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溝口敦 鈴木智彦「教養としてのヤクザ」(小学館新書20191008)

1992年にできた暴対法がなかなか難しい法律とは知りませんでした。ヤクザを長年取材している著者によると、ヤクザとの交渉で意外に効き目があるのは「表現の自由」だそうです。

憲法21条に規定してある「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」がヤクザもよりどころとする権利。結社の自由なんだそう。暴対法は結社を認めていることがポイント。そもそも違法でアウトローな人たちなんだから法で守られていることの方が疑問だけど、日本法では認めてしまっているわけです。もし香港やイタリアならば、結社そのものを認めないところを暴対法は認めている。

その後、2004年に福岡で最初に成立した暴排条例は、暴力団を理由に排除しても差別にはあたらないということを確認した画期的な出来事でした。2010年以降一気に全国に広まったのですが、この暴排条例は暴力団を結社として認めた暴対法と矛盾しないように条例として法より一段低いものとしなければならなかった。

暴力団員にも生存権や生活権はあるけれども、暴力団という組織から抜ければ、暴力団員ではなくなるから排除したとしても差別にはならないという判決もあります。暴排条例はこれでいいのです。

2人の著者、溝口敦さんと鈴木智彦さんがいなければヤクザという世界を知ることもできないが、おそらく2人はヤクザに何か違うものを見ている気がします。憧れというか、遠い昔に絶滅して失われた生き物というか、つちのことかネッシーとかUFOのようなもの。

溝口さんなんてヤクザに刺されてもヤクザを書き続けるのですから。

暴力を背景になんらかの影響力をもたらし、交渉を有利にする人たちは、自由と権利を尊重する近代の民主主義の考え方の外にいます。この人たちが存在し、影響力を及ぼすということで、ルールは乱されます。差別の構造的には社会が産んだ鬼っ子。社会のリコンストラクションと資本の再分配でしか虐げられた人達はいなくならない。資本の再分配をなすことが困難だろうと思います。ヤクザはなくならないという言い方もできそうです。

本書で紹介するエピソードで、懲役にいくヤクザが入れ墨を急ぐという話がありました。枠だけでも入れておく。刑務所は入れ墨があると一目置かれるそうです。

入れ墨お断りの施設が増えていますが、そうでない施設には入れ墨の占有率はかなり高い。都内のジムですが、意外な雰囲気の人が意外な入れ墨をしていたり、そのまんまヤクザな雰囲気の人がヤクザっぽい入れ墨をしていたり。入れ墨は体に固定する物差しなので、太ったりやせたりと体重管理を間違うとみっともない「絵柄」になるそうで、入れ墨の人達はかなり一生懸命に筋トレに励みます。そういえば昔の笑い話に、昔の銭湯でおじいさんが入れ墨をしょっているんですが、余りにしわくちゃでもはや生き物だかなんだかわからなくなっているなってのもありました。

ラグビーワールドカップでも入れ墨を隠さない選手が多かった。大衆の認知度や価値観もある時点で逆転する可能性があるので、入れ墨の「普及率」についてもこれから目が離せませんな。ちなみに、入れ墨があると生命保険の掛け金がむっちゃ高くなります。


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