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不在霊と遍在霊、バーチャルシンガーと存在価値

体験するということ
その狭間にそれは存在している

null-geist [ヌル・ガイスト]=不在霊

思い出すということ
その狭間にそれは存在している

para-ghost [パラ・ゴースト]=遍在霊

二冊の新刊の商品説明に、以上のように書いた。
ここに三つの「在」を組み込んである。「不在」、「遍在」、そして「存在」がそれである。
不在は、いないということ。
遍在は、遍く(あらゆる場所に)いるということ。
では、存在とは何だろうか?

三つの「在」の関係を、私は以下のように捉えている。
まず、帯状に切った紙片を想像してもらう。その両端にそれぞれ、「不在」、「遍在」と書き込む。それから中心に「存在」と書き込む。
不在と遍在は対極にある。その中心に存在がある。
最後に帯の端と端を留めて、輪を作る。
つまり、不在と遍在は対極にあるのだけど、同時に重なり合う同一のものでもある。そして、その点と最も遠いのが、存在である。

観念的な話はここで一旦置く。
「存在」という言葉の意味は、ここ数年でかなり劇的に変わったという印象がある。意味というか、手触りと表現してもいいかもしれない。
私が思考の端緒として想定しているのは、Vsingerのライブである。
Vsinger、いわゆるバーチャルシンガーのライブ風景は、ここ数年でメディア等でもよく見るようになった。スクリーンにアバターを投影して行うライブは、従来的な感覚からすると奇異な光景に見える(Vsingerとは少し違うけれど、話題になったadoのライブへの年長世代の反応を想起しよう)。
直感的には、このように思える。スクリーンに投影されているものを見ているというのは、画面越しと何ら変わらないのではないか。そこには、同じ場を共有しているという確かさがない。「ライブとしての価値」がそこにはないのではないか。
でも恐らくそれは逆である。
そこでは、「ライブとしての価値」は「演者がそこに存在する」ということだけに純化されている。体は投影されているアバターであり、声は音響機器を介しているのなら、それが「ライブ」であることを証するのは「演者の存在」、「(それでも)存在しているということ」だけである。だから、そこにいると証することができないゆえにこそ、彼ら彼女らがそこにいないということはあり得ない。「存在」だけが価値なのだから。ごく当たり前のことを言うようだが、彼ら彼女らが「不在」のとき、「ライブ」は成立しないのである。話が一周するようだが、結局これはほとんど観念的な問題であるとも言える。
vtuberに払われるスパチャ、いわゆる投げ銭というのは、基本的には「配信者が提供する創作物(曲や映像といったような)への対価」ではない。ではそれは何なのかと考えると、「存在への対価」、「存在してくれることへの感謝」という面が少なからずあるように思える。
この仮定に関係して、彼ら彼女らが生配信を主なコンテンツにしている理由もよく分かる。そこでは、同じ時間を共有すること、「今この瞬間」という唯一性が賭けられている。切り抜き動画という複製品が溢れればこそ、逆に「今この瞬間」を共有することの意味は高まってゆく。「ライブ」の価値、「存在」の価値は、それが唯一のもの、そこにしかないものだということである。
インターネット以降では、何度でも繰り返し再生でき、如何様にでも複製できるものが増えすぎた。だからこそ逆説的に、レプリカやコピーでないオリジナルの価値、「存在」の価値は増していく。

以前には、vtuberというのは幽霊的な存在なのだと考えていた。
配信者から「人間くささ」、「人間らしさ」を脱臭したものだというイメージがあった。しかし、今にして考えるとそれは逆だったということが分かる。そこでは価値は「交換不可能な唯一の個人の存在」という尺度に純化されている。「前世」とか「魂」といった言葉が選ばれることは偶然ではないだろう。それはvtuberの世界における価値尺度そのものだ。
先に帯で作った輪の両端に、「不在」と「遍在」を書き込んだ。
不在とは何か。
それは、存在しないということである。
遍在とは何か。
それは、コピーやレプリカとしてあらゆるところに存在が横溢しているということである。
このふたつの性質は「空気」のようなものである。
空気はあらゆるところに存在していて、それゆえにふだん存在をほとんど意識させることがない。認識や認知の上では、存在していない。この点において、不在と遍在は重なり合う。

超常体験のひとつの定義は、それが再現(複製)不可能な体験である、ということだろう。先の議論を踏まえると、では超常体験は「存在」なのか、という話になる。これは違うと私は考えている。
「存在」の特徴は、それを紐帯にして多数の人がつながり合えるような、共有可能な唯一性だということである。Vsingerのライブを再度イメージしてもらえば、このことはすぐに理解できるはずだ。さらに指摘しておくと、この性質はイエス・キリストやブッダから連綿と続くものである。
対して、超常体験とは、体験者を他者と切断する唯一性のことである。他者と共有不可能であり、それを体験したことによってぶっつりと世界と絶たれてしまうような唯一性。いや、それは存在をすら否定する性質なのだから、唯一性という言い方は正しくない。それはあえて言うなら「唯ゼロ性」のようなものだろう。そしてこれは、「不在」の性質そのものである。
そして、そんな「不在」は、言語の網目から零れていくものとして世界のあらゆるところに「遍在」している。言語によって捉えうるものは実は世界のごく一部であって、むしろ世界はそこから逃れようとするノイズに充ちている。
怪談とは、そのことを記述しようとする運動なのではないか。


というようなことを踏まえて、新刊のタイトルはつけられた。
……わけではないが、「不在霊」という概念をめぐる考えは『エニグマ』のころから私の中にずっとあった。だから、今回の本を作ると決めたとき、まず出てきたタイトルは、不在霊、ヌル・ガイストであった。
二冊作るというアイディアを真剣に検討し始めたとき、当然、このヌル・ガイストと対になるような一冊を、と考えた。
不在の対になるのは何か?
「存在」ではない、というのが、私の直感であった。
帯を作ったとき、不在と存在はうまく重ならないように思えた。
ここまでずっと書いてきたとおり、いま「存在」という言葉には、「かけがえのないただひとつの対象」を指す性質がある。「不在」のあてどのなさ、果てのなさに対して、それはうまく対応しないように思えた。
不在に存在を対置しようとすれば、それは無数のパラレルワールドに並存しているような──『エブリシング・エブリウェア・オール・アト・ワンス』や『アクロス・ザ・スパイダーバース』のような──イメージになる。
そこから遍在霊、パラ・ゴーストというイメージが生まれ、これはヌル・ガイストの裏側にぴったりと縫い付けられた手ごたえがあった。縫い付けられて、帯は輪になった。
あとは実際の本を手にしてもらえれば、ここに記したことの意味は伝わるかと思っている。


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