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noteという「メキシコの荒野」を生きていくための私なりの処方箋 〜 noteをはじめて11ヶ月経ったnoterの備忘録 特別編

また、25日がきた。毎月25日、ひとりのnoterとしての備忘録を書いている。

私の書くnoteは、noteの世界の中で「端っこ」に位置するのかもしれない。しかも、twitterもやっていない。noteの世界では、圧倒的に不利な立場だと思う。

だからこそ、twitterで私のnoteを好意的に紹介してくださる方々へ、この場を借りて心から御礼を申し上げる。

端っこでも、更新したnoteの記事は、310本以上、何日目とは言わないが「かなり長い間」毎日更新している。

もちろん、twitterをやっていない人気のnoterも存在するけれども、感動出来る小説も、共感出来るような日常の一コマも、レシピも書かない。いや、書けない。でも、書き続けている。

だからこそ、私のnoteを読んでくださる方々へ、この場を借りて心より感謝する。

突然、何を言い出すかと思われると思う。美術系や旅行系のnoteを読んでいただいている皆様には、最近「?」のnoteが続いていて、申し訳ないが、今、書かないでどうするという気持ちがあるので、書かせていただく。

先日、私の尊敬するnoterの一人がnoteで更新するのをお休みされた。理由は、知らない。ちなみに、noteでも、天文学的数字のフォロワーがいらっしゃるnoterだ。その方には、私がnoteで書くのが辛くなった時、何度か助けていただいた。もちろんその方がnoteをお休みされることは、ご自由なんだけれども、私としては、かなりショックだった。

なぜなら、最近、noteで書くことがキツくなってきたからだ。でも、私には、そういう時の処方箋がある。

というわけで、今月の備忘録は、特別編という形で、noteでキツい時の、自分のための「処方箋」について書いてみたいと思う。

もし、あなたがnoteを続けることが辛くなったのであれば、このnoteは、役に立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。でも、何もないよりも、マシなはず、くらいで読んでいただければ幸いだ。

そして、万が一、このnoteを読んで不快に思われた方がいらっしゃれば、「端っこ」の戯言として、見逃していただきたい。

noteの「真ん中」と「端っこ」

まず、本題に入る前に紹介したいnoteが二つある。

一つ目は、ふみぐら社氏の以下のnote。

そして、二つ目は、上記のふみぐら社氏のnoteで取り上げられていたマリナ油森氏のnote。

ふみぐら社氏の上記のnoteは、マリナ油森氏の『戯言の自己回答:俺は〇〇をやめるぞ!ジョジョにー!!』の援護射撃のようなnoteだと私は、解釈した。以下、ふみぐら社氏のnoteより引用する。

これはまったくの偏った考えだけど、もしいつも真ん中あたりにいてつまらないなら端っこに行ってみたら? と思う。

ふみぐら社氏のおっしゃる「真ん中あたりにいてつまらない」noterは、(マリナ油森氏の上記のnoteも含めて考察すると)、多分、「noteで(コンテスト参加等)で頑張ったけれども、思うような結果が出なかった、あるいは、傷ついたnoter」と推測する。

ふみぐら社氏のいうnoteの「端っこ」。そう、このnoteの冒頭でも言ったとおり、私は「端っこ」で書いているのかもしれない。でも、「端っこ」に悪い意味はない。

上記のマリナ油森氏のnoteで、彼女の周囲のnoter達への優しさに驚くと共に、彼女が苦しんでいるのが、私なりに理解出来たと思う。そして、彼女もふみぐら社氏も「真ん中」にいらっしゃると思うnoterは、少なくないと思う。

では、自分に何が出来るのか。と考えて、前述の通り、自分なりの処方箋、つまり、「端っこ」なりに、noteで生きていくためのティップスを再確認してみた。もちろん、思い切り、空振りになるかもしれない。それを覚悟で書く。

そして、今回のnoteは、マリナ油森氏とふみぐら社氏からの「傷ついたnoter達」へ向けた愛あるnoteに対してのアンサーnoteではない。

「端っこ」にいる一人のnoterが考えた、noteで生きていくための「心の処方箋」を記録した備忘録と思っていただければ幸いだ。

そして、この場を借りて、マリナ油森氏とふみぐら社氏へ、貴noteを引用させていただくこと、そして、お二方のnoterに対する愛に心より感謝申し上げる。

さてと、前置きが長くなった。

まずは、私がnoteをはじめるきっかけを少しだけ話す。

意志をもって「端っこ」にいる

私は、ネットのトラブルで、人生かけて苦労して手にいれた仕事を自ら手放した人間だ。多分、手放していなかった場合、生きていなかったと思う。周囲からは、「手放したら、二度と戻れないよ」と言われたけれども。

だから、先日のnoteでつぶやいたように、才能がある人が生きる選択をしなかった時、勝手ながら自分は生きる選択をしたことを思い返す時でもある。そのかわり、生きない選択肢を考えた人間の気持ちを想像するとその選択を受け入れ、尊重することしか出来ない、もどかしさを感じる。

よくネットのトラブルやらパワハラやら「嫌なら訴えればいいのに」と言う人がいる。家族や知人に弁護士の知り合いがいない場合、そのハードルは、とんでもなく高い。被害者には、まず、訴えようとした段階で気力が残っていない。それでも気力を振り絞って行動しても、なかなか人情系ドラマに登場するような弁護士には出会えない。

例えば、私の場合、ネット系被害の実情に関して某新聞で記事を寄稿していた弁護士を見つけた。彼が所長を務める某弁護士事務所に連絡してアポをとる。所長は出てこず、新人弁護士との無駄な相談料30分で一万円。その答えは「難しいですね」。そんなものだ。

もう、世捨て人として生きようかと思った。けれども、書くことは、好きだったし、仕事で書くこともあった。だから、私は、生きるために、ネットの世界の「端っこ」で生きてきた。好き勝手に書いてきた。それが、たとえ自己満足であっても、確実に自分を支えることになっていた。

私がnoteをはじめた本当の理由

今年になって、以前から愛読している石井ゆかり氏や、しいたけ.氏がnoteをはじめたことを知った。

私の苦手なSNSにも関係なさそうだし、ブログでよくある匿名の嫌なコメントを受けることもなさそうだし、安全なプラットフォームとして良さそうだなと思った(まあ、とんでもない勘違いをしていたのだけれども)。

それでも、去年の7月あたりまで、noteをはじめることに躊躇していた。やはりネットの世界は、怖かったのだ。

そして、去年7月18日に京都アニメーションの事件が起こった。京アニの作品は、見ていなかったが、学生時代、アニメ研究会に所属していたことがあった。どこのスタジオが忘れたけれども、見学に行ったこともある。

私は、アニメは、アートだと思っている。だから、今も続く、忘れることの出来ない悲劇に私は、打ちのめされた。

京アニの事件の後、仕事以外、私にとっての「創造=書くこと」が、一切出来なくなった。一人で安全に「端っこ」で書くことが、逆にキツくなった。それでもnoteへ参加することは、私にとってハードルが高かった。

しかし。。

そんなハードル、生きていれば、越えられる!でなきゃ、京アニで命を絶たれたアニメーター達に申し訳ない。。

そう思って、noteをはじめたのが、去年の8月25日だ。

noteで「灯台の光に当たらない者」

でも、noteは、優しくなかった。「メキシコの荒野」だった(*)。

編集部のオススメの常連や、公設及び私設コンテストに入賞したnoterには、noteは、優しい。いや、優しく見える。それがいわゆる「noteの真ん中」なのかもしれない。

最近、note内で、私設&公設コンテストや企画等で、noter達が「評価される」機会がいろいろあった。その流れで「良いnoteを書くため」の類いのnoteが目につくようになる。プレッシャーになる。このままのスタイルで書いていいのかなと思ったり、自信を失い、凹むnoterが出てきても不思議じゃない。

そういう私も、コンテストに参加して勝手に凹んだ経験がある。白状すると、私は、以前、あるnoterの私設コンテストに応募した。別に準備もせず、思わず参加した。

コンテストの結果発表後、twitterで、そのコンテストに入賞しなかったnoterが不満を言っている、ようだった(私は、twitterのアカウントを持っていないから、主催者の方のtwitterでみた)。

その中のやりとりで、(主催者ではない)noterが「灯台の光に照らされていない者は。。」という内容のツイートしていた。明らかにその「照らされていない者」は、入賞していないnoterのことを指していた。これには、まいった。私は、勝手に影に存在する者にしないでくれと思った。もちろん、私は、コンテストに参加した後、結果に対する反省はしても、その不満をどこにも書いたことはない。

それからだろうか、その後の幾つかの私設コンテストで、主催者が全作品に何らかの感想を残すようになったのは。でも、それは、主催者にとって、大変な労力だ。でも、そのおかげで、コンテストから離れていた私も、また、参加してみようかなと思うようになったことも事実だ。

それでも、(コンテストの主催者側がどんなに気に掛けても)いろいろと傷つくnoterもいるのだなということを上記のマリナ油森氏とふみぐら社のnoteで知った。

でも、noteは、「メキシコの荒野」なのだ。

大人の創造を発表する厳しい場だ。それをもう一度、自覚しようと私は思った。そして、その中で、自分の安全地帯を自分で作ることが大事だということを、マリナ油森氏のnoteを拝読して、あらためて感じた。

その安全地帯を作るためには、自分が凹んだ時の、自分のための処方箋を用意しておくことも、大事だと思う。

では、どういう時が、私がnoteで凹む時なのか。まずは、私が「勝手に」noteで凹んだ歴史を話す。

「端っこ」なりに、noteで勝手に凹んだ歴史

noteには、大昔に聞いた「アメリカンドリーム」ならぬ、「noteドリーム」が存在するのも事実だ。

編集部のオススメに入るか入らないかは、noterにとっては、最初の壁だろう。

はっきり言う。最初は、編集部のオススメも、全く気にならなかった。ただ、編集部のオススメのカテゴリーに「アート」がないのは、若干、不安になったのも事実だけれども、書くだけで満足していた

でも、やはり、最初に私がnoteで凹んだのは、編集部のオススメ関連の出来事だった。

自分が渾身の力を込めた(数万語レベルの)アート系noteと全く同じトピックで、ある方のnoteが「編集部のオススメ」に入っていて凹んだことがある。凹んだ理由は、単に自分が選ばれなかったからではなく、noteで求められるアートの記事ってこれなのかと、ある意味ショックだったからだ。その方のnoteは、とても素敵だったけれども。(その詳細は、関係者の方々のご迷惑になるので避ける)。

その時が、はじめて、noteで「評価された」気持ちになった瞬間だ。それから、noteでウケるアート系の記事ってこれなの?と気になりだした。書くのが楽しくなくなった。

でも、気がつくと「編集部のオススメ」に選ばれるnoterは、意外と「編集部のオススメ」の常連だったりすることに気づく。それをnoteの「真ん中」と考えると凹む

その後、noteの街に住んで11ヶ月あまり、コンテストは、私設&公設いろいろ参加した。現段階で、入選したことはない。コンテストの主催者にフォローされたこともないし、「真ん中」ではなく、「圏外」に存在しているように思うこともある。でも、それを「選ばれている立場」とか、前述の「灯台の光に当たらない」とか考えると凹む

コツコツと長い間、noteを書いていても、なぜか「真ん中に入れない人」。最近noteを始めたばかりでも、いきなり「真ん中に入れる人」。私も、自分が「端っこの存在」だと考えると凹む

noteで凹んだ時の私の処方箋

そう、これらの処方箋は、ひとつ。無視すること。

自分が○○考えると凹むことは、無視すればいい。noteや他人に凹まされてたまるものか。だったら、考えなければいい。

だから、私は、「編集部のおすすめ」をみない。ダッシュボードもみない。「端っこ」にいることも無視している。凹むこと全部、事前に無視だ。

でも、世の中「無視する」ことが簡単じゃないことは、知ってる。

noteで書いていること自体が「発表したい」という前提の人もいると思うからだ。確かに、書いているだけならば、別にnoteで書かなくてもいいし。紙に書いていればいいし。

無視する以外に、何か方法はないか、いろいろ考えた。

まず、「端っこ」から「真ん中」へボールを投げる時(コンテストの参加する時)に、自分を高校生と考えるようにした。具体的な例は、以下の通りだ。

最近、私は、某私設コンテストに参加した。その時の最善を尽くして書いたけれども、すでに結果は、みえていた。

その処方箋として、「端っこ」にいる自分がコンテストに参加するという行動を「他校の文化祭に参加する」と認識した。しかも、その勝手な自分の認識をnoteで書いた。そして、そのnoteに、主催者の方へ参加させていただいた感謝を伝えた。

主催者の方は、素晴らしい方で、周囲のサポートの方々も優しかった。

つまり、某高校の私が、友達が全くいない他校のヒーローが主催する文化祭に参加すると考えた。つまり、他校のヒーローやヒロインに感想を書いていただけるだけで、結果オーライということだ。だから、「あそこの高校は、やはり、うちと違うわ〜」ですんだ。友達も出来た。とても楽しかった。

それでも、noteの私設だろうが公設だろうが、コンテストや企画に参加して、自分が凹んだ場合、どうするか。

一人でリセットするための儀式をする。自分のためだけの儀式。人には迷惑をかけない(と思う)。

例えば、コンテストの主催者にnoteでフォローされなかったから、その方のフォローを外す(これで立場は、リセットされる)。最近は、最初から媚びを売っているようで嫌だから、応募条件に入っていなければ、コンテストの主催者のフォローも最初からしない。それが応募の流儀のような気がしている。そうすれば、最初から立場は、フィフティ・フィフティだ。

フォローを外すことで、note内で「審査する」「審査される」の立場をリセットする。ただし、これは、自分が凹んだ時のおまじないみたいなものだ。感情的な行為ではない。自分のための心の処方箋だ。

中には「今度またじっくり読みます」というような社交辞令的な感想をいただくこともあるだろう。それでも、フォローされていない、読まれていない、と思えば、その方のフォローを外す。だって、あちらもフォローするしないは、自由だし、こちらも同じだ。みんなそれぞれの「事情」や「理由」がある。大人の世界だ。

私もあまり強いことは言えないけれども、自分の価値を決めるのは、他人の評価じゃない。相手が評価しないなら、そこから去ればいい。公認noteのコンテストに対しても、悔しければ一時的でも「note公式」のフォローを外してもいい(お知らせ等があった時に困るけど)。

その後、またその方々のフォローを出来る機会は、あるだろうし、「端っこ」がフォローしなくなっても、全然影響ないはずだ。だって相手は、「真ん中」にいるんだから。「端っこ」だって、プライドはある。

それに「端っこ」がいつ逆転ホームランを打つかわからない。その時は、笑ってやる。で、打てないなら、マリナ油森氏のおっしゃる通り、遊んで「楽しんで」楽になってから、もう一度打席に立ってみればいい。それくらいのスタンスでいいんじゃないか。

ただし、誰もがホームランを打てるわけではない。それが世の中だし。。そうnoteは、メキシコの荒野だから。それを自覚しよう。私なんてSNSもやっていないから、荒野の中でも最も人がいないところで生きている。

でも、打席に立とう、打ち続けよう。。と私は思っている。

なぜなら、noteの打席に立つことは、自分の文章を磨くことになるからと、私は信じているから。

そして、基本は、やはりnoteで楽しく書くことだ。

自分の安全地帯をnoteでつくる

それでも、noteを書いていると、楽しく自由に書けなくなる時がある。

例えば、他の方の人文&社会科学系のnoteを読むと、それに対する様々なコメントをみかける。

その中には、厳しい表現のコメントもある。「?」のコメントもある。読者側も研究している方々が多いのだろうと思う。そうなると、コメントもそれなりに多種多様になる。その考えが正しいとか、間違っているとか、別として。無視しているnoterもいれば、スマートに返答しているnoterもいる。私ならばどうするだろうと考える。

このあたりは、前述のマリナ油森氏の別の、名note『無自覚な悪意との戦い方』につながっていくんだろうと思う(全てのnoterの必読noteだと思う)。

私も、個人としての旅noteと、研究者としての人文系(美術系)noteは、言葉を変えているが、とくに後者のnoteは、楽しく書くことが難しい。

例えば、毎日更新している私が責任を持てる1日の文章は、3000文字が限界だ(このnoteは、かなり時間をかけているから8000文字前後)。となると、3000文字でも、私にとっては「少しずつ書いている」感がある。

記事の中で、続きの元である過去のnoteをリンクしたり、「続きは、また。」と書いていても、それが伝わらないことがある。読者がそのリンクに飛ぶかどうかは、自由だから。

あるいは、自分が書いた文章が、思いも寄らない形で不本意に伝わることがある。私のnoteを、読者の方が、どう思われようが自由だし、私の日本語能力の欠落なのかもしれないけれども。

各自の作品(note)は、もっと自由に書きながら変化していってもいいと思う。

問題は、自分のために書いているのか、どう思われようと思って書いているのか、だ。私の場合、後者を意識しすぎると、私の本来の目的である「楽しく書く」ということが出来なくなる。

なかなか、これに関しては、前述の「無視する」という処方箋は、効かない。自己満足とかそういうのじゃなくて、何だろう、自分のnoteが自分の安全地帯でなくなる。構造的な対策が必要なんだと思う。それには、試行錯誤して書き続けるしかないけれども、正直、楽しくない。ワクワクしない。

そんな、noteを書くのが楽しくなくなった時は、どうするか。

その時は、noteの面白そうな個人企画に乗らせていただく。企画の主催者に感謝しつつ、参加した後、結果は、関係ない。ひたすらに、楽しく書かせていただく。そんな、元気になるような企画をしてくれるnoter達には、感謝しかない。

そして、元気になって、また、書きたいものを書いて、自分の安全地帯をnoteで作りながら、また、打席に立つ。今は、それでいい。

noteで存在することは、「メキシコの荒野」で安全地帯をつくり、自分の看板を上げ続けることと一緒かもしれない。

想定外の展開だけれども、楽しむが勝ち。


NOTE:
*マリナ油森氏が教えてくださった「メキシコの荒野」の言葉の由来である伝説のnoteは、こちら。

*ヘッダー画像の「荒野」は、メキシコではなくペルーだそうです。みんなのフォトギャラリーよりYO氏からお借りました。ありがとうございます。


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noteのつづけ方