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アートとは何か、アートの見方-ダヴィンチとバンクシー-


アート・芸術と聞いて、思いつくものはなんであろうか。
モナリザの顔か、なんだかわからない絵を描き続けたスペインのおじいちゃんピカソの写真か、あるいはカツシカホクサイの巨大な波の絵であろうか。

まずはじめに一番重要なことは、油絵とはただ絵の具のついた布であり、彫刻であれ、ただの大きい石であるということだ。
モナリザは、大昔にダヴィンチが色のついた粉を布に塗り固めたものであるし、ミケランジェロの有名な彫刻はただ石を削っただけのものである。

それではなぜ我々は、それらをアート・芸術であるとして丁重に扱っているのか。アートとは何か、それを”パワー””脚注”というふたつの観点から紐解いてみたい。そして、いわゆる現代アートについても言及したい。

あくまで私の思うそれであって、本稿は決して教科書的な指南の文章ではないということをここで断っておきたい。独断と偏見、個人的な領域をでない私的な文章であるが、是非一読して欲しい。なるほどそんなことを言う人もいるのか、と思っていただけるだけで、私には幸いである。

アート・芸術のパワー

作品のパワーとは

ダヴィンチがなぜ偉いか、ミケランジェロがなぜ凄いか。
それは、その作品がパワーを持っているからである。

その絵についての知識や説明を抜きにしても、パワーのある作品を前に人は圧倒されてしまう。それは「リアルだ」とされる質感表現のうまさに由来することもあれば、よくわからない「すさまじさ」という感覚の場合もある。筆遣いのすごみ、だとか色使いの妙なども作品のパワーの要因となる。

では具体的に、作品のパワーとはなんであろうか。
パワーとは、作者自身がその作品にかけた”情熱”そのものである
と私は考える。情熱の度量によって作品の持つパワーが変わる。

人間の情熱

どういうことか。
「リアルだ」と称される絵を描くには相当の技術が必要である、
ということにはすんなりと頷いていただけるであろう。
技術を磨く為には、それにどんなに時間と情熱をかけねばならないか。
また、作品に取り掛かるときの集中力にも情熱が関連する。
作品を作るという行為に油断は禁物である。
より緻密なものであればなおさら、熱中しなければならない。
ある作者にとって作品をこの世に残すということの意味は、とても深刻な問題でもあるのだ。その決意の情熱。
筆運びや色選びについての吟味だとか、鑑賞者の視覚を利用する工夫、対象の観察といった作業についても、情熱がその燃料となるであろう。

このような作者の情熱が、作品のパワーとなる。
そのパワーが人の目を惹きつける。
パワーは人間の思考するより前に人間に感覚として通達される。

もう一度繰り返しておくが、油絵はただ絵の具のついた布であり、彫刻もただの大きい石である。布切れの絵、石の置き物がなぜ凄みを持つか、それは人がパワーをこめた布や石だからである。呪術や魔法の話ではない。人間の認識についての話である。

パワーや情熱と聞くと、この人物を思い浮かべる人がいるかもしれない。
その通りである。この論に関しては、岡本太郎の作品・書籍を大いに参考にしている。

アーティスト・芸術家は、作品と対峙する時にはひとりの生身の人間として挑んでいる。
伝承・伝説を再び眼前に現さんと情熱を燃え上がらせる。
美しい人物を前に、その姿を留めおかんと情熱を燃え上がらせる。
圧倒的な自然の絶景に感動し、映しとらんと情熱を燃え上がらせる。
摩訶不思議に炸裂する脳内の信号を、なんとか掴み取って形にせんと情熱を燃え上がらせる。
その情熱の軌跡はしかと作品に宿るのである。

レンブラントが凄いのは、その類稀なる技術つまり情熱のゆえである。
ゴッホの絵がグチャグチャなのに凄いのは、ゴッホがはちきれんばかりの情熱をその作品に注いだからである。
ピラミッドがただの積み石であるのに凄まじいのは、それを大昔に人間が自力で重ねあげて作ったというその人間の情熱、パワーを我々が感じることによるのである。

しかし、あまり時代のくだらない作品について、特に現代アートとなると、パワーだけでは罷り通らなくなってしまう。アート・芸術というものを構成するもうひとつの重要な要素として、脚注がある。

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