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ぼーっと古代史【コラム】

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古代史の謎をぼーっと考えたエッセイマガジンです! 邪馬台国の方角と距離・百舌鳥古市古墳群・三種の神器の謎などなど。
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記事一覧

源平の時代うそホント【4】〜歴史ナナメ解説〜

12)「屋島の戦い」のうそホントしかし、時代は勝手に回り始めていました。 1184年9月、頼朝の命を受け平氏討伐に向かった範頼軍が、遠征先で手こずり兵糧がつき始め、援軍を必要としていました。そうなると、京にいる義経に再出馬願うしかありません。 1185年1月、頼朝からゴーサインをもらった義経は、頼朝の信頼を勝ち取ろうと必死に戦いに向かいます。義経は、「自分が大きな武功を挙げることこそ、頼朝さまの信頼を勝ち得るんだ」と信じ込んでいました。 敵は讃岐「屋島」にいて瀬戸内の制海権

源平の時代うそホント【3】〜歴史ナナメ解説〜

8)飢えた義仲、飢えた京に入る そんな最中、清盛が熱病でこの世を去ってしまいます。 人々は「仏を焼いた祟りだ」と噂しました。 一方、北陸から怒涛の如く押し寄せた木曾義仲軍。 平氏にとっては、清盛も死んじゃったし南都の焼き討ちで周囲からは悪人呼ばわりされるし、ボロボロ。 義仲が来る前に、「これはヤバい、出直そう」と京都から逃げてしまいました。 てことは、京に敵はおらず、拍子抜けの義仲軍。 ここで義仲の兵は、京の町で乱暴狼藉をはたらき大混乱に陥れるわけですが、ちょっと彼らを擁

源平の時代うそホント【2】〜歴史ナナメ解説〜

4)以仁王 でかい爪痕を残す後白河の子・以仁王も、清盛の横暴さの犠牲者になりました。 翌年の1180年、たまりかねて彼は平氏追悼の「令旨」を出します。 以仁王がそれまでおとなしくしていたのは、自分は現天皇の弟なので 「もしかしたら次期天皇は自分かも?」 と淡い期待があったから。ところが、自分の領地を召し上げられただけでなく、清盛がヨチヨチ歩きの自分の孫を天皇にしてしまったから、 「なんだよ、赤ん坊やんか!バカやろー」とブチキレたわけです。 以仁王の作戦は、反平氏派である仏教

源平時代のうそホント【1】〜歴史ナナメ読み〜

今、私は某出版社から近々刊行される「まんが日本の歴史<平安時代編>」を描いています。 数年前には「まんが日本の歴史<奈良時代編>」までを集英社から出させていただいたので、日本の旧石器時代から鎌倉時代前夜までを、一応連続してマンガで網羅したことになります(笑)。 そこで、今回はあの有名な源平時代の最近の歴史解釈について、以前教科書で習った内容とぜんぜん違ったりする部分もあったりして、ちょっと意外で面白いので、お話ししたいと思います。 そういえば、鎌倉時代の開始年も「いい国(11

邪馬台国畿内説を考える

先日、佐賀県吉野ヶ里で「よみがえる邪馬台国」というフォーラムありました。 聴講してきて驚いたのは、登壇された先生3名のうち2名は、「邪馬台国は大和にあった」と考えておられる点。吉野ヶ里という九州の地のフォーラムにも関わらずです(笑)。 一般に歴史学・考古学の先生方は、どうも「邪馬台国近畿説」支持が圧倒的で、 もはや当然の事実のように扱われているようです。 一方、一般聴衆の90%は「邪馬台国九州説」を支持。YouTubeなども観ますと、半数以上がやはり九州説。 つまりおもし

金閣寺から邪馬台国を導く 〜金閣寺と巨大古墳ミステリー

今回はちょっと変わった視点から古代史ミステリーを語ってみたいと思います。 まだ誰も言ったことのない、バカ言ってると笑われるかもしれませんが、 ちょっと耳を傾けてください。 ひょっとしたら、この発想が邪馬台国の場所を特定するカギになるかもしれません。 ●金閣寺と大仙陵古墳は同じ意味で作られたーーー 日本が世界に誇る2つの建造物。 時代が違うこの2つですが、おそらく両方同じ意味で作られました。 「そりゃ両方とも、権力者が権威を示すために作ったんでしょう?」 確かにそう

諏訪大社 〜知られざる縄文vs弥生の戦い〜

先日、長野県諏訪へ行ってきました。 目的は諏訪大社。大社のパワーを浴びたくなって数年ぶりに訪ねてみたのです。 Ⅰ 一言で諏訪大社と言っても、上社(本宮・前宮)と下社(春宮・秋宮)の4社に分かれています。 その中でも最も古い社は前宮。 小ぶりながら、実はこここそが最強のパワースポットでもあり、諏訪の奇遇な歴史、いえ日本の裏歴史を知る貴重な場所と言えます。 御神体は、背後にそびえる守屋山。 御神体が山というのは奈良県の大神神社と同じ、最古の神社形態をとっています。 Ⅱ そし

「大和」と書いてなぜヤマトと呼ばれるの?〜邪馬台国と大和〜

久しぶりに「ぼーっと古代史」を載せます。 「大和」と書いて、なぜヤマトと呼ばれるようになったのか? 呼び慣れちゃってるから、不思議に思った人は少ないかもしれませんが、 なぜダイワじゃないの?「ダイワ朝廷」とは呼ばないのはなんで? 実はこれには、面白い裏歴史があるとみて、検証しました。 では、行ってみましょう! まず、日本の昔の国名、「倭国」について考えてみましょう。 古代中国は、周辺諸国の固有名詞をみんな卑しい漢字で表記しました。 「東夷」の夷も、「卑弥呼」の卑も、「邪馬

4拍手する神社〜出雲大社 宇佐神宮 弥彦神社ミステリー

●4拍手する出雲大社マンガ家のあおきです。今回は神社の拍手のし方から、予想もしない方向へ話が展開しそうです。ちょっとびっくりするかもしれません。 さて、神社のお辞儀の作法はご存知ですよね? 2礼2拍手1礼。どの神社でも2拍手しますが、あの有名な島根県出雲大社だけは、なぜか『4拍手』することになっています。 なぜ4拍手なのか?その理由を神職の方に聞いたことがありますが、はっきりしたことはわからないとのこと。 古代では特に言霊を大切にするので、「4」という発音は縁起が良くあり

消えた銅鐸の謎 1

今回はマイナーな(?)銅鐸について書きました。 が、調べていくうち意外なことに、古代史の重要な謎が すんなり解けていくではありませんか! よろしかったらお付き合いください。 1〜2章は主に世間で言われている定説、 3章以降は私の視点でお話ししています。(全6章) 【1】銅鐸とはなんだ? 【2】銅鐸はガラパゴス 【3】銅鐸は雨乞いの祭器だ 【4】銅鐸はなぜ忽然と消えた? 【5】ヤマトを建設したのは誰? 【6】銅鐸の神は今に生きている 古代史の中で、知る人ぞ知る大変なお宝があり

消えた銅鐸の謎 2

【2】銅鐸はガラパゴス 銅鐸の起源は、中国古代国家「越」の銅鈴、 または朝鮮半島の小銅鐸からきたと言われています。 呪術師が衣装につけ、鈴のように鳴らし、祈りの儀式に使ったようです。 しかしそれが日本に渡ってくると、みるみるガラパゴス化。全く独自の進化を遂げていくのです。 銅鐸のルートをざっくり説明しましょう。 紀元前3世紀頃、まず北九州に伝わった小銅鐸ですが、なぜか九州では定着せず、 出雲の地でサイズが大きくなり、本体に文様や絵画が描かれ、使い方も含めて独特の発展

消えた銅鐸の謎 3

【3】銅鐸は雨乞いの祭器だ もともと銅鐸は、豊作を祈る祭器として使われた、と先ほど申しました。 「鈕(ちゅう)」と呼ばれる輪っかにヒモ数本で木などにぶら下げ、巫女や村長が「舌(ぜつ)」を使ってカンカンと鳴らし、 ムラに平和と実りをもたらすよう祈りました。 ただ、ここまではほぼ定説ですが、誰にどう祈る儀式だったのか?詳しいことまではわかっていません。 以前放送されたNHKの歴史番組では、角田遺跡(鳥取県)に残された土器の絵を参考に、 2個の銅鐸をこのように吊るし鳴らしたの

消えた銅鐸の謎 4

【4】銅鐸はなぜ忽然と消えた? さて、ここからはやや妄想の域を出ないかもしれませんが、お聞きください。 先ほどからも触れていた謎ーーなぜ忽然と銅鐸は消えたのか?を検証します。 銅鐸は、みな不思議と集落から離れた、小高い丘陵の斜面に埋められていました。 入れ子状態で丁寧に埋めたもの、わざと丁寧に割って埋めたものなど様々です。 が、彼らは本当に外敵に敗れて、あわてて銅鐸を捨てたのでしょうか? 下のグラフをご覧ください。 これは、総合地球環境学研究所(京都市)の中塚武教 授

消えた銅鐸の謎 5

【5】ヤマトを建設したのは誰? 銅鐸の民は、 こうして纏向で興ったヤマト政権のなかに組み込まれていきました。 さて私は、さきほど西から来た民がヤマト政権を築いたと話しました。 が、それは西の民が単純に北九州の一族のことだとは思っていません。 なぜなら、纏向の最古級の前方後円墳(石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳)には、 「銅鏡」が1枚も出土していないのです。 副葬品として銅鏡が出土するのはホケノ山以降の古墳。 九州王の墓だとしたら、これはおかしい。 なので