪大神の三男とされている。


松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について


松代大本営跡

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太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、大日本帝国陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し、海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。

初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局の設置が予定され、舞鶴山(当時は狼烟山と呼ばれていた)地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られた。 戦争直後の新聞報道によれば、舞鶴山の建物は鉄筋コンクリート3棟からなり約600坪。廊下は地下壕へ連なっており、屋根は山に続き上空からは隠蔽された構造であった[1]。建物は現在も残っており、限定ながらも一般公開されている(後述)。

関連施設は善光寺平一帯に造られたため、「一大遷都」計画であった。上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山には送信施設、埴科郡清野村(現長野市)妻女山に受信施設、長野市茂菅の善光寺温泉および善白鉄道トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われている。


大本営移動計画は後に終戦時の宮城事件に関わることになる陸軍省の井田正孝少佐が1944年1月に発案し、富永恭次次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、鉄道省の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所に松代が選定された。計画案の選定理由は以下のとおりである[2]。 

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この案では松代に大本営、東京府浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧に中部軍収容施設、大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設するものであった。その後、この案は東條英機総理の日本政府全体の移動の意向により変更され、大規模化した。
「松代倉庫」工事として極秘に進められた工事であったものの、工事に従事した地元の日本人労働者の証言では、当時は、地元はもちろん、周辺地域の村では「大本営と天皇陛下が東京から移ってくる」と噂が広がっていった。噂になった原因は、大規模な工事であり、長野電鉄松代駅に列車で輸送されてくる、大量の物資が住民の目に留まったからだとされる。


修験道

"修験道は神仏習合の信仰"

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明治維新と修験道

明治五年は大きな政策の転換点であった。
「修験宗廃止令」の意図は、修験が神仏混淆の形態をとり信仰内容が低俗で民間の良俗に害があると判断して明朗化を図ったという説や、修験が無檀で呪術や祈禱を行い神仏習合に基づき社家の神社祭祀に関しても争いがあって危険視されたためとする説が提唱されていた。

林淳は、国学者による神仏習合への批判や「雑宗の廃止措置」、淫祠邪教の廃絶が「修験宗廃止令」に繋がったとする説に対して異論を唱え、「復古神道家が活躍したのは明治初頭のみで、四年以降はむしろ政界から排除されていた」として、修験宗 廃止令の目的は身分制度の改革だとする。
明治三年閏十月十七日に天社神道が廃止されたが、土御門家の諸権限の 剥奪は陰陽師が持っていた旧幕時代の権限が問題で、身分制度とそれに伴う権威の解体が目的であった
普化宗も 明治四年十月二十八日に戸籍編成の過程で無用とされて廃止され、虚無僧や六十六部が一掃された。
明治五年以後 は僧尼身分の解体を目指し、明治五年四月二十五日の肉食妻帯蓄髪勝手令、同年八月十七日僧官廃止、同年八月三十日願い出なき寺社創建の禁止、同年九月十四日僧尼の苗字の令、同年十一月八日無檀・無住の寺院の廃止、同年十一月九日僧侶托鉢の禁止、明治六年正月十九日に僧侶位階廃止令が出て、特権身分は消滅した。 

僧侶への対策と並行して民間習俗への介入が増大した。
明治六年正月十五日梓巫女・市子・憑祈禱・狐下げ・玉 占・口寄せ禁止、明治七年六月七日と明治十五年七月十日に禁厭・祈禱で医薬を妨げることの禁止、明治九年十二 月十五日は山野路傍の神祠、仏堂を社寺境内への移動を禁じる命令が出た
民間信仰をさげすみ、民俗慣行の改良 に統制介入する政策で、安丸良夫は「民俗的なものは、全体として猥雑な旧習に属し、信仰的なものはその中心的な構成要素であった」とし、「地方官の啓蒙的改革への情熱」に基づく抑圧策の前では、民俗信仰は否定的次元と して「文明開化」と向き合わざるを得なかったとした。
明治初頭に登場した「文明」概念に対して、民間習俗は恒常的に負の表象とされていった。

山岳信仰に密接に関わる法令には明治五年三月二十七日の女人結界解禁の指令がある。
女人禁制は京都博覧会の開催にあたって、夫人同伴の外国人が女人結界がある比叡山に登れないとあっては文明国の威厳に関わるとして解禁され、歴史的な意義や在地社会への影響を全く顧慮しない世俗的決定であった。

明治五年以降は前代の慣習を否定する「文明開化」の施策が集中的に出された。
修験道は仏教の宗派として真言宗や天台宗に所属すれば、教導職 の地位を獲得して活動することは可能で、活動は法制上は禁止されていなかった。しかし、修験道は在地社会と深い結びつきを持ち、巫女などの民間宗教者と密接な連携を保ってきたのであり、民間信仰が抑制され一線が引かれ て活力を喪失した。
修験道は仏教の宗派へ帰属しても、教団内の下位に位置づけられ本格的復活は難しかった。


【メモ⑦】
・明治三年閏十月十七日に天社神道が廃止
→土御門家の諸権限の剥奪は陰陽師が持っていた旧幕時代の権限が問題で、身分制度とそれに伴う権威の解体が目的

●明治五年以後 は僧尼身分の解体を目指す
・明治五年四月二十五日の肉食妻帯蓄髪勝手令
・同年八月十七日僧官廃止
・同年八月三十日願い出なき寺社創建の禁止
・同年九月十四日僧尼の苗字の令
・同年十一月八日無檀・無住の寺院の廃止
・同年十一月九日僧侶托鉢の禁止
明治六年正月十九日に僧侶位階廃止令が出て、特権身分は消滅した。

僧侶への対策と並行して民間習俗への介入が増大
・明治六年正月十五日梓巫女・市子・憑祈禱・狐下げ・玉 占・口寄せ禁止
・明治七年六月七日と明治十五年七月十日に禁厭・祈禱で医薬を妨げることの禁止
・明治九年十二 月十五日は山野路傍の神祠、仏堂を社寺境内への移動を禁じる命令が出る

・民間信仰をさげすみ、民俗慣行の改良 に統制介入する政策
・「地方官の啓蒙的改革への情熱」に基づく抑圧策の前では、民俗信仰は否定的次元と して「文明開化」と向き合わざるを得なかった



明治維新と修験道

〈論文要旨〉
修験道は、江戸時代には民衆の中に神仏混淆の形態で深く定着していたが、新政府による慶應四年(明治元年)の いわゆる神仏判然令以後、急速に崩壊へと向かった。
神仏判然令で最も甚大な影響を被ったのは権現に社僧や別当として奉仕し てきた修験道であり、その解体は神道国教化を進める新政府から見て必然であった。
修験は政府の指令に基づき、寺院として存 続する、復飾(還俗)して神主になる、帰農するなどの選択を迫られた。
そして、明治五年に出された修験宗廃止令によって天台宗か真言宗への帰属を迫られて事実上、解体された。
本稿は明治維新に大変動を被った修験道に関して、神仏判然令の及ぼし た影響を修験道の本山と在地修験の双方から広く考察する。
在地修験では東北の法印様の歴史的変化を考察し、本山では羽黒、 吉野、英彦山の事例を中心に、神と仏の分離の展開を比較検討する。最後に学術用語として神仏習合と神仏分離の概念について 再検討する。

〈キーワード〉 修験道、神仏判然令、法印様、神仏習合、在地修験
二 神仏判然令

明治元年から明治七年まで断続的に出された政府の指令は、紆余曲折があったものの身分制度の改変と既得権益 の打破に関しては首尾一貫性があり、日本人の精神文化に大きな変革をもたらした。
出発点は慶應四年三月十七日 の神祇事務局布達第一六五号であった。
原文は以下の通りである。


今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、 復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事、但別当社僧ノ輩復飾ノ上 ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致 候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ、当局ヘ届出可申者也

王政復古によって旧弊を一新し、神社に僧形で奉仕する別当や社僧は、復飾(還俗)して神主となり、浄衣で神 勤することを命じた
仏教寺院からの神主の独立が目的であった。

江戸時代は、神社や小祠・小堂の多くは僧侶や 修験が別当や社僧として奉仕して、財政を管理し堂塔の営繕に関わり、人事を差配していた
しかし、神仏判然令 の結果、神か仏かの二者択一を強いられ、神仏混淆の修験は、時勢を読んで多くは神主へ転じた。慶應四年三月二 十八日には以下のような太政官布告第一九六号が出された。


一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に 書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、 其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候

一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、
仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事

権現や牛頭天王などの仏語を神名に変更し、神社が御神体として祀っていた仏像を撤去し、鰐口や梵鐘などの仏 具の撤去が命じられ、神号・神体から仏教色を一掃することを目的とした

本地垂迹に由来する権現号の廃止は修験の存続を危うくする決定的な施策であった。
三月十七日と三月二十八日の二つの政令が一般に言われる「神仏判然令」で、狭義には三月二十八日の布告を言う。
この二つはいずれも神社の空間から仏教的要素を排除する指令であったが、廃仏毀釈に発展し、全国各地で様々な混乱を引き起こした
慶應四年四月一日には、社司の樹下茂国など約四十人が比叡山山麓の山王権現に押しかけて仏像・仏具を暴力的に破壊する行為を行った。地元には三月二十八日の布告は伝わっていなかったが強制的に断行された。
政府はこの 暴挙に大きな衝撃を受けて、同年四月十日に太政官布告第二二六号を出して、神仏判然令は廃仏毀釈ではないと警告を発し、慎重な対応を求めた。一部を抜粋して掲げる。

旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤 ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、 実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益 国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図 可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事

この布告は、僧侶と社人との関係は元々良くなかったが、社人が急に勢力を拡大し、私憤をはらしたり、紛擾を引き起こし、粗暴の振舞があったと警告を発した。

政府が進めた神道国教化では江戸時代に国教の地位を占めてい た仏教勢力の排斥が核心で、下級神職が変革にかなりの働きをすることが実証されたが、併せて各地の混乱への対応を迫られた。

なお、政府はこれに先立ち、慶應四年閏四月四日の太政官布告で神主の身分の規程を定めた。
その文面からは当時の現状認識を「神仏混淆」と考えていたこともわかる。

今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之 称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、 立退可申候事 但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄 衣白差貫着用勤仕可致候事
是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事 

林淳はこれが「神仏混淆」の用語の法令上の初出であると指摘した。
「神仏混淆」は政府からの法令、藩県からの政府への問い合わせに応じて法令用語として使用され、次第に拡大解釈された。慶應四年(明治元年)当時、政府の現状認識は「神仏混淆」、法令の意図は「神仏判然」であり、「神仏分離」の用語は使用されていなかった

神仏混淆=神仏習合

六 修験道の本山の崩壊

明治初期の有力な修験の根拠地に関してはどのようなことが生じたか。
これに関しては宮家準の研究があり、出羽三山戸川安章、大峯山は宮家準、英彦山は長野覚の考察がある。
以下では簡単に検討する。新政府は神仏判然令以後、廃仏毀釈には歯止めをかけたが、民間では様々の対応があった。

政府は明治四年正月五日の太政官布告第四号「社寺領上知令」で寺社の土地を没収し、「地租改正」で土地の官民有区分を推し進め、廃藩置県を行って集権国家の基礎を固め、近代的国家体制樹立の政策を次々に実施した。
仏教寺院や修験は、「上知令」で経済的基盤 を奪われ困窮した。


全国の修験霊山は、長野覚によれば、五十山は神社、三十五山は寺院、十五山は神社と寺院の双方が残り、三十六山は神社・寺院とも消滅し、近畿は仏教系が多く北九州・東北・関東は神社系が多いという。 東北の出羽三山の羽黒修験は、別当・社僧・修験・社人で構成され、一山の別当が統括し、羽黒山の別当が月山 別当を兼ねて東叡山寛永寺に属していた

湯殿山別当は真言宗の所属であった。
羽黒山は別当の下に社僧十八坊があり、山麓の手向には三百六十戸の修験がいた。
社人は独自の勢力ではなく行事・祈禱は仏教式であった。羽黒山は社領千五百石が与えられ、東日本一帯の広大な霞場の活動が修験の一山を支えていた。

神仏判然令は酒田民政 局から明治二年五月四日に伝えられた。東北では戊辰戦争の影響で布達の知らせは遅れたのである。これに応じて 僧侶の中には時局に乗じて復飾神勤する者もあったが、旧来の信仰を守ろうとする者が圧倒的であった。

東叡山を通して仏教に留まることを請願したが許されず、別当の官田は羽黒山大権現を廃し、三年十月に復飾して出羽神社宮司となり、大部分の僧侶は復飾神勤となった。明治三年末に一部の寺院に仏像と仏具を集めた。しかし、神道式への改変は地方官に対して表面を取り繕うとする性格が強く、本社の神饌の魚を実物でなく木製にしたり、社頭では神道式に奉斎しても帰宅すると僧服に着替えて読経した。
この頃までは事態は流動的であった。

神祇官は出羽三山を神山に属すると決定した。
その根拠は、羽黒山大権現、月山大権現、湯殿山大権現などの権現は神と見なすという方針により、実情視察や現地確認は行われなかった


山岳信仰民族信仰を標榜する年の修験宗廃止令以後、羽黒修験は天台宗に帰属し修験の活動はしばらくは維持され、明治五事態は明治六年に平田派国学の影響が強い西川須賀雄が宮司として着任して以後に急変する。
西川の目的は、出年の修験宗廃止令以後、羽黒修験は天台宗に帰属し修験の活動はしばらくは維持されていた羽三山の神道化、羽黒修験の神道化で、修験の組織を再編して神道中心の布教組織に移行させて膨大な財政基盤を事態は明治六年に平田派国学の影響が強い西川須賀雄が宮司として着任して以後に急変する。

還俗していた旧僧侶を解任し、登拝道沿いの石仏の破壊、道沿いの道者小屋の閉鎖を行い、開山羽三山の神道化、羽黒修験の神道化で、修験の組織を再編して神道中心の布教組織に移行させて膨大な財政基盤をせきしんほうこくかいつくろうとした。還俗していた旧僧侶を解任し、登拝道沿いの石仏の破壊、道沿いの道者小屋の閉鎖を行い、開山堂を蜂子神社に改め、ここに所属する講社として赤心報国会を設立して教長となった。
この結果、赤心報国会の者せきしんほうこくかい良夫は、全国に「権現号をもつものがきわめて多く、それを仏教に属せしめたのでは、神道勢力が大きく削減され社人は独自の勢力ではなく行事・祈禱は仏教式であった。


七 神仏習合と神仏分離の概念を問う

最後に、修験道に止まらず、明治初期の宗教史を問う根源的な問題提起をしておきたい。

それは神仏判然令のことである。
現在、この法令は神仏分離令として広く知られている。
しかし、「神仏分離」の用語は明治時代初期に
は遡らず、「神仏習合」と対になって明治四十年代に登場した。


「神仏分離」の用語の初見は修多羅亮延の「神仏分離と神官僧侶」(『仏教史学』二巻一号、明治四十五年・一九一二)で、本論文は『明治維新神仏分離史料』上巻(東方書院、 一九二六)に再録された。

他方、「神仏習合」の用語は、明治維新以後、四十年以上経過し過去を振り返る余裕が出来た段階で「遡及的」(retrospective)に現れた概念で、足立栗園の『近世神仏習合辨』(明治三十四年・一九〇一)が初見で、学術用語としては明治四十年(一九〇七)に辻善之助が『史学雑誌』に連載して発表した「本地垂迹説の起源について」が嚆矢とされる。

定義は曖昧であったが、奈良時代の神と仏の関係を神身離脱論と仏法の護法神で説明し、平安時代後期の本地垂迹に至って極限化したと段階的に整理したことで、多くの人に受け入れられた。

本論考は『日本仏教史之研究』(大正八年・一九一九)に収録されて広まった。
辻善之助は東京帝国大学の村上専精の指 導の下で、大正九年(一九二〇)から大正十五年(一九二六)まで、全国において神仏分離に関わる史料や聞書きを蒐集し、大正十五年(一九二六)から昭和四年(一九二九)にかけて『明治維新神仏分離史料』全五巻を地域別に分けて出版した。

「神仏習合」の用語が出現した時代は、日清戦争(一八九四―九五)と日露戦争(一九〇四―〇五)を経てナショナリズムが高揚して国民統合が強化された時であり、全国の神道化が確実になった段階で、神道と仏教が対等に「習」する二項対立の概念として浮上して明治維新の「神仏分離」の正当性を説明する概念になった。

明治維新の 「神仏混淆」から「神仏判然」へという実態が、「神仏習合」から「神仏分離」へという理念や説明に切り替わり、神道の仏教に対する優越や、混淆や習合を負の表象とする意味合いが含み込まれた。

辻善之助が神仏分離史料の収集を開始した大正九年(一九二〇)は神道界の大きな転換点であった。同年十一月一日に明治神宮が創建され、初めて東京の「中心」となる神社が出現し、大正十年(一九二一)以降、初詣の第一 位に躍り出た。
明治神宮創建は人々の行動を大きく変えた重要な文化運動である。

大正時代以後の神道界の大衆的 な神社神道の展開を「近代神道」と名付け、鉄道や出版メディアの発達と連動して大衆化した神道を指すことにす る。

「近代神道」は大正元年(一九一二)の明治聖徳記念学会の成立で開始され、ブレーンは加藤玄智(一八七三―一 九六五)で東京帝国大学で神道学を講じ天皇崇拝や神国思想を展開した。

日本青年館(大正十年・一九二一)の落成、聖徳記念絵画館(大正十五年・一九二六)の開館での明治天皇・昭憲皇太后の顕彰など、建築による天皇崇拝が民衆へ浸透し、大衆への神社神道の浸透と天皇の祭祀の強化が進んだ。

明治神宮の創建以後、民衆の「寺社参詣」は 「社寺参詣」となり、『明治維新 神仏分離史料』全五巻の刊行(一九二六―一九二九)で「神仏分離」の用語が定着し、神と仏の関係は一元化されて、「神仏習合」と「神仏分離」の二項対立概念が人々を呪縛するようになった。

辻善之助は史料を駆使し仏教堕落論の必然的帰結を実証的に明らかにしていった。
一方、神仏分離史料の確定作業の時代は、柳田國男が民間伝承(後の民俗学)の学問的体系化に努めた時期と重なり、宇野圓空や岡正雄が民族学の概念を広めた時でもある。

岡正雄が編集した『民族』の発刊は一九二五年、終 刊は一九二九年で、この間に「民族学」の名称が一般化した。出版事業として岡正雄の兄の岡茂雄が編集者を務め岡書院の役割は大きい。

出版を介して民俗学と民族学という学問は、「近代神道」の確立への対抗言説を形成したが、戦争の時代には「日本精神運動」として政治的に利用されるようになった。

「日本精神運動」の提唱者は紀ひらただよしで『日本精神』(岩波書店、一九三〇)を著し日本精神による国民統合を説いた。
特に満州事変(昭和六年・一九三一)以後には、「日本精神運動」は戦争遂行の精神を鼓舞する「民族的ナショナリズム」の母胎となって浸透し、国民精神総動員運動(一九三七年)はその流れを加速した。

そして、修験道が精神と肉体の鍛錬の尚武の修行としてい脚光を浴び、和歌森太郎や村上俊雄による修験道研究が、昭和十八年に登場することになった。明治初年の神仏判 然令以後、約七十五年かけて、修験は甦り、学術研究の対象として正当な地位を得るに至ったのである。

「神仏習合」は近代概念で、「不均等二分法」であり、「仏神習合」と呼ぶべきであったにも拘わらず、「神仏分離」の対概念になったことで柔軟で融通無碍な日本の信仰形態と乖離し、原理主義的な神道優位の論理を無意識に受容させる説明の根拠となった。

従って時代や文脈の異なる中世の研究や修験道の研究に近代言説の「神仏習合」 を安易に用いたり、東アジア全体に「神仏習合」の概念を拡大して適用することは慎重さを要する。

修験道は「神仏習合」であると現在は多くの人が考えるようになったが、「神仏習合」の概念を自明視せず、神と仏の多次元的関係性を深く考えていくことが望まれる。

"「神仏習合」は近代概念で、「不均等二分法」であり、「仏神習合」と呼ぶべきであったにも拘わらず、「神仏分離」の対概念になったことで柔軟で融通無碍な日本の信仰形態と乖離し、原理主義的な神道優位の論理を無意識に受容させる説明の根拠となった。"

分断からの意味のすり替えと対立構造。
本意ではない形で政治利用され、そして新様式の刷り込みと定着行動への流れに。


構造としては同じ流れが繰り返し起こっているのだとなんとなく理解した。
一枚岩は亀裂を入れられて分断させられたり、それまでの連携が困難となり分断していってしまう。
新しく提示されたものが"尊いもの"になり、それまで力を放っていた古きものが"邪悪"とみなされる。
弱きものは淘汰され、強きものは解体されていく。

結局昔からずっと権力闘争の物語なんだろうね。
庶民にできるのはその世界となるべく距離をとり、自分の目の前の世界を穏やかに、そして慎ましく過ごせるかなんだろうな。



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