見出し画像

【前編】「悲しみは終わらない」-ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生涯-

本当のことを言えば、それにアルジェリア兵や女郎や、初めて聖体拝受に教会へゆく可愛らしいアルルの少女たち、おまけに狂暴なさいに似た坊主、アブサント酒を飲む連中なんか、みんな別世界の存在にみえるんだ。なにも芸術的な世界だけが居心地がいいという意味じゃない、孤独を感じるよりも無駄口をたたいている方がまだましだということなんだ。ものごとを冗談にでもとらなければ、憂鬱になってしまうんだ。

ゴッホの手紙より

アート・芸術とはなにか。
ひとつ前の記事で私はそれを勢いのままに書いてみた。

じつをいうと、ゴッホについての記事を書きたいが為に、その前に私の芸術論について書いたのである。特定のものに対する持論を展開していくには、ことにそれが芸術論となれば、まずは自分のおおまかな見解を成文化して発表しておかなければならないと思ったのである。
そのような次第であるから、ぜひそちらの記事もご覧いただきたい。
その上で本稿を読んで頂ければ、わかりやすいと思う。

また文章が長くなり過ぎてしまったため、記事を二分割することにした
当記事と、後編も合わせてご覧いただきたい。
後編記事のまとまり次第、リンクをここに付随する。

芸術論

立川談志の脚注

YouTubeを徘徊していると、こんなものに巡り合った。
立川談志の動画である。

昔のテレビ番組の録画であろうか。
手塚治虫の漫画を語るにあたり、動画の中盤5分辺りで談志はゴッホを引き合いに出す。
以下その語りをもとに、私が私なりに要約して追筆したものである。

「人間は昔から壺絵や壁画など、線を書いて人やものを表現した。二次元の絵で、人々は伝承や事柄を人々に伝える。それに飽きたらなくなると、陰影や遠近を用いて三次元で表現する。そして印象派の段階では各人がそれぞれの世界でその三次元表現を模索し表現を発展させた。それでもなお収まりの付かなかったのがゴッホである。なんだかわからない、二次元にも三次元にもない、この世界では収まらないものを激しく感受し魅入られ固執し、なんとかしてそれをキャンバスに描きとったのがゴッホである。
常識ではわかりようもない異次元と葛藤していた。」

なんだかわからない、異次元という言葉は、談志の”イリュージョン”という持説に典拠しているであろう。談志は自らの生業である落語家という観点からゴッホを解釈した

現実には〝かけ離れている〟もの同士をイリュージョンでつないでいく。そのつなぎ方におもしろさを感じる了見が、第三者とぴったり合ったときの嬉しさ。〝何が可笑しいのか〟と聞かれても、具体的には説明ができない。

立川談志『最後の落語論』


パワーと脚注

ここから先は

1,934字 / 2画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?