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悔恨と懐かしさと

「ご遺体に、お花を添えていって下さい。茎が同じ方向に向かうように注意して下さいね。花が無くなったらすぐに補充しますので、どんどんお顔の周りから詰めていって下さい。」葬儀社の若い女性スタッフがまるで立板に水を流すかのような流暢さでアナウンスする。社には進行マニュアルがあって、彼女が「現場」に立てるまで何回も恐らくリハーサルした事だろう、と思わせる流麗さだった。

父の死に顔は若い頃に何度か足を運んだ「マダム•タッソー蝋人形の館」に陳列されているベーブ•ルース並みにリアル感が失せており、一見してこの世にいない事が分かる形相をしていたので、一瞬私はシラケた。でもそのうちに「フェイクフェイス」以外は全身、すっかり白い花が包まれた父に向かってスタッフの男性陣が「お別れです」といって棺に釘を打ちつけた途端、涙が込み上げて来た。理想的な子供とはかけ離れたドラ息子。金食い虫と(冗談半ば乍ら)揶揄され、ストレートで国立大に入学、卒業した姉とはあまりに出来が違い過ぎる劣等感、苦労をかけた申し訳なさ、長い間夢を追い続ける時間を許してくれた寛容さ。後年、国内でコンサートでオーケストラやリサイタルの公演があると音楽の事は何にもわからなくても嬉しそうに息子の演奏姿を眺めてた(という友からの証言)と伝え聞いた様子が一気に胸中に押し寄せて来て、私は号泣した。どこで号泣したかというと、棺を車で送り出すまでしばらくの間があったので、誰もいない葬儀社の空き部屋(今思うと大量のコットン、供花、棺、何らかの保存液?が収納された倉庫だったと思われる)に勝手に駆け込んで、大声で泣きじゃくってしまった。図らずも「一族を代表し、長男として列席者に一言ご挨拶を申し上げる」という式の段取りとなっていたのでいったん無理矢理涙を止める。スッと親族の前に立ってスピーチを開始したとのの、2分後には号泣していた。言葉と言葉の間に10秒くらい間が空いてしまったかもしれない。声を発したくても、声が出ないのだ。姉が見かねてマイクを私の手から取ろうとしたが、「いや、最後まで言う!」と駄々っ子の如く姉の気遣いを阻止、ヒックヒックと醜態を晒しつつ最後まで挨拶をし、霊柩車を見送った(本来なら焼き場に同行するものだが、偶然にも日本音楽コンクールに弟子が本選に残っており、審査員としてダッシュで東京オペラシテイに向かう必要があったのだ)。駅の洗面所で泣き腫らした酷い顔を洗い、ネクタイを柄物に変えて、会場に向かった。弟子の演奏中、ホールのどこかに父がいるような気がして何度も涙が込み上げて来たが、他の審査員の先生に悟られるのが恥ずかしくて、渾身の力で平静を装った。あれから4年経つ。

私は自分で、相当な親不孝者である事を自覚している。数学が苦手で、数学と英語が得意だった母から「この2教科は積み重ねです。毎日勉強しなさい!」と毎日怒られるのに反抗心を燃やし、「お母さんのせいで数学、大嫌いになったからね!」と暴言を吐いた時の母の悲しそうな表情が今でも胸にとぐろを巻いている。現在、母は中度のアルツハイマー。先日会った時、「貴方は比較的どんな教科も満遍なくこなしたから偉かったね」と言われ度肝を抜かれた。あんなに怒られたのに、アルツハイマーって、悪い思い出までも消し去って救ってくれる場合もあるのだね、と感慨深く思った。

姉からの報告で、先日サ高住(ホームに準ずるコンシェルジュ付きのマンション)から母が抜け出し、コンビニにレンジご飯を買いに行ったと報告を受けた。スタッフさんが慌ててコンビニまで駆けつけて見つけてくれて、理由を聞くと「夫と食べたすき焼きが忘れられなくて、お米が食べたくなったの」と答えたそうで、また胸が詰まる。コロナさえなければ、いし橋でもどこでも、東京最高のすき焼きを食べに連れて行きたい。こんな美味しいすき焼き、食べた事ない、と言ってもらいたいのに。

父が逝ってから人生のステージが変わった。申し訳ない。ありがたい。父母に対して毎日念じている言葉だ。



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